「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第六部〉50p

  これ以上、なぜですか、と聞くのを阿梅はやめた。いま重綱がこうであるように、時折何を考えていたのかわからなかったあの父も、やはりただ自分に生き延びてほしいと願ってくれたのだと今思えてきた。
  しかし重綱は鷹揚に考えを深め、
「真田の娘というのは、なおのことまずい。この家の内部にひきいれた大坂者が、宴の出し物に毒を入れたなどという噂にもなりかねない。やはり、しばらく姿を消してもらうしかない」
「私が『どうなさるのですか』とお聞きしたのは、あなた様のことです。私をあやめたと上申すれば、それなら遺体をあらためる、などということにならぬとも限らないじゃないですか」
「そこは……」
  重綱は胸を張り、
「この片倉伊豆守も武士だ」
  白石城にたてこもり、せめよせる伊達軍を相手に、見事死に花を咲かせてくりょうと言い放った。
  酔っているのか、と阿梅は首をかしげた。何かちがっているような気もするのだが、とっさのことで阿梅も考えがめぐらず、
「それなら私がここにいても、同じではありませぬか」
  だんだん腹をたて、自分もともに篭城すると言い張った。すると重綱は困り、
「それはちがう。遺体をあらためるなどは、女に対しては普通はせぬものだ。うまくいけば逃げおおせる。このわしもお咎めを受けぬやもしれぬ。そうしているうちに、公のほとぼりも冷める。阿梅の駆け込みには前例があるから説得力が高い。自害だ出家だと騒いでおれば、そのうち『真田の娘』が又ぞろもったいなくなる」
  やはり、彼らしく策謀をめぐらせている。
  そうとう怒っているのだな。阿梅は政宗の怒った顔を思いうかべ、
「冗談じゃありません。いやです」
  腹を立てていいのはこっちじゃないかと思った。
「言うことを聞け」
「いやです」
「死にたいのか」
「ここに残ります」
  このやりとりを一日くり返したのち、結局、阿梅が政宗にあてて文を出すことになった。
  自分たちは白石城に篭城して、君のご乱行をお諌めする腹と決まった。攻めるならいつでも攻めてきてほしい。こちらは琉球に逃れた真田幸村に援軍をたのんだから、南北はさみうちにて、幕府も伊達も降参させられる計略がある。今まで隠してきたが、実は自分は大坂城にて父と密会しており、今日まで着々と準備してきたのである。
  そう書いた。
  政宗からはすぐさまの返書で、
「おもしろいから、つづきを書け」
  と言ってきたきり、音沙汰はなかった。
  このとき阿梅は、乱行として、手ごめにされかかったことを避け、政宗の食いすぎを指摘した。
  かつて鬼庭左月(茂庭延元の父)さまが奥州人は消化が悪いと仰せだったそうだが、主君がよい手本をしめしてくれなければ、下々が妙なまねをしてみな早死にする。
  政宗もこれを採用したのだろう。この一件は政宗の過食で片付けられて仙台には伝わり、どこか逆手にとられて、伊達の豪遊ぶりのみが江戸では流布された。その後の政宗には、特に重綱に冷たく当たるようでもないらしく、阿梅は胸をなでおろした。
「照れておられるのだろう」
  重綱は笑いながら言ったが、阿梅はうつむき、
「お寂しいのですよ」
  と言い、そのまま目にぽつぽつと涙を浮かべた。重綱は首を傾げ、
「阿梅を、わしに取られたからか」
「いいえ、あなた様を私に取られたからです」
  重綱はますます首を傾げて、
「どういうことだ」
「だって、そうではありませんか。人さまのものを取っても許してもらえる。政宗公はあなた様に、そういう関係でいてほしかったのではないですか。先代さまがお亡くなりあそばして、政宗公にはもう、そういう無理をきいてくれるご家来はおられないのかもしれません」
  重綱は、
「茂庭さまが、まだ……」
  と言いかけて、阿梅と目が合い、そのまま黙った。
  これより四年後に、政宗は、長い年月を別居してきた母、保春院をおのが居城に招き寄せた。
  政宗の心の空白は埋まっただろうか。おのが子を殺そうとした母と、母に殺されかかった子の、実に三十二年ぶりの再会であった。

  阿梅と田鶴の再会は江戸において果された。
  元和九年の初秋であった。
  阿梅は江戸ばかりを在所にしている。重綱の子ができず、そのせいでいつまでも一人江戸に置かれる喜佐が気の毒に思えたからだ。小太郎の二の舞はさせたくなかった。
  白石には妹の菖蒲が住まいしている。二年前に田村定広という人物に嫁いだ。定広は伊達政宗の正室、愛姫のいとこの子だが、田村家は取り潰されて今はもうなく、白石の片倉家に身をよせていた。菖蒲と結婚するや彼も片倉姓をなのった。菖蒲には白石が性に合うらしく、重綱の叔母、喜多女の名跡をついでいる。
  いちど江戸に住まうと国元には帰りにくい時代になった。
「入り鉄砲に出女」
  という言葉がよく聞かれるようになったこの年、結婚以来はじめてたつ女が江戸に入った。
  白石に城をもつ片倉家とちがい、原田家にはその家族を江戸にさしだす義務はなかったが、このたびたつ女が子の弁之助(のちの原田甲斐宗輔)を連れて江戸入りを果したのには訳がありそうだった。
  春に、夫、原田宗資を亡くしている。
  不審の死である、と阿梅は聞いていた。
  さっこん、幕府による各藩の大名家取り潰しや国替えがあいついでいる。以前は考えすぎに思えていた夫、重綱の読みが、ここにきて悉く的中しはじめていた。阿梅の叔父、真田信之も今年にはいってから、父祖伝来の上田から、おなじ信州の松代に転封させられている。
  幕府の不審と詮索がおよべば、原田家の存続が危ぶまれる。むしろ、江戸という幕府のふところに入り、疑いを自ら解くほうが得策。阿梅には、たつ女が、彼女らしくそう判断したように思えていた。
  たつ女は片倉屋敷に入るや、阿梅の案内をことわって奥まで入ろうとはしなかった。おだやかにほほ笑み、阿梅を
「白石様には、どうぞそちらに」
  と客座に促して、先に下座に着いてしまった。
  やがて、遅れてきた乳母と小者が、弁之助を連れて阿梅に目通りさせた。
  見るや、阿梅が思わず笑みを漏らし、丸まると太って丈夫そうだと言うと、たつ女は、
「いいえ、病気ばかりいたします」
  と答えた。
  そう言われて見ると、確かにひどく太っているのにどことなく皮膚がもたついている。風邪をひくのを嫌ってか、変に着込まされて不格好な子供だった。阿梅の前につれだされても阿梅のほうは見ず、だらりとくたびれて仏頂面をかまえる。
  まあ、子供なんてこんなものだと阿梅が思っていると、たつ女はすぐに子供に駄賃を与え、乳母に散歩にださせた。運動が足りないから病気ばかりするのだと言って乳母をせかし、そのくせ居なくなってしまうと嬉しそうに、
「あの子は私に似ました。原田に似たところは少しもございません」
  と言った。先制をかけてきたようにも、自分に似れば充分なのだ、という感じにも阿梅にはうけとれた。
「阿梅さまは、お子をおあげにはならないのですか」
  たつ女はつきつけるようにそう聞いてきた。
  阿梅は、はい、と答えて、べつに生みたくないのではない、出来ないのだから仕方ない、と思った。伊達政宗の命令を、阿梅は今もってなお遂行できずに日をすごしている。
  高野山で、まだ祖父や父とは別居を強いられていたころ、軒下に飼っていた犬が、難産のあげく母子ともに死んでしまったことがある。
  阿梅にはその出来事がひどく堪え、どういうわけか母でなく父の幸村に不安をもらしたらしい。父に言われたこんな言葉を記憶している。
「きっとお前が子を産むころには、こんなことは忘れてしまうだろうが、どうしても気掛かりなら、父の紹介状をもって信州のどこぞの神社の家にでも入ってしまいなさい。神につかえる身なれば、女も子をあげずにすませられるだろう」
  阿梅は、信州のどの神社なら自分にふさわしいだろうと真顔で聞いた。
「武人の家に育ったのでよくわからないが、信州で一番よい神社の家柄は諏訪だ」
  すると、ちょうどたつ女が、
「片倉家は、もとは諏訪氏の出でございましょう」
  思い出に重なるようなことを言った。阿梅はおどろきつつ、
「そのようです。先々代まで神官をつとめたと聞きますが」
  と答えて笑い、
「氏素姓が怪しいから、名族の氏にあやかったのだそうです」
「そんな事はございませんでしょう」
  そんな事もなにも、重綱本人が始終、
「怪しいものだ」
  と、笑って言うのだから、どうしようもないと阿梅も笑い、
「真田とて似たようなものです」
「なれど諏訪大明神といえば、武門の守り神としてもその名が高く、真田家とは縁も深うございましょう」
  まったくひるまずたつ女は言い募った。
「祖父(昌幸)も元は、武田勝頼さまにお仕えしておりましたから」
  阿梅は仕方なく話をあわせ、
「勝頼さまは、はじめ武田家を世襲なさらず、お母上の実家である諏訪の名跡をつがれたと聞きます」
  これが武田信玄の策略である。阿梅は幸村にそう聞いていた。だまし討ちにちかい形でほろぼした諏訪家の女を娶り、遺臣や領民を懐柔するに功を奏したという。それをたつ女は、
「信州きっての名家だから絶やされなかったのです。阿梅さまは、一刻も早くお子をおあげにならなくてはなりませぬ」
  とまとめ、阿梅を苦笑させた。


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