「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉6p
 
  去年の夏。そう、その時私は彼女と一緒ではなかった。勿論、私が一緒に行っても、私のいる前で入沢が由有子にプロポーズするはずもないが……、とにかく私はこの一年、入沢と由有子の事は何も知らされていない。でも去年の夏の事なら、いくらなんでも言ってくれた筈だ。とすると成人式の日か。成人式に多忙中の無理を押しても来たんだから、ひょっとすると、彼女が成人する日を待ってたのかもしれない。しかし、それにしても、日が経っている。あるいは電話で……。
  とにかく、これは、重大な事だ。かつ、こんなハッピーな事があるだろうか。あの入沢とこの由有子が。私の胸の中で、この時、何か一斉にファンファーレでも鳴り響いたかのような感動が巻き起こった。
「おめでとう。ステキだわ。良かったじゃないの」
  私は思わず由有子の手を握りしめてしまった。ところが由有子は、身動きひとつ、まばたきひとつしないで、じっと私を見つめている。相変わらず熱のこもった潤んだような目をしている。
「私、結婚した方がいいかしら……」
「え? どうして?」
「………」
  由有子は黙り込んだまま。急にうつむいた。何だろう。何だかおかしい。うれしくないのだろうか。
「ねえ、会ってくれないかしら」
「え? 私が?」
  と聞くと、由有子はコクンとうなずいた。
「入沢君に?」
  すると由有子は、再び私の顔を見た。そしてスタスタと歩いて行って、ベッドに腰掛けた。私も机の椅子を引いて腰掛けた。由有子はちょっと溜息をついた。
「健ちゃん……そうなの、健ちゃんにも聞きたいと思ったんだけど、でも今年は会えないみたいだし」
「聞きたいって?」
「結婚の事。でもこれは私の問題なんだし、健ちゃんにこんな事相談した事ないし」
  私はガクッときた。空気でもつかまされたような気分だった。プロポーズしたってのは、じゃあ誰なんだ。入沢じゃあないのか。よく考えたら、入沢はまだ医学生なのだ。それにしても入沢以外の男が、図々しく由有子にプロポーズなんかするなよ……と思ったものだ。私はクラクラしながら、
「おめでとうと言ったのは、ちょっと忘れてくれない? つい、そう言っちゃったけど、結婚っていったら、そんな簡単な事じゃなかったわ」
  自分の勘違いをかくしてそう言った。
「ところで誰なの?」
  私はまずそれを確かめる必要があると思った。
「あの」
  と言って由有子は詰まった。
「おこらないでくれる?」
  と続いて私に聞いた。
「何故?」
「あの……あのね、関沼先生よ」
「せきぬませんせい?」
  誰の事だろう。
「前、話した事があるわよね」
「あ!」
  思い出した。例の由有子のあこがれの教授ではないか。
「ひさ、私、ひさに会ってもらいたいんだけど」
「会うって……だって」
  私は奈落の底に突き落とされたような気がした。
  会ってくれっていうのはどういう意味なんだろう。まさか、由有子はその先生とやらと結婚してやる気があるとでもいうのだろうか。
  とんでもない、冗談じゃない。バカ言っちゃいけない。そういう思いが頭の中を駆け巡りながらも、結局、私は恐ろしい程長い間、沈黙し続けてしまった。
  由有子も黙っている。何から言ったら良いだろう。聞きたい事がたくさん頭に詰まって来てしまったが、容易に口から出て来ない。この二年間……いいや、高校を卒業してからかれこれ三年半、私は、彼女の生活を実際に何も見ていないのだ。
  ついに、私は口を開いた。その先生に関する質問もたくさん頭の中にあったが、今は一番聞きたい事を優先させて聞こうと思った。
「入沢君が北海道に行く時、由有子には何も言っていかなかったの?」
「え? 北海道って? H大に受かった時の事? それともこの前来た時?」
  由有子は突然関係ない話しをされた、という感じに戸惑った。
「どっちでもいいわ」
「何もって? 何を?」
「何をって、その……待っていてくれとか、なんとか……」
  よく考えたら、私と彼女は、恋愛感情について話し合った事があまりない。言いながら自分で照れた。
「待っていてくれ……どういう事?」
「つまり、だから……例えば、結婚しようとかなんとか、そういう話し」
「え? 結婚?」
  と叫ぶなり、由有子の顔は真っ赤になった。
「言わなかったわ」
  と由有子は、もじもじしながら答えた。 私はタメ息をついた。一体、入沢と由有子の関係はなんだったのだろう。今はどうなってるのだろう。入沢は一体どうするつもりなのだろう。
「ねえ、由有子って入沢君の事が好きだったわけじゃなかったの?」
「え? 好きよ。好きだけど……」
「だけど?」
「私、健ちゃんとは、そんな、何も……それに結婚だなんて」
「だけど、関沼先生にプロポーズされたんでしょう? 確かに由有子はまだ二十二才よね。結婚の事を考えるのは早いかもしれないけれど、受けるか断るかだけは考えないと……」
「でも、私、断れないわ」
「どうして?」
「だって、先生は、私の事が必要だっておっしゃるのよ。必要だと思ってくれる人と結婚するのは、悪い事だとは思えないわ」
「いいとか悪いとかの問題より……」
  なんだか、まどろっこしい気がした。由有子のようになんでも自分の事を決められる、勇気と決断力のある人にしては、なんという受動的な考え方なのだろう。信じられなかった。
「じゃあ、単刀直入に聞くわ。由有子は、入沢君と関沼先生とどっちが好きなの?」
  由有子は目を丸くした。なんでそんな事を聞くのか、という表情だった。私には、それこそ重要な事のように思えたんだが、由有子には、私のような考えが理解できないかのように見えた。一体、私のような考え方が幼いのだろうか。結婚とは、そんな考え方とは、又、違う価値観のある所に存在するものなのだろうか。果して、由有子は、そんな事を考えるのは今が初めてのような表情をして、ちょっと考え込んだ。
「どっちも好きよ。でも全然違う意味で……。だって、先生と健ちゃんとは、全然違う人ですもの」
「でも、どっちかって言われたら?」
「そんな……どうすればいいのかしら。健ちゃんのいい所は先生にはないし、先生のいい所は健ちゃんにはないもの。比べる事はできないわ。比べようがないわ、難しいわ」
「じゃあ、全部。いい所も悪い所も全部ひっくるめたら? 由有子は先生の方が好きなの?」
  私はだんだん不安になって来た。由有子は困った顔をしている。私は次第に、由有子の事を困らせているだけ、というような、決まりの悪い気さえして来た。
「そうね、やっぱり健ちゃんの方が好きだわ。だって、あんなに優しい人なんて、他にはいないと思うわ」
  私はようやくホッとした。
「入沢君だって由有子の事を好きだと思うわ」
「そんな……」
  消え入るような声で由有子は否定した。
「でも、ひさ、私だって、健ちゃんだって、いつかは結婚するんだわ。仕方ないと思うの。私がいつまでも子供のまんまでいたら、健ちゃんだって、困ると思うわ。私が売れ残っていたら、健ちゃんだっていつまでも私の事、心配してなくちゃならないでしょう? それで健ちゃんにお嫁さんが来なかったりしたら、私、きっと後悔すると思うの」
  私は由有子の言葉に、一瞬声が無くなった。私は今の今まで入沢と由有子は恋人なのだと思っていた。恋人らしい関係とは言えなくても、いつか結婚する気でいるのだと思いこんでいた。
  そうした固定観念を由有子のその言葉は見事に覆してくれた。由有子の言葉はさらに続いた。
「私だって、ずっといつまでも、こうしてひさや健ちゃんと仲良く暮らしていたいわ。毎日そうしていられたら、どんなに楽しいかしら……。でもひさは就職してしまったし、健ちゃんもお医者さんになろうと思ってがんばっているわ。私だけが子供のままでいるわけにはいかないんだわ。ちゃんと就職するなり結婚するなりして、子供を産んで……。みんなそうしているんだもの。仕方がないわ」
「ちょっと待って」
  私の頭の中はこんがらがって来た。そもそも入沢と由有子はどんな関係だっただろう。……と、思いつく限り、思い出そうとしたが、
「そんな事より……」
  と、自分に言って、話しをなんとか先に続けるために、一度頭に浮かんだ事を消そうとした。ところが由有子は、私の独り言に反応した。
「ごめんね、ひさ。私、ひさが就職した事を、どうのこうの言ってるわけじゃないのよ。立派な事だと思うわ。偉いわ。だから私もひさのように、きちんと自分の将来を決める必要があると思うの。いつまでも、ひさや健ちゃんに頼っていたら、二人とも大変だし、私もダメな人間になってしまうし……」
「いや、私の事はともかく、入沢君は由有子と結婚するつもりだと思っていたんだけど」
  由有子は、自分の事を入沢のお荷物だと思い過ぎてやしないだろうか。それとも、入沢にとって、由有子という女性は、妹以上の存在にはなり得ないのだろうか。私も今となっては、入沢のあの無機的な表情ばかりが思い浮かんできて、由有子に関沼先生との結婚を反対するだけの、強力な裏付けとしての根拠に自信がなくなってきてしまった。


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