「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉2p

  入沢はこの時、大学のサークルの仲間を三人連れて来ていた。一人は入沢の先輩の女性で、一人は同期の男性、もう一人は後輩の女性。由有子から連絡を受けて、入沢の家に行くと、そのうちの先輩の女性だけが彼の家に来ていた。ちなみに、私が入沢の家に行ったのはこの時が二度めだ。彼のH大入学が決まった時以来だった。
「川上美樹です。すみません、お邪魔してまして……」
  と、その女性は、私にも由有子にも頭を下げた。なんと、美人で、かなり都会的な女性に見えた。ハキハキとしている上に、どことなく上品で、実に頭の良さそうな人だった。こういう人が、そのうち、白衣をつけてビシバシ手術なんかしちゃう、女医になるんだろうな、と容易に想像できる感じもした。ところが彼女は、
「それが……だめだったんです。私、解剖……」
  と、屈託なく笑って、舌を出したりする。
「手術でもなんでもビシバシやっちゃって、男性の医師も一目置く外科の女医、なんて、カッコイイなあって思ってたんだけど、先輩の人で、解剖の話しをするのが好きな人がいて……それが、すっごくリアルに話す先輩で、グニャリとか、ドロリとか、擬音つきで説明するのよ」
「げげー!」
  ハナッから私と由有子は、彼女の話しに引きずり込まれた。話しの面白い人なのだ。
「渡辺先輩でしょう? 俺たちも聞かされたけど、解剖は別に……」
 入沢が話しに加わる。美樹は不満そうに、
「『君が今たべてるソーセージより、もっとブットイ腸がね……』ってやられたのよ、私は。匂いの説明まで、そりゃあ酷明に」
 と勢い込んで、私と由有子を脅かしたが、入沢は、
「解剖が近くなったら、聞かされるかもしれませんね」
 と、笑っているだけだ。入沢はこの時で、ようやく一般教養を終えたばかりだった。美樹の話しに出て来るような、エグイ話しを、実際に体験するのは、三年以降の事だそうだ。
「コワイのは、怪談ですよ」
「ああ、聞いた? 入沢君も……」
「俺には、もっぱら、自殺した院生の話しだった」
「窓に白い手が映る話し」
「そうそう」
「入沢君に、解剖の話ししても無駄だって思ったんじゃないかしら」
「どうして?」
「怖がりそうにないもの」
  私と由有子はドッと笑った。解剖の話しはなんともないが、幽霊の話しなら怖がりそうだと、入沢が思われているのは、なんとなくわかる。
  人体解剖というのは、医学生の全員がやらされるんだそうだ。私など、テレビなんかで胃カメラの映像を見させらせただけで、自分の胃がキリキリ痛くなってしまう人間なので、想像もつかない(と言うより、想像したくない)が、つい最近まで、机を並べて、一緒に勉強していた入沢が、もう、そんな医者の事始めみたいな事をやっているのか……と言う気が、改めてしてきた。
「入沢君って、外科医になるのかしら」
  私は、つい入沢がメスを握って手術室にたっている姿を想像した。
「いいや、どうして?」
「今の話しを聞いてたら、なんとなく……」
「解剖の話し? 女の子って、どうしてそんなに解剖の話しが好きなのかなあ」
  入沢は言いながら、ニコッと笑った。
「男の人は、あんまりしないの?」
  と私が聞くと、美樹が、
「ううん、するわよ。私さんざんされたんだもの」
  と反論した。すると入沢が笑いをこらえるように、
「きっと先輩にだけ殊更にするんですよ」
「どうして?」
「面白いから、反応が」
  と言って、ついに笑った。さっきの仕返しのつもりなのかもしれない。
  久し振りに会った入沢は、ほんの少しも変わっていない。由有子よりむしろ、私の方が入沢をなつかしく見つめてしまったかもしれない。彼からほのかに発散する優しいムードは、春の陽光のように、時にまぶしく、時に柔らかく、穏やかで美しい。
「さて……と」
  美樹は、立ち上がろうとした。
「私は、そろそろホテルに帰ろうかな」
  たぶん私と由有子に気をきかせようとしたのだろう。私も気をきかせるべきだったかな、と由有子を見てちょっと思ったが、
「え? どうして? せっかくいらしたのに……」
  と声をかけたのは由有子だった。
「だって、このままお邪魔してるのは、なんだか申し訳ないわ」
「そんな……」
  と、由有子は入沢に視線を投げた。
「今、ホテルに戻っても、有村さんたち、まだ帰ってないと思いますよ」
  と、入沢も美樹を引き留めた。どうやら、美樹はあとの二人に置いてきぼりを食らったらしい。あとの二人というのが、恋人同士で、美樹が入沢のうちに用があると言って、気をきかせた……という事だった。
「実はね、俺、川上先輩には頭が上がらないんだ」
  と入沢は話しをしだした。
「ああ、あの事? もういいわよ、ずいぶんと前の事なんだし……」
  美樹は、取り合えず、腰を落ち着けた。
「いや、どっちにしても彼女たちには言い訳をしないと済まないんですよ。俺が、去年の夏にこっちに来れなかった言い訳」
  と言って、入沢は、釈明し始めた。
  二年の夏休みが始まって、入沢は、この美樹も含めた仲間と旅行をして、山のロッジに宿泊した。そこで、美樹を川に突き落とす、という大変な事故をやらかしたのだ。
「ええー!」
  私と由有子は、ほぼ同時に、家中に響き渡るような驚きの声を発した。その事故も大変だが、この入沢がそんな惨事を巻き起こすとは、到底信じられない。
  そのロッジというのが、川の流れに沿って、高く木を組み立てた上に造られた山小屋風の宿泊施設で、入り口に向かって橋がかかっている。アドベンチャーランドなどにあるような吊橋で、歩くと、その振動が、他の歩行者に伝わって来るような小さなものなのだ。
  ロッジの大きな屋根が、渡って来る者の姿を半ば覆うように影を落としている。その屋根から、一匹の猫が、橋に向かって飛び下りて来た。よそ見をしていた入沢は、直前にそれに気付き、猫をよけようとして、後ろから来た美樹にぶつかった。美樹は美樹で、その又うしろでカメラを構えている友人に向かってポーズをとるため、橋からちょっと身を踊らせている……という、甚だ危なっかしい態勢を取っていた。それで入沢はすぐに、美樹を助けようとしたのだが、美樹は既に橋から落ちてしまったというのだ。もっとも川と橋の間にはたいした距離はない。
「違うのよ。入沢君にしがみついたりすると、橋が引っくり返る気がして、咄嗟にわざと飛び下りたのよ」
  ところが落ちてから、川底の石に足をぶつけ、ひざが、ザックリ切れた。
「あれも、着地失敗。ちゃんと降りるつもりだったの」
  ところで、猫一匹よけるのに、そんな惨事が起きるようでは、その橋に問題があるのではないか……。すると美樹は、声をたてて笑い始めた。
「大袈裟なのよ。入沢君のよけ方が」
  と、ようやく笑いの切れ間にそれだけ言った。
「いや、スイマセン。俺のせいです」
  入沢は恐縮するように言うんだが、彼も口元の笑いが隠せない。ついに由有子に向かって、こっそりと白状した。
「それがさ、犬かと思うようなデッカイ猫で……」
  と、恐怖にひきつったような顔をした。実は、入沢は犬が苦手なのだ。
  私もこの時、初めて知ったのだが、そう言われれば、高校時代も入沢は、私のうちにはよく来ていたが、由有子のいた片桐家には、あまり寄り付かなかった。私も片桐家で入沢と会ったのは、高三の夏休みに一度きりだった。由有子が住んでいた当時の片桐家には、大きな犬がいたのだ。
  元々、由有子の両親が飼っていた犬で、シベリアンハスキーの雑種だ。長野に由有子親子が住んでいた時、松代という町のお寺で生まれた二匹のうちの一匹をもらったんだそうだ。転居の頻繁な細川家では、それまで、長年動物を飼う事はタブーだったのだが、由有子の両親も、由有子が動物の世話が出来る年令になったからと言って、許可してくれたそうだ。由有子が一人っ子なので、かわいそうだと思ったのだろう。無論、犬では兄弟の代わりはつとまらないが、由有子は、その犬に「ケン」と名付けて(由有子は犬だから「ケン」にしたという)大層かわいがっていた。



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