「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第五部〉44p

  瞬間、阿梅の胸に、ざっと何かがかぶった。体の中に砂でも混ざりこんだような嫌な感触であった。
「真田。真田。真田。それさえお口になされば、幸村の名を出せば、私が口をつぐむとでもお思いでしょうか」
  ほとんど叫ぶように言い切った。
「これは驚いた」
  今は本当に困窮の事態なのだろう。あくまでも小娘を相手にしている態度を政宗はひるがえさない。目を丸くしておどけ、つづけて余裕を持って笑った。
「わしもそのような考えにとりつかれた事がなくもない。しかし今はそうではない」
「なぜでございましょう」
「嵐がおこればよい。嵐がおこれば何もかも覆せる。わしにもそのように思えるころがあった。しかし今はそうではない。年をとるというのはそういうものだ」
  政宗は阿梅を見下し、どっかとあぐらをかき直した。
「かつて、そんなことを言う女もいた。それが励みでもあった。それゆえに不思議と自分を保つことさえできた」
  香の前さま。
  阿梅は口の中でささやいた。政宗は、
「しかし天下をとりたいなどと考えたことがあったのかと思うと、実のところ一度もない」
  と、自嘲するように阿梅から目をそらし、
「天下をほしいなどと思ってはおらぬが、生きていればいろいろなことを思い付く。しかし何もかも、こんなことまでと思うものでも諦める。そういう世の中になった。自ら発しておきながら、従ったものを見殺しにせねばならぬ事態によく出くわす。人がつくる世に従うとはそういうことだ。この先は、こうすればこの世は良くなる、という考えをもった人間が負けるのだ」
  死んでいった者がうらやましい。死のまぎわまで、まちがいなく生きていたからだ。生き残った者は、生きているとはいえぬ生をつづけてゆくだけだ。
「だからこそ」
  政宗は阿梅の肩に手をかけ、力をこめる。指のあとがつくのではないかと思うほど握っておいて、
「真田幸村の娘には生きていてほしい。おまえの父のあの奔放な戦いぶりを、何か、生きた形で残しておきたいのだ」
「生きた形で?」
  阿梅は何気なく復唱してから、その発想に意表をつかれた。
  阿梅の目は遠くを見詰めた。 はじめて会った政宗は、甲冑に包まれ体じゅうから生気を発散させて、見事に輝いていた。阿梅は、あのような姿を父幸村に見た記憶が無い。だから父の姿をあのときの政宗に重ねあわせ、しばし彷彿とした。
  しかしその面影はやがて霧散し、伊達政宗だけが目の前に残った。

  阿梅が真田信之の江戸屋敷をたずねたのは春もすぎるころであった。
  対面を指図したのは政宗だった。幕府にとどけた婚姻の帳尻会わせを目的とした。もとよりこれは、母からの強い要望でもあった。
  この母はこれから会う叔父に、何度か会ったことがあると聞く。高野山に配流される前のことであろう。挨拶はまずそのあたり、つまり、阿梅が生まれもせぬほど過去の世話への御礼から始めねばならないわけだ。親戚というのは厄介である。
  部屋にとおされ、何からいおうかとさっそく気をもみはじめたところへ、
「阿梅さま、お懐かしゅうございます」
  思いがけぬ人物が後方の戸の影からひざをすすめでた。
「吉次!」
  あとから思えば、これが良くなかった。
  ふりかえると同時に阿梅は顔を青ざめた。
「そなたは一体」
「かような姿をお見せしたくはございませなんだが」
  吉次は口ごもりがちにそう言い、顔をやや伏せた。
  伏せてもなお、彼の頭にまで覆っている痘瘡にも似た肉の歪みが、阿梅の目に吸い付くように焼きあてられてしまった。これが一目で吉次とわかったのが不思議なくらい、彼の頭部は変形してしまっている。もともと禿気味ではあった吉次の頭には、今はほとんど毛がなかった。
「おめおめと生きながらえまして」
  という吉次にむかって阿梅は、
「戦でそのようなことになったのですか」
「いえ」
「それではどうして」
  このような再会もあろうという予測を全く怠っていた。相手の肉体的な損傷への配慮もいたらず、身を近寄せて、どうしてどうしてを阿梅は追い詰めるように繰り返し、そして泣き出した。答えられずに黙している吉次を、さももどかしそうに、
「ずっと会いたかったのですよ。どうしてそっと抜け出してきてくれなかったの? 私が片倉屋敷に居たことを、お前だって知ろうとすれば知れたはずではありませんか」
  責めたてはじめてしまったのである。
「申しわけもござりませぬ」
  吉次はただ頭を垂れ、甘ったれる相手に任せるより他にない。
  謝られても阿梅はおさまらなかった。一度ふきだしてしまった郷愁の思いは、止めようもなく溢れた。
「これからは、しょっちゅう会えますね」
「いえ……」
「父上や兄上のことを話してください」
「いえ、もうそうしたことは」
「なぜです。お前に聞かず、誰に教えてもらえば良いというのです」
「どうか」
「吉次」
「どうかご勘弁を」
  袖を握られて、吉次は灰色がかった片目で阿梅を見上げ、ハッとして顔をふせ手をほどいた。もう一方の目は、肉がひきつるにまかせ無残に隠れてしまっている。
「阿梅、よいかげんにせぬか」
  いつのまにか背後に立たれた人影に、阿梅は飛びあがるほど驚いた。相手は阿梅を見下し気味に、
「吉次を放してやれ。それは我家の使用人だ」
  顔じゅうに強い不快感をあらわしているではないか。
  真田信之であると、すぐにわかった。
  最悪の対面劇となってしまった。吉次を放し居住まいを正し、礼をしてもなお、彼の不機嫌はおさまらぬようであった。
「久しぶりに会いたいだろうとそなたの心根を思い、いやがる吉次に、無理やりここに出ろと命じたのはこのわしだ」
  頭上からツカツカと冷たい怒声を浴びせかけてきた。
「そのような立ち居ふるまいをされたのでは、わしの吉次への面目が立たぬ」
  説教がいつまでもなり止みそうになかった。
「滅相もございませぬ」
  吉次は、とびあがるほどに恐縮してそう叫ぶと、信之と阿梅を交互に見上げ、
「阿梅さま。このたびはおめでとうございました。心より御慶び申しあげます」
  指をそろえ一礼するや、逃げるように廊下を奥へさがってしまった。
「取り乱して申しわけありません」
  阿梅はまずそう謝ったが、心の中は暗然とした。
  これでもう、二度と吉次には会えないのかもしれない。そう思うと、はじめて会う叔父に頭ごなしに叱られたことよりも、強く心を病んだ。
「いや」
  伊豆守信之は、すぐに何事もなかったかのように声を返してくれた。が、笑みも浮かべず、言葉もかけてこない。
「阿梅でございます」
「うむ」
「このたび、伊達家家来、片倉伊豆守重綱のもとに嫁しましてございます」
「うむ」
「ご挨拶にまかり出るよう母に申しつけられました」
「うむ」
  何をしゃべっても、うむ、である。
  初めて会うな。達者にしていたか。苦労であったな。母者はお元気か。弟の武勇は聞いておる。こたびの婚儀には、叔父として何もしてやれず申しわけなかった。片倉家は大事にしてくれるか。
  こうした、叔父らしい言葉はひとつも降ってこなかった。甘い予想ではあったにせよ、何も言わないなどとは、想像すらして来なかった。
  それでも阿梅は、興奮を静められず、一通りのあいさつが終わるや、
「叔父上には、いろいろとお聞きいたしたいことがございます」
  などと始めてしまったのである。
  会うやいなや激しく叱責されたせいでもあった。
  血の通う叔父なればこそ。
  阿梅には真田信之の怒りのさまが、なにか頼もしいもののように受けとられてならなかった。赤の他人なれば、あのように叱ってはくれないものである。そういうこじつけをおのれの中心に据えてしまった。ところが、
「教えてやれることなど何もない」
  信之は冷たくつき放してきた。


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