「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第五部〉42p

  表向きには家来の妻の座にいながら、実は主君の思いものをやる、というのは凄い発想だと阿梅はおどろいている。これが武家の常識なら、なるほど自分は非常識であったと認めざるをえない。
  阿梅の健康は見る見るよみがえった。
  政宗という伊達陣営における最高権力者の暗殺未遂現場に居合わせたがゆえに、生きている心地すらしなかった自分に気付かされる。政宗本人が、不可思議な法を適用してまで自分を欲しがってくれるのだから、命の心配だけは遠のいた。
  藤兵衛の屋敷と片倉家以外にも行く場があるのが嬉しい。身体も宙に舞いあがるのではと思うほど軽やかで、朝めざめるごとに元気になってゆく。
  ところが重綱が江戸を発ち、仙台にむかってからも、阿梅は片倉屋敷を離れなかった。だんだん不安になり、同時に腹が立ってきた。
  何をそんなにうかれているのか。何も変わっていないのではないか。
  そう思えてきた。政宗に囲われることも重綱の妻になることも、元々あった構図ではなかったか。殺されるよりは少しましであるにすぎない。殺されるというのも、だいたい自分に責任がある事だったのか。
  変わってしまったのは、回善が死んだことだ。
  それを思うとき、阿梅はあたりかまわず号泣する。一度ばかり荒井の前で泣いただけでは済まされないと思った。出家を志す人間はえらいと、実家であれほど言われて育った自分を、ここでは誰も誉めてくれない。認めないし援助もしない。しかし日に日に伺いをたてられて、答えをせまられている。その選択も阿梅にとっては、針地獄と火炎地獄のどっちが好きか、というような残酷なものに思えてならなかった。
  そして、誰にいちばん腹が立つかといえば、それは政宗に、であった。
  臥龍梅をくれてやるの、片倉重綱は吝いのと言いながら、要するにあの男は、自分という女を手ごめにしたかっただけではないのか。
  それを、父と同じ年令の男だから、泣きつけばどうにかなるなどと甘い予測でいるから、こういうことになってしまった。そう思うと、今度は自分にも腹が立ってくる。いい人はみんな死に、腹の立つ奴ばかりがこの地上に満ちていると思えた。と同時に、荒井に政宗の近況を聞き出したりして、その真意がどこにあるのかなどを探ろうと慎重にもなる。
  ところが荒井も、今はそれどころではない。
  小太郎に感染した阿梅の気鬱病が、ここにきて猛威を奮いはじめたのである。重綱がいなくなると同時に小太郎は風邪をひき、喘息と肺炎をくりかえして深刻な事態に陥った。
  何度か小康状態にはいったが、ここぞ、という時に小太郎は阿梅以上に泣きぐせが抜けず、甘ったれて食事もうけつけない。母上にあいに冥土にいきたい、父上はなぜ自分をおいて行かれたのかと荒井を困らせる。
  疲労困憊のあまり、ついに荒井にまでこの癖がうつった。
「おいたわしゅうござる。それがしにも子がござった」
  病気にかかり、相次いで三人も亡くなった、などと昔語りをしたあげく、
「先代が亡くなられて以来、この家にはよこしまな霊がとり憑き申した」
  えらく侍らしからぬ妄想に走りはじめた。
「私さえ、おらなんだら」
  初めからそうすれば良かったのだと思いつつ、阿梅は結局、幼い病人と看護人を見捨てる恰好で片倉屋敷を去った。
  行く先は伊達屋敷しかない。はじめから仕組まれた道程をたどっているようでもあった。
  自分など消えて無くなればよい。阿梅はそう思った。
  殺されるとばかり脅えていた、片倉屋敷のピリピリした空気をふりかえり、あんな環境が、ただでさえ繊弱な小太郎に良かろうはずはないと思った。ひきつけの発作をくりかえして泣きさわぐ小太郎を思うと、やっぱりあそこを出て良かったのだと阿梅には思えてくる。
  主君の思いものに、ひたすら気を配る家来の家の緊張感。ただでさえ親の愛に飢えている子供から、自分が何もかもを奪っていたのだと気づかされる。そしてあの、なんともいえぬ空気から、不思議とたつ女の匂いを思いだす。
  たつ女はあのような環境で育ったのだろう。
  政宗の胤であるのに、茂庭家の息女を名乗っているからには、今の自分や自分をめぐる片倉家とおなじ構図が、かつての茂庭家にもあったにちがいない。
  茂庭延元が秀吉から側室をとりあげた逸話をもちだしたときの、重綱の暗い表情を思い出さずにはいられない。
  重綱はこうなることを見越して、あの嵐の日、たつ女に自分をひきわたしたのだと、ようやく合点がいった。卑怯とも言え、哀れとも思える。
  それを結局、このように損なくじを引くはめになるとは、彼らしくもないと思った。片倉重綱とは、拾っても捨てられる首しか持ち帰らない男のはずではなかったか。

  伊達屋敷は通気が良かった。屋敷を与えられない身分の者が近辺の長屋住まいから通ってくる。それを、まだ若い政宗の子息たちが夜でも気楽に呼びつけるので、敷地全体に若々しさがみなぎっていた。人が多いが、役割分担には厳密な区分がない。声をかけあい、手のあいた者が用をはたす。おおらかにつくられた機構が、阿梅の性にはあった。
  阿梅は例によって、最初だけは真田幸村の娘という事で周囲に騒がれ、ややもすると羨望の眼差しで見られたものだが、やはり名将の娘らしくないのだろう。すぐに、
「それがどうして、それなりの名家に縁付かず、侍女になど?」
  などとあからさまに訊かれるようになり、上手く返答できずに居る内に周囲に飽きられてきた。まったくこれまでと同じである。
  阿梅には特別に部屋が与えられなかった。他の侍女たちと一緒に裏庭の離れに寝泊りした。広いお勝手や廊下の片すみでまごつき、人々に見咎められることが多かったが、おおかたこまごまとした日常の仕事をよくこなした。
  寝付かれぬ夜は、となりに寝入る侍女とひそかに物語して、真田幸村の娘という事とは全く別次元でだが、よくおもしろがられた。
「もったいないどの」
  というあだ名がすぐについた。阿梅には勘にさわる名で、
「それは吝いという意味ですか」
  不平をいったが、誰もとりさげてくれなかった。
  はじめから、お勝手に用意される豊富な食糧におどろかされた。阿梅は、余って捨てられるものをすぐに横取りして、保存のきく方法を周りに口やかましく言い散らす。しかしそれは為になることであって、人に嫌な印象をあたえるものではないと阿梅は思っている。片倉重綱とはちがう。そう言いたかった。
  大坂方の生き残りという差別は、あからさまにうけた。これは阿梅がここに来た当初は、真田幸村人気の裏でなりを潜めていた連中からで、この連中には最初から、よく話しの輪から取り外されることが多かった。
  しかし不思議な事に、阿梅にはこの連中の気持の方が理解できた。家族を大坂の陣で亡くした娘や寡婦もいたからだ。戦に勝ったからこそ、戦没者の遺族として現在の職をあたえられているのだ、という自負が彼女たちにはある。敗戦した側の阿梅が同様の待遇を得ているのは合点がいかない。そう言い張る女も何人かいた。
  屋敷に上がって間もなく、例の五郎八姫に目通りがかなった。
  これだけは、苦手だった。
  何を考えておられるのか、さっぱりわからない。
  阿梅はよくそう思った。とんでもなく無口で、そのくせいつでもゆったりと笑みを浮かべ、これのどこが不幸なのかと思うくらい穏やかにかまえている。泣き言のひとつもいわぬのは立派にはちがいないが、なにを言っても手応えにとぼしく、しまいには話しかける方も途方にくれてしまう。苦労や精進の果てにかどが取れたの心根ができたのという感じもしない。
「お人形さま」
  誰かれかまわず、阿梅は五郎八姫をそのように形容した。まわりは美貌を指しているとうけとるようだが、本当はでくのぼうとでも呼んでやりたい。正室がはじめて生んだ娘だから良家で申し分なく育ち、ちやほやされて、このようにつまらない人間になってしまったのだろう。これでは将軍の命令でなくとも、夫に離縁ぐらいされて仕方ない。離婚して帰るところがあるならいいじゃないか。むしろあやかりたいものだ、と思った。
  五郎八姫のほうでは、阿梅をひどく気に入ったようで、
「面白うございます」
  弟の忠宗にそう伝えてくれたらしい。やがて忠宗が阿梅をよびつけた。
「夜は何をしておられる」
  さっそく茶の湯などに誘う。
「書き物など少々」
  と、阿梅は紫式部を気取ってみせた。宮中に仕える女官というのは、才能を売らねば生き残れないのだと、この若い田舎者は信じていた。


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