「光の情景」
作/こたつむり


〈第1章〉6p

 二学期がはじまって、昼休みの時、会話の合間に冗談まじりに聞いた事がある。
「由有子って、結構迫力があるわよね」
「何の事?」
「ホラ、この前……」
「この前って? なあに?」
「入沢君に、ビシッて一喝しちゃったじゃない?」
「ああ、あれ?」
 ホッとした事に彼女は、はにかみながらも笑ってくれた。元々気難しい所や、意固地だとか強情といった所のない子で、過去の事は過去の事と割り切ってしまえる明るさが彼女にはある。
「あれはつい……だって私」
 と茶目っ気に笑ってから、
「あの時は、ひさと二人っきりになりたかったんだもん」
 と、ユーモアを見せてくれた。
「そうそう、あの後おジャマの入沢君が消えて、私と由有子は、二人っきりの夜を共にした、と」
 私もユーモアで返した。由有子は、
「やらしいー」
 と、大笑いしてから、笑い終わると、ちょっと黙った。やがて……。
「あれは、私の勘違いだったの」
 と、はにかむように笑いながら言った。
「入沢君に?」
 と私が聞くと、由有子はコクンとかわいくうなずいた。
「私ね、健ちゃんが、お母さんの事を片桐のおばさんに聞いて、私の後を追いかけて来たんだと思っちゃったのよ」
「お母さんの事って?」
 由有子は私の顔を見て、ちょっと考えてから、
「誰にも言わないでくれる?」
「ええ、勿論」
 私が約束すると、由有子はそれこそ、他人には、なかなか言いづらい事を話してくれた。
「私のお母さんね、ちょっと病気なの。……あのね、心の病気なんですって。それで、時々、興奮すると、発作をおこしちゃうの。知ってるかしら、そういう病気があるのよ」
 私はドキンとした。
「それって重いの?」
「ううん……それにめったにそんな風にはならないのよ。でも、ひさの家に泊めてもらった時は、ちょっとひどかったの。お父さんがそばにいなかったせいだと思うわ」
「そう……そうだったの」
 声が上ずってしまった。そうした病気の事は、まだ十八才だった私には、深い知識も理解も及ばない。すぐには信じられない気持ちだった。……というのも、由有子の母親には、彼女が日本に戻って来たばかりの時に、私は片桐家に呼ばれて、会った事が既にあったのだが、そんな病気をしているようには、全然見えなかったのだ。ひどく細身できゃしゃな体つきの、多少病弱そうにも、神経質そうにも見える人ではあったが、とてもハキハキとしゃべる、頭のよさそうな、芯の強そうな人だった。しかし由有子の語った事を疑う気持ちは毛頭ない。
 私の頭には、瞬時に遺伝の事が思い浮かんだ。そういう病気は遺伝する、と聞いた事があったからだ。勿論、専門的な事はまるでわからなかったし、それを由有子の前で、口にする訳にもいかなかった。
「驚いたでしょ? ごめんなさい、急にこんな事話して……」
 由有子は、私を気づかって、ちょっと頭を下げた。
「そんな……聞いたのは私の方だもの。それに、よく話してくれたと思うわ。でも、それじゃあ、あの時由有子、大変だったのね。私ったら何にも知らなかったもんだから……」
「いいのよ。あの時言おうかなって思ったんだけど、あの時は、私もちょっと動揺してたと思うの。なんだか変な事まで言っちゃいそうな気がして、言わなかったの」
 私は、由有子の顔を見詰めながら、なんて強い、優しい子だろうと思った。自分の苦労を笑顔で話す。きっと、そんな所が、どこか入沢に似ているのだ。
「私たちって、今、おばさんの家に間借りしてるでしょ。お父さんはいないし、私は進学だし、お母さん、いろいろ気疲れしていたみたいなの」
「私の家に三日もいて良かったの?」
 と、私が聞くと、由有子は風に吹かれたような、さみしそうな顔をして、
「その方がいいの」
 と、ポツンと言った。
 その後、由有子は昼休みや、放課後になる度に、少しづつ家の事情を打ち明けてくれた。
「お母さんね、なんでか、そういう時って、私の顔を見てると、増す増すひどくなるのよ。お医者さんは、それだけお母さんが、私の事を思ってくれているからなんだって、おっしゃるんだけど、そうかもしれないって思うより他にないの。だって、そういう時のお母さんって、私の肩に爪を立てたり、握って揺さぶったり、家のものを私に投げ付けたりするんだもの。病気だってわかっていても、お母さん、私の事、嫌いなんじゃないかって思っちゃうの」
 なんていうショッキングな話題も出た。
「お父さんが、よく転勤するでしょ? あちこち行って落ち着かないせいで、そんな病気になったんじゃないかって、私は思うんだけど、お医者さんは、お母さんが、同じ所にいなくても大丈夫だって思うのなら、無理にひとつ所にじっとしていなくてもいいっておっしゃるので、お父さんも、お母さんを連れて行くのよ。確かに引っ越しても、しばらくすると、お母さんはすぐに慣れるし、体の調子もそんなにこわさないのよ。お医者さんが変わったりするのも、お母さんにはそんなに不安でもないのかもしれないわ。本当はお母さんって、お父さんと一緒にいれば安心なんだと思うの」
 私は由有子が突然泊まりに来た夜に、思いがけず、彼女が泣いてしまった事を、由有子の話しを聞く度に思いだした。
「ひさは、本当に私を心配してくれて」
 あの時、彼女はそう言って泣き出したのだ。久しぶりに会えた、実の母親に、病気とは言え、ひどい仕打ちでも受けたのかもしれない。医者の言うとおり、由有子の母親は血を分けた一人娘を心配して、どこかで、その度が越えてそんな事になってしまったのかもしれない。でも、あの時の由有子の涙は、頼るべき人を失い、不安と孤独にさいなまされた子供が、ようやく他人の手で救出された時の思いを物語っていたように思えて仕方がない。あるいは、
「他人のひさですら、こんなに心配してくれるのに……」
 という思いがあったのかもしれない。むろん、それは傷ついた彼女の気持ちが引き起こした、一時的な心理に過ぎないだろう。むしろ私には、そんな境遇を持ちながらも、由有子が健康的な明るさを失わず、今日の日まで成長してきた事に、感動せざるを得ない。でも、私には、あの夜の由有子の涙をも、忘れる事ができない。
 由有子の母親の発病は、いつ頃から、とは、はっきりわからないらしい。ただ、由有子を出産した直後に一種の膠原病にかかってしまい、乳飲み子の由有子をかかえたまま、寝たり起きたりを繰り返した揚げ句、ノイローゼ状態におちいった事があり、以来、時々ボーッとしたり、一人事を言ったりする事もあるそうだが、そういう状態はいつまでも続くわけでもなく、大抵は薬を飲めばおさまるらしい。今回のような発作は本当に希だそうだ。
 数日、由有子の告白は続いたが、そのうちその話題は、出なくなった。彼女によると、母親の発作は、あの日一度きりで、あとは、いつものハキハキしたお母さんになってくれたそうだ。



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