「光の情景」
作/こたつむり


〈第1章〉4p

  その時の、レモン色のイラストが、実は今手元にある。友人にプレゼントしたイラストがどうして今、ここに戻ってきたのかは後で説明する。今、私は当時のだいぶいい加減な手法で書いた自作を目の前にして、あの頃の事を思い出しているのだ。
 明るい光にあふれた絵。あの頃、私は、彼女の印象を私なりに、この絵にあらわしたつもりだった。 今は水彩で書かれたレモンの色が失せて、当時の鮮明さは残っていない。私は、これを見るたびに、私のとらえていた由有子の当時のイメージが、あながち的を得ていなくもなかった、と思う。あの後、由有子が私の思っていたような、ただひたすらに明るい快活感に満ちた少女でなかった事を知るのだが、それを知っても、私の由有子に対する友情は変わらなかったし、当初の印象に翳りが訪れた訳でもない。むしろ由有子の奥に秘められた面を垣間見られることが、彼女と親しくなっていく証のように思えて喜びですらあった。はっきり言って、私は由有子という友人に夢中になった。
 大学進学を目前にひかえていた事もあったせいで、私と由有子は、よく自分たちの将来について話し合った。そして、意外と、由有子が外見とはうらはらに、ちょっと堅く、哲学的な要素を帯びた、一種の暗がりを見つめている事を知ったのだ。
 私は今、レモン色の当時の思いを見つめながら、胸の痛むのを感じないではいられない。由有子には、このレモン色こそ似つかわしい面が多分にあったと思う。なのに、あの時、彼女が見つめていた部分、そう、ちょうど、後輩にあげた紺色の絵を彼女が欲しがったように、彼女自身の心象風景に、自ら進んで行ってしまった事を不安に思う。そしてそれがゆえに、友人として心から送り出してやれなかった事を後悔しているし、そのくせ、今でも必ずしもあれで良かったと言い切れない自分が残っている事も否定できない。
 私よりも、入沢の方が早く由有子のそういった面に気づいていたようだった。由有子と仲良くなれた事によって、由有子とつきあい始めていた入沢とも親しくなれた。
 夏休みに、私が由有子の当時住んでいた、ピアノのおばさんの家(片桐という名字である)に呼ばれ、一緒に勉強しようという事になったのだが、その時入沢も顔を出した。
「入沢先生は医学部に進むんですって」
 氷のたくさん入ったアイスティーをおぼんにのせて持って来ながら、由有子は「先生」の部分を、少しいたずらっぽく言った。
「先生なの? 入沢君」
 思いがけず、自分のあこがれていた二人を独占できている状況に、内心、満足しつつ、私はそう言った。
「先生じゃないよ。由有子は難しい事ばかり聞いて来るから、俺なんかダルマだよ」
 笑いながら入沢は私に答え、由有子を振り返ると、
「それに、まだ本当に医学部に行くかどうかわからないよ。だいだい入れないんじゃないかな。俺の頭じゃね……」
 などと、うそぶいている。
 当時、こんな事ではイカンと思いつつも、私は大学のレベルというものを、ちゃんと把握できていなかった。入沢ほどの秀才でも医学部となると、相当難しいらしいのだ。もっともこの年度から、いわゆる共通一時が導入される事になっていた。理系文系に関係なく全教科をお勉強せよ……というアレだ。
「由有子に何を教えてあげるの? 入沢君は……」
「そうだね。まず……数学かな?」
 と言いながら、入沢は、私から由有子に視線を移しながら答えた。なんて優しく話しかけるんだろう。ちょっとヤケルが、入沢と一緒にいる時の由有子を見ていると、どこか安心感があった。由有子の将来に間違いはないかのような明るい二人の絵。
 由有子はアイスティを飲みながら、
「あと英語」
 と答えた。
 由有子は、その頃までは、ピアノのレッスンがあると言っては、学校が終わると一目散にオバサンちに帰っていたのだが、この頃になると、よく放課後に教室に残って、友達と話しをしてから帰るようになっていた。同時に、音楽だけでなく、よく由有子の口から、数学や英語の話も飛び出すようになった。
 高二の時は、クラブ活動が放課後にあるので、入沢は由有子と一緒には帰れなかったそうだ。それが、高三になると、入沢もクラブを引退し、由有子を伴って下校できるようになったのだ。
「私、音大には行かないつもりなの」
 彼女にイラストをあげた直後、由有子は私に突然そう告白した。イラストをもらったお礼の事を由有子が気にかけているようだったので、私は彼女の機嫌をとるつもりで、
「それじゃあ、今度、昼休みか放課後にでも、ピアノをひいてくれる?」
 と言ったのだ。彼女は友人の誰に頼まれても、気軽にピアノを弾いてやっていたので。
 しかし、彼女は私の申し出を彼女の告白で答えた。
「前田さん、私の事どう思う? 私、音大に進んだ方がいいのかしら」
 あらゆる才能に恵まれている由有子に、そんな悩みがあるとは知らなかった。そう言えば、私が人知れず自分のイラストをひろげていた、あの日の放課後も、由有子はまっすぐ帰宅しなかったようだ。
「細川さんはどうしたいの?」
 私は由有子の言い方が気になったので、腰をおちつけて相談にのる気になった。
「私、音大には行きたくないの」
「他に何かしたい事があるの?」
「それが、よくわからないのよ。自分でも……でも、音大には、なんとなく行きたくないの」
 なんとなくわかる気がした。彼女が両親の転勤につれて、あっちこっちへ転居転校を強いられていた事は、私も人づてに聞いた事があった。両親が外国に行ってしまうので、おばさんの家に引き取られただけで、おそらく由有子は音大に進むために、ピアノの先生の家にいるわけではなかったのだ。自分の進路は自分で決めたいと、彼女が思ったとしても無理もないと私は思った。そして、そのような事を言うと、由有子は、
「あ、わかってくれる? そうなの、そうなの」
 と、うれしそうに答えた。
 考えてみれば、由有子は、将来を決めるべき重要な時期に両親と離れているのだ。私は、由有子の相談にのってあげる事ができたのが、妙にうれしかった。
 もっとも夏休みが終わった頃にドイツに行った由有子の母親が帰って来た。一年だけ父親について、ドイツに行き、父親の生活の安定を認めたら、日本に戻って来る、という事になっていたらしい。しかしその頃になってから進学の方向を変えるのでは、若干、時間的に受験までに余裕がない。多分、由有子の両親は、由有子を音大に上げるつもりだったのだろう。音大に進むのなら、ピアノの先生をやっている片桐のおばさんに預けておけば安心と思ったのだろう。ところが、由有子は母親の戻って来る前に、自分の進路を変えてしまった。
 後になって考えてみると、この由有子の転身は、言わば「鬼の居ぬ間の洗濯(選択)」で、由有子の将来に、直接口をさしはさむ権利を持たぬおばさんを前に、ある日、由有子は忽然と、
「音大には行かない。」
 と、宣言していたのだ。そしてピアノも弾かなくなった。
 由有子は私や入沢を相手に、時々、ヤケに真面目な話しをする事があった。私が書いた漫画を由有子にせがまれて、見せた時の事だ。
「ひさ(親しくなると、由有子は私をこう呼び始めた。)は、なんでマンガを書いているの?」
「なんでかなあ……。好きなのよ、こういう事するのが」
「それだけ?」
「今の所そうねえ……、でも、もしうまくなったらプロになりたいと思うかもしれないわね」
「きっと、なれるわ。ひさなら大丈夫。こんなに書けるんだもの」
「いやあね、照れるわよ。……でも、別にプロにならなくてもいいわ」
「そうしたら、もう漫画は書かない?」
「うーん、書くんじゃないかなあ……。元々書くのが好きなのね」
「私もそんな風になりたいわ。私って、音大に行くためでなかったら、ピアノを弾かないのかもしれない。私、ひさのイラスト見た時、この人は、本当に絵を書くのが好きなんだなって、すぐにわかったわ」
「由有子はピアノが好きじゃないの?」
「好きだったんだけど、今はどうかわからないわ。でも好きでいたいわ。人間って、大学に行ったり、職業にするために、絵を書いたりピアノを弾くとは限らないと思うの。元々、何かを表現したいんじゃないかしら」
「そうかもしれないわね。私もそう思うわ」
「ピアノよりも、もっと直接、人の役に立つような事をしたいなあ。勿論ピアニストだって、立派な職業だと思うし、人の心の役に立っていると思うんだけど、私には、きっとそこまでにはなれないわ」
 入沢はこの手の話しになると、終始おとなしい。いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべてはいるのだが、その頭の中は、何を考えているのかよくわからない。あるいは何も考えていないのかもしれない。
 時たま、由有子の話しは結構高度な内容に及んだ。入沢が、
「由有子は難しい事ばかり聞いて来る」
 と言っていたのが、単純に教科の内容についてではない事が、私にもすぐにわかった。
 由有子は、私が絵を書くので、芸術などについて理解のある人間とでも受け止めていたようだったが、私は、由有子がピアノの才能をして、音大に進む事を期待されていたのと同じように、絵を書く事をして、例えば美大などに進む事を考えた事はなかった。だいたい私のは、芸術とかいったような高度なものではない。趣味で漫画やイラストを書いているだけで、それも、受験のためにやめている状態だった。
 学校には、音大に進もうとしている子が数人いた。由有子にはそういうタイプの友人もたくさんいたのだ。おばさんの家に来ている生徒の中にも、別の学校に行っている、同い年の友達が結構いたようだ。よりによって、趣味で漫画を書いている私に芸術の相談をする必要もないように思えたが、由有子は、その頃、意外にもピアノを自分にとって、
「趣味」
 と言い切っていた。そして、彼女に言わせると、
「音楽家になるのを夢見て、熱気をしょっている人たち」
 と一緒にいるのは、苦痛らしかった。



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