「光の情景」
作/こたつむり
〈第2章〉8p
関沼先生というのは助教授だそうだ。通常は他の大学に行っている。由有子の通うT大には受け持ちの講義の時だけ来るらしい。そのくせ由有子の大学でも人気者で、彼の講義を受けた事のない学生でも、その存在を知っている者が多いというから、私も単純にどんな面白い講義をするのか興味があった。
その日は、新学期(後期)が始まって、二回めの講義という事で、学生も真面目に参加している者が多い。もっとも短大の講義しか知らない私には、受講者の数は少なく思えた。
はじめの内は、先生に対する好奇心と、身分を偽って受講しているための落ち着かなさもあって、やや緊張していたのだが、そのうち、仕事の疲れと前夜の寝不足のせいで、何度もウトウトしかけてしまった。
悪いが心理学の講義など、私には全然わからない。どうやらこの講義と先生の人気も、心理学生には当然の事なのかもしれないが、毎日、一秒も惜しんで慌ただしく働いている私には、ただ聞いてるだけの九十分は長すぎた。そのうち顔さえ見ればいいか……という気持ちになってしまった。これではわざわざ講義を見に、会社を休んで来た意味もない。
「僕の授業は退屈だったでしょう」
後で、大学からちょっと離れたレストランで、三人そろって昼食をとる段になると、先生はニヤニヤしながら、私にそう言った。
「いえ、そんな事はありません。スイマセン、眠たそうにしてしまって……」
私もニヤニヤしながら答えた。授業が終わって、由有子と教場を出てから、紹介されたわけだが、始めから、先生には二十歳近くも年上という感じがなく、気さくなムードがあって、レストランに来るまでの間、すっかり打ち解けてしまったのだ。確かに不思議に人を引き付ける人ではある。
「今日の話し、わかった?」
先生は、今度は由有子に聞いた。
「ええ、わかったつもりでいるんですけど……」
「わかっているよ。君のレポートが一番出来が良かった」
由有子の言葉に追いかぶさるように、先生が言う。
「レポートって、前期の試験?」
と、私が聞くと、由有子は、
「ううん、去年のよ」
と答えた。
「去年?」
私がびっくりして聞き返すと、先生は笑った。
「そう、今日の授業、彼女は去年単位をとっているんですよ」
「え? じゃあ……」
と私が驚いていると、由有子は笑いながら、
「そうなの、私、今年は関沼先生の授業を取っていないんもんだから、去年取っていたのと同じのを、ひさに聞かせちゃったの」
と答えた。
「なんだ、じゃあ由有子も盗み聞きしてたのね、今日……」
私は、自分一人だけドギマギして聞いていたのがおかしくなった。
「そうなの、でも私も去年、こんな事習ってたなあ……と思ったわ。今年の方が受講生も多いし、みんな真面目だったわ、去年の私たちに比べて」
そう言う由有子を見つめて、先生がニコリと笑った。
「いや、彼女の方が成績優秀だった」
ふーん、なるほど、いい人じゃあないか、それに確かに先生の大きな目で見つめられると、ドキドキしてしまう。ステキな男性でもあった。先生は私と目が会うと、
「細川さんに聞いていらっしゃると思いますが……」
と、早速本題に入った。
「僕は、彼女に今すぐどうこうといった結論を迫っているわけじゃありません。……ただ、この手の話しというのは、なんというか、若い人のように、いつか話せばいい……という余裕が、僕のような人間には立場上許されない面があるんです。僕もこの年になって独り身なんですが、大学において教育者の立場にいる人間が、一人の女子大生と特別に親しい……という事は、なかなか世間に寛容には見てもらえなくてね」
そう言って彼は、テーブルの上に指を組んで両手を置いた。チラッと横目で注文を取りに来たウェイトレスを見たんだが、そういう時の眼光が実に鋭い。授業でも感じたんだが、講義をしながら、黒板から視線を学生の方に移す時、ジロリと睨みつけるように見える。一瞬、彼の視線を受ける学生が、緊張するのがわかる。しかし、癖なのだろう。決して睨んでいるわけではない。
ウェイトレスが注文をとり終わると、彼は話しを続けた。
「まあ、ただの生徒と割り切ってしまえる相手なら、僕らにも、このくらい親しくしてもいいといったラインがあって、それ以上は、立ち入らないし、立ち入らせない」
この先生なら、以前、由有子が言ったように、女生徒などから、かなり熱い視線を送られているのだろう。しかも独身なのだ。むしろ、
「立ち入らない」
より、
「立ち入らせない」
事に気を配ってきただろう……と納得してしまった。 とかく女子大生なんてのは、甚だ危なっかしい精神状態でシブイ教授の取り巻きをやってるのだから、どこからそれが原因で、後ろ指をさされるようになるか、わかったもんじゃない。
「ただし彼女は別」
はっきりと先生は言った。内心、我が親友ながら、あながち悪い気がしなくもない。
由有子は別よ。私も心の中で同調した。そんじょそこらの女子大生や、あぶなかっしいミーハーのファンと一緒にされたんじゃかなわない。先生の見識は正しい。先生の話しは続く。
「彼女に、どのゼミを選ぶかの相談を受けた時、彼女が臨床心理の方を取るか、社会心理の方を取るか……といった選択の時点にいるのを知って、
『なんで今さら、臨床と思ったの?』
と僕はまず聞きました。三年の選択の時に、ある程度どちらか決めている人が多いし、社会と臨床じゃあ、随分とその質が違う。それに大学ではどちらかと言えば、社会心理の方が毛色が濃くて、殊更に臨床と言うからには、何か、それ相応の将来でも考えているのかな……と思ったんです。
そのうち彼女が、就職すべきか、学問を続けるべきか、といった、結構真面目な悩みをかかえているのがわかった。これは、こっちも真面目に聞いてやらなければならんな……と思った。それで、僕はこう言いました。
『ちょっと古い考えかもしれないが、女の人は、いつか結婚して子供を産んで育てなくてはならない、という線がどうしてもある。それを今、具体的にいつごろまで……と決める事は難しいかもしれないが、二十五才くらいまでに結婚したいと思っているのなら、大学院に行くのは、あまり意味がないかもしれない』
ってね……。大学院に行くでしょう? すると、そこを出るのは、彼女が二十四才の時です。それまでに相手が見つかっていて、後は結婚するだけ、という段まで漕ぎついていたとしても、その後結婚して、三年以内に子供でもできてしまえば、大学院で学んだ事は生かせない。そうでしょう? 大学までなら、自分の満足や、精神的な成長のためだったり、就職のためだったりしても通るだろうが、大学院まで行かせてもらうからには、その先の自分の人生になんらかの役に立つ程の目的があってしかるべきだからね。すくなくとも、僕はそう思う……と言ったんです。
ちょっと厳しい事を言ったかな……とも思った。実際、そこまでキチンキチンと考えている学生ばかりいないからね。ただ、僕の所に聞きにきたからには、それなりにちゃんとした事を言う必要があると思ってね」