「光の情景」
作/こたつむり
〈第1章〉5p
夏休みの終わり頃、由有子の母親が帰って来た。 ある日、由有子から電話が来た。その日は、今年はじめての台風で、とても涼しかった。
「ひさ、これから行ってもいいかしら」
「どうしたの? 私はかまわないけど、外、スゴイわよ」
風がスゴイ。何もわざわざ台風の日に、来なくてもいいのに……と思って笑ったら、由有子は、
「それが、中もスゴイのよ」
と声を忍ばせるように言った。
「何かあったの?」
「お母さんがね……ちょっと」
あ、音大の一件かな……と、私はすぐに思った。母親に音大をやっぱり受けろ、とでも言われて、私に相談しに来ようという事かもしれない。
「じゃあ、気をつけて来てね。駅まで迎えにいくから」
「いいの。わかるわ。もう覚えたから。これから行くわ。ごめんね、突然」
由有子はそう言うと、電話を切った。
私は、なんとなく気をもんだ。落ち着かなかった。つい、入沢に電話してしまった。当然何があったのか、知っているだろうと思ったのだ。ところが、
「知らないよ。何があったの?」
と、反対に入沢は聞き返して来る。ただ、途中経過は知っていた。
「由有子が音大をやめた事は、おばさん(由有子の母親)も、知ってると思うけどな。手紙で知らせたらOKしてくれたって言ってたし、片桐のおばちゃん(ピアノの先生)も、すごく残念がってはいたけど、実の母親がいいと言うんだから、仕方がないって言ってたしね」
と、図りかねている様子だった。
「きっと前田に会いたくなったんだよ。アイツも思いつくと止まんない奴だからなあ」
と、のんきに振る舞ってるが、多分気になったのだろう。来てくれる事になった。
由有子は、電話の後でもゴタゴタもめたのか、なかなか現れず、入沢の方が先に着いた。
夕方になって由有子が来た。私は一瞬、由有子の持っている荷物を見てゾッとした。家出して来たとしか思えない程の大量の荷物を持って居る。それに由有子の様子もなんとなくいつもと違う。ひょっとして、家出の支度に手間取って遅くなったんじゃないか。
「急に来てごめんね。泊めてくれないかしら」
と、案の定、切り出された時には、私もあわてたが、どうやらウチに泊まる事は母親の承諾を得ているらしい。それでも私が疑っていると、玄関に置いてある電話で自宅に電話して、
「今、着いた所なの。ひさが電話した方がいいって言うから……」
と、言ってたんで、ちょっと安心した。彼女を快くあげようとした所、由有子は入沢の靴に目をとめ、
「誰か来てるの? お客さんだったのかしら」
と、遠慮がちに聞いた。
入沢に来てもらった事を話すと、由有子の顔色が変わった。
「なんで健ちゃんが? ひさがよんだの?」
と詰め寄って来た。声が聞こえたのか、入沢が玄関に出て来たが、由有子は入沢が声をかけようとするより前に、
「どうして来たのよ。何の用があって来たの?」
と強く言った。入沢はちょっと驚いたようだったが、いつもの穏やかな調子で、
「由有子の事が気になって来たんだよ」
と答えた。ところが由有子はイライラした調子で、
「健ちゃんには関係ないじゃない。余計な事しないでよ!」
私は、こんな由有子を見るのは初めてだった。又、人にこんな風にやりこめられてしまう入沢を見るのも初めてだ。立場上、私は入沢の肩をもった。
「由有子、そういう言い方はないでしょ。入沢君は私が呼んで来てもらったのよ」
「どうして呼んだの? 私はひさに会いに来たのに……」
「入沢君だってあなたの事を心配してるんじゃないの。由有子、なんなの? わがままよ。そんな言い方」
私が強く叱ると、由有子はちょっと当惑し、すぐに小さな子供のようにしおれてしまい、
「ごめんなさい」
と謝った。私もこんな風にしょげている由有子を見ると、それ以上怒る気もしなくなってしまった。
「まあいいわ。とにかく、あがって」
と言ってあがらせた。でも、入沢の前を通り過ぎる時、由有子が無言で、静かに、しかし怒りをこめて入沢を睨みつけたのを見て、由有子が私には素直に詫びたのに、入沢には、何かまだ反感を持ち続けている事がわかった。そういう由有子を入沢はどう思っただろう。彼が時々そうなってしまう、あの無機的な表情になってしまい、おこっているのか、困っているのか、私にはわからなかった。
「ひさ、私、寒い。それにおなかもすいた」
由有子は急に甘えん坊のような事を言い出した。なんとなく私には、由有子が私に救いを求める余り子供になりきってしまっているように思えて哀れだった。
「お風呂にはいったら? そうしなさい。ほら髪がグシャグシャじゃないの。しょうのない子ね」
我ながら甘やかしてると思うのだが、何かそうせずにはいられなかった。放っておけないのだ。
由有子をバスルームに入れると、タオルを用意してやってから、私は居間の入沢の方へ行った。由有子にあんな風にどなられて、しょげてるんじゃないかと思うと、かわいそうで、こっちも放っておけなかった。私が入って行くと、入沢は、首をあげて私を見た。その様子が、とてもスマートで、彼から感じる総ての印象が美しかった。私と目が会うと、彼はニコッと笑った。やはり大人なんだろうか。私は以前、クラスで起きたケンカ騒動の時の事を思い出した。あの時も入沢は、何事もなかったかのように、ほほ笑んでいた。由有子の事を考えると邪念ではあるが、私はやっぱりこの少年が好きだと思った。
「俺、そろそろ帰るね」
いかにも一仕事終わった、という感じに明るく言う。
「ごめんね。せっかく来てもらったのに……」
「前田が謝る事ないよ。それと……」
と言って、彼は定期入れから一枚のカードを出した。
「これ悪いけど由有子に渡しといてくれる? 新しいのが出来たんだ」
言い遅れたが、入沢の家は開業医をやってるのだが、そのカードは、「入沢医院」と書かれた診察券だった。
「診察券? 入沢君ちの……どうして?」
「前の奴でも使えるんだけど、一応渡しとこうと思って…」
「それはいいけど、由有子どうしたの? 病気なの?」
「そんな事ないよ。ただ、あの人よく病気をするから」
と言って入沢は笑った。笑顔の明るさに私は安堵した。
入沢が帰ってから、由有子が居間に入って来た。私がお茶を入れてやっていると、由有子は私の後ろでおとなしくしていたが、やがてボソリと、
「ひさは、本当に私を心配してくれて……」
と言ったかと思うと急にうつむいて泣いてしまった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「さっきは、ごめんなさい」
「もういいわよ。でも入沢君には後で謝るのよ」
「うん」
「入沢君。今日は帰ったけど、本当に由有子の事、心配してたわよ」
「分かってる」
この夜から由有子は私のウチに二泊した。何故、急に私のウチに来たのか、彼女に何が起こったのか、肝心の話しは出なかった。私もあえて聞かなかった。大量の荷物と思っていたのだが、中には、お菓子がたくさん入っていた。夜、一緒に食べようと思って持って来たんだと由有子は言った。
由有子には兄弟がいない。一人っ子なのだ。私はひょっとして彼女は、それ故にわがままな子なのかもしれない、とこの時思ったが、由有子がこんなわがままをやったのは後にも先にもこれっきりだった。
由有子は、客間で寝るより、私と一緒に寝たがった。小さい頃、私は弟と一緒の布団で寝てた時期があった。弟の寝相が悪くて、夜中に何度も起こされた。
由有子にはそういう経験がないのだ。あんなにたくさんのお菓子を持って来て……。兄弟というのは、夜中に一緒の部屋で一緒にお菓子を食べるものだ、という想像でもしていたのかもしれない。さっきは由有子を叱りつけたが、由有子の寝顔を見ていると、本当は由有子は恋人なんて欲しくないんじゃないだろうか、という気が少しした。入沢を兄か弟のように思いたかったのかもしれない。誰が見ても、申し分のない、非のうちどころのない由有子なのだから、入沢や私を兄弟に見立ててわがままを言うくらい、許してやってもいいんじゃないか。
由有子の両親が、由有子が一人っ子なので、わがままになってはいけないと、厳しくしつけて来た事は知っている。でも、小さい頃から大人に囲まれて、各地を転々と渡り住んで育って来た由有子にはわがままを言う習慣がなくなってしまったのかもしれない。思いもかけず、不器用なわがままの表現の仕方をされて、私はちょっと頭に来たが、きっと、入沢には、そういう由有子がわかっていたのだと思った。
私に叱られて、すぐにしおれてしまった由有子の顔が、その夜瞼にやきついていた。本当の兄弟だったら(例えば私と弟だったら)あんな事言われたぐらいでは、謝ったりはしない。取っ組み合いになる程のケンカをしてもお互いの我をはり通そうとするものだ。あんな所が、やっぱり一人っ子なんだな、と思った。
それにしてもあの時、どうして由有子があんなにおこったのか、何が気に障ったのか、私にはわからなかった。