「光の情景」
作/こたつむり


〈第2章〉1p

  入沢が東京を発った日は雪が降った。みぞれ混じりの雪で積もりはしない。私は由有子につきあって、入沢の見送りに行った。今からだと古いが、(当時にしても古いが)ちょっと、「なごり雪」のイメージがあって、なかなかロマンチックな別れのシーンだったと私は思ってるんだが、一年以上も経ってから、この日の事を由有子と話したら、なんと彼女の記憶には雪はなかった。二人とも日記に書いてた訳でも、写真を撮ってた訳でもないので、どっちが正しいとも証明できないのだが、私は、自分の記憶の方が正しいと思う。ところが、由有子は由有子で、
「雪なんて降ってたかなあ……曇ってただけよ。午後になって雨が降ったのよ、あの日は」
  と言うのだ。ちなみに、入沢を見送った日の午後、由有子は、中学の同窓会に行った。彼女は、
「それで、同窓会に行くのに、雨が降ったらどうしようと思いながら家に帰ったら、案の定降ったのよ」
  と言う。その他に、入沢がその時、ホームで、
「前田と由有子って、どっちが背が高いかなあ」
  などと言って、私と由有子が背中あわせになって、入沢に判定してもらったんだが、その時由有子は高いヒールのついたブーツをはいていて、由有子の方が、ちょっと高かった。
「これじゃあ、よくわからないな」
  とだけ入沢は言ったと思ったんだが、由有子は、入沢が、
「由有子がブーツをはいてなければ、前田の方が高いな。ハタから見ても前田の方が、背が高く見えるよ」
  と言ったと言うのだ。どうでもいい事だが、思い出したので、つい書いた。この日の記憶については、多分、私の方が正しいと思うし、由有子も後になって、
「ひさの言ったとおりだったような気もするわ」
  と言ってたんだが、その後、入沢が北海道に行ってしまってからの記憶が、私のは、だいぶいい加減なのだ。たぶん、入沢とも由有子とも違う大学に行って、初めの一年は、サークルの活動とかで、結構忙しかったので、いろんな事とごっちゃになってしまったのだろうと思う。
  私は、夏休みに、私がサークルの合宿で一週間、箱根に行ってる間に、入沢が帰って来たと記憶してたんだが、最近になって、由有子が、
「そんな事はないわ。健ちゃんはもっと早くに帰って来たのよ。ひさは、サークルの合宿の手伝いがあるって言って、ウチに来れなかったんじゃないかしら。私、健ちゃんにそう言ったと思うの」
  と言うのを聞いて、あれ、そうだったっけ……と思う。たぶん、こっちは、由有子の言うとおりだと思う。
  とにかく我々が大学の一年生の時の夏休みには、私が合宿から帰って来ると、入沢の方が入れ違いで、友達と旅行に行ってしまい、これから入沢が北海道に帰る、という日に一度きり、入沢に会えただけだった。
  由有子とは、ちょくちょく電話で話したり、会ったりしていたが、二人ともスケジュールが合わなくて、冬休みも夏休みも、北海道には行けなかったし、会うのも三か月に一度くらいのペースだった。
「由有子だけでも北海道に行ってあげて」
  と私は言ったんだが、由有子は、
「それがね、私もアルバイトがあって、なかなか……。それに、一人で行って、健ちゃんの下宿に泊まる訳にも行かないでしょう?」
  などと言って、結局行かなかった。
  次の夏休みに又帰って来る、という電話が入沢から来たと由有子は言っていて、私も今度は、ちゃんと予定を開けといたんだが、直前になって、入沢から、来れそうもないと言って来た。理由はわからない。
  だいたい、彼がH大に行ってからわかったのだが、入沢は、とんでもない筆無精なのだった。由有子が、
「私がね、便箋に三枚か四枚書いたのを、三通くらい出すと、やっと葉書一枚、返事がくるのよ。ひどいでしょ?」
  と言って見せてくれた入沢の文面というのが、授業の内容や、下宿が狭いので、部屋が片付かない事などが書いてあって、恋人に出す手紙としては、味気ない。しかし、なんとも入沢らしくておかしかった。由有子も、
「便りのないのが、いい知らせ」
  といった感じに受け止めていたようで、だいたい由有子自身も月に一度くらいしか彼に手紙を出していない。それの三回のうち一回しか返事が来ないというんだから、入沢の手紙は、ゴールデンウィークにどこかへ行った、という次のが、いきなり後期に入って毎日忙しくなって来た、というペースだった。もっとも、電話はちょくちょくかけて来るらしい。入沢は下宿暮らしで、はじめの二年ぐらい、電話をひかなかった。金がないのと、必要がないのがその理由だった。私は文句を言ったが、由有子は、
「健ちゃんが、かけてくれるからいい」
  と言う。その、時々かかって来るのも、長距離を気にして五分も話さないうちに切ってしまうそうだった。
  ところで、そのころになると、私はすでに就職活動に追われていた。九月に入って、ぼちぼち内定を取り始めた友人たちを指をくわえて見ている有り様で、やっと九月三十日に出版社の内定を受けた。久し振りで由有子にも会いたいと思って電話をすると、由有子も大喜びして、
「すぐに会いたいなあ。お祝いしたいわ」
  とウキウキした声で応じてくれた。私は彼女の家に行く事になった。
  書き遅れたが、高三の時までは、由有子の通学の事情のため、由有子も母親も二人とも、片桐のおばさんの家に厄介になっていて、時々、母親だけ自分たちの家の様子を見に行ってたのだが、由有子の進学が決まると、船橋の自宅に二人して引き上げた。
  だから、私たちの住所は結構遠くなってしまい、高校の頃のようにしょっちゅう出入りできなかった。ちょうど私たちの家は、由有子の通っているT大のあたりを真ん中にして、片道、二時間はかかる距離にあった。
  由有子は中学高校の頃には、東京にある、父親の会社の社宅に住んでいたそうだが、両親が船橋に土地を買い、一戸建ての家を建設中に、父親のドイツ転勤の話しが舞い込んだのだ。気の毒な事に、由有子の父親は、せっかく建てたマイホームに住む事もなく、ドイツへの単身赴任の憂き目を見る事になった、という事だ。
  久し振りに会った由有子は、なんだか大人っぽく見えた。由有子にあうのは、四か月ぶりだ。
「きっとパーマをかけたせいだわ」
  高校の頃、長くしていた髪を肩のあたりまで切っている。
「ひさの方こそ、ちゃんと就職を決めて、増す増す大人の人になったって感じよ。私は、まだまだ見てくれだけで、中身はお子様だって、お母さんによく言われるわ」
  と言って、由有子は笑ったが、やっぱり、あの少年のような闊達なイメージに女らしさが加わって、奇麗だった。
  驚いたのは、この日、久し振りに会った由有子が、
「私ねえ、好きな人がいるの。雰囲気が変わったのは、そのせいかなあ……」
  と言うと、照れるように、ちょっと赤くなった事だ。
「え?」
  私は絶句した。好きな人? 恋人? ウソ……。
「誰?」
「ええー? うーん、どうしよう。言っちゃおうかなあ」
  と、由有子は、恋する乙女よろしく、ウキウキしながらも、恥ずかしがったりする。まさに恋をしてそうな様子なのだ。そんなバカな……。
「言っちゃいなさいよ」
私は努めて笑顔を取り繕ったが、内心では、全く動揺しまくっている。入沢はどうするつもりなんだ。
「えっとね、大学の先生なの」
「なんだ……」
  良かった。恋というより、それは憧れという手合じゃないか。それにしても、由有子でも、その辺のミーハー女のように、大学の人気教授なんかに熱をあげたりするのか、と、しみじみ感心してしまった。
  その後、その先生とやらが、どんな風にステキなのかをとうとうと聞かされたんだが、それはどれも、取るに足らないファン心理的なもので、たいして気にもとめないで聞いていたせいか、その時由有子の言った事は、今の私にはほとんど思い出せない。
  相手が独身というのが多少ひっかかったが、それにしても十八才も年上で、多くの女子大生のファンを持っている事なんかからして、いくら由有子が熱をあげていても、彼女が卒業すると同時に、いつしか忘れてしまう存在に過ぎない。第一、入沢と比べると、彼女の言う「ステキ」もたいした事はないように思えた。
  その入沢も遠い所に行ってしまっているのだ。由有子が多少「ステキな先生」に熱をあげたって仕方がないのかもしれない。入沢め、くやしかったら、さっさと帰って来てみろ。
  その入沢がようやく帰って来たのは、私が来月から入社という三月、春休みだった。



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