「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第五部〉40p

「まことです。大殿からいただいたご縁であるから、すでに断れぬもの。それで結構です。不服はございません」
  田鶴は早口で言い放ち、
「それよりも阿梅どののことを……」
  いらだって原田の袖をとらえ、引っぱり寄せようとした。
  原田は、びくっと身構えた。田鶴も原田のそうした動きに柔軟で、すぐに袖を解放してやった。
  日焼けした原田の顔面から、髭に覆われた唇だけが白くなった。
「なんです?」
  瞬間的に田鶴はそう声を放ってから、相手を待ってやらねばならぬとばかりに身を離し、再び座についた。こうした、不気味な物でも見るような目付きで見られる事には、幼い頃から慣れている。しかし原田は、
「何か……」
  と、わが髭あごを指でさすり、
「お変わりになられたような……」
  遠慮がちに言った。
「変わった?」
  田鶴は細い眉の片方だけをつりあげたが、すぐに、
「そうかもしれません」
  うなずいた。
「なれど、私は元々はこういう女だったのやもしれませぬ。何がどう変わったと原田様に思われているのか知れませんが、とにかく今の私が今の私以外に変わることはないと思います」
  水音が豊かにあたりを包んでいる。冬木立のむこうに広がる松山城下まで、せせらいでいくように聞こえた。池にひいている川の水である。
「阿梅どのは、片倉様のご内儀になられるのではないのですか」
  話を再開したのは原田の方であった。
「そうなるかもしれません」
  田鶴はそう答え、
「そして、結局そうなるしかなかったのなら、片倉様にとっても阿梅どのにとっても不幸な道筋をつけてしまったのかもしれません」
  今さら、あたりまえのことを言うと我ながら思った。
「阿梅さまは尼になられるお覚悟でいらっしゃいました。そうしたお気持ちとは存じませんでした。そうした方ならば、それはそれなりに接する方法もあったと思います。私はただ……」
  言いかけて田鶴はだまった。
  私は、ただただ父、伊達政宗の願いを適えようと、それだけで動いてきたのでございます。
  そう言いかけたのであった。そして、そのかわりに得ようとしたものを得たのだと思った。田鶴は首をあげ、
「今からでも出家させて差し上げられるような、何かそんな手だてはございませぬか。お話しというのはそのことです」
「今さら」
  原田は呆れたように首をふった。
「今さら……。そうですか」
  田鶴はそう言い、やや首を垂れた。
「お話しというのは、それだけですか」
  迷惑に思ったのか、原田はすぐに身をもてあましはじめた。
「もうひとつ」
  田鶴は逃さなかった。
「お願いがございます」
「阿梅様のことで?」
  原田は、さも厄介そうに顔をしかめた。
「いいえ、私のことです」
「ほお」
  大人ぶった態度だった。それなら聞いてやろうとでもいうように腕をくむ。そういう彼に田鶴は、
「かんたんなことです」
  皮肉をこめて口を開いた。
「仲介に立たれた津田様には、私の姉が嫁いでおります」
「存じあげております」
「その姉のもとに、輿入れまでの間、身をよせたいのです」
「ほお」
  相槌をうち、原田は考えを巡らせはじめた。
「それは、結婚の準備かなにかで?」
「まあ、そうです。母は正式な手続きもなく茂庭に入った女ですので、正直に申しあげて、世間というものをまるで知りません」
  田鶴は言いきった。つづけて、
「ゆえに、姉が輿入れの時も、それは家じゅう大変でございました。姉と同じ思いを味わうのはたくさんです。当人の姉は、私がそう申し出ればわかってくれましょうが、そのようなことになると、父や母は反対すると思われます。そんな事柄のいちいちを身内の恥と感じやすい。ことに母にはそのようなところがございます。それゆえ、原田さまから津田さまにお口添えをお願いしたいのです」
「なんと?」
「津田様に、私を預かってもらいたい、と」
「しかし、そのようなお家の事情であれば、それがしが……」
「まあ、ほほほ……」
  田鶴はせかせかと首を振り、あたりにもけたたましい笑い声をおこした。
「お聞きなさいませ」
  軽くあしらうように手をふって原田をなだめた。
「姉にはもう手紙のやりとりにて、承諾を得ているのですよ。おそらく津田さまにもそれなりに話しはついているものと思います。あとは、原田さまが津田さまに、原田家のしきたりなど婚前にお教えしたいことがあるが、茂庭の家に失礼をいたさぬやり方はないだろうか、と、ご相談下さればよろしゅうございます。そういうことなら、と義兄が姉とはかった結果。要はこのような筋だてがととのえばよろしいのですから」
「なるほど」
  頷いてしまいながらも、原田は、何か問題はないかと考えをめぐらせているようだったが、
「わかりました。そのように致しましょう」
  最後はあっさりと引き受けてくれた。こうしたところ、男らしいと言えなくもない。この先にこの男が頼りになるかならぬかは、すべて自分次第だと田鶴は思った。

  原田が帰ってから田鶴は、いつもどおり部屋にこもってすごした。日はのびて暮れどきも遅くなった。日があるうちには決して眠くはならぬ田鶴だったが、このごろは時折うたた寝をしがちである。
  急がねばならぬ。
  差し込んでくる眠気のなかにありながらも、田鶴は自分にそう言い聞かせた。このように頭ばかりを働かせるので、夜も熟睡を得た感触にうすい。朝から、どこか体がしゃんとせず、食事をとるのももどかしい。
  しかし意識だけは堅く中枢におかねば、一刻として油断のならぬほど田鶴の身体には変化が現れはじめていた。おそってくるけだるさも、むしろそのせいであると思えた。
  誰も気付いていないと田鶴には思えた。
  しかし何ひとつ確証はない。ときおり母と顔をあわせるのが恐ろしい。何か異常なものを見詰めるように目を見張り、帰ってきたときから自分を観察しているようにも感じられる。
  もともと、そんな顔をして人を見入るくせが母にはある。あるいは見て見ぬふり、気付かぬふりを押し通す可能性もある。
  自分は知らなかった。だから仕方がない。
  母にはこのように、何事にも恥知らずな責任放棄の性癖がある。しかし、それが方針として貫かれたためしはない。母は、ある日忽然と豹変する。
  自分一人の手で、何もかも始末しなくてはならない。
  こんな風に思いきわめようものなら、どのように非情な手段でもとれる人間に変貌する。
  保身のためなら、なんでもする。
  こんな嫌な部分を、自分は引き継いだのだと思うと、田鶴の心は濁り倦んだ。こうした部分をまた、腹の中にたくわえているのだとも思った。
  何か、確かにつかみかけたものが、徐々に形を変えていくのを田鶴には止められなかった。女のからだはこのように出来ているのだと段々おもえてくる。きっと母もそうだったのだろう。
  阿梅の将来を案ずる自分が、少しづつ遠のいてゆくのを感じていた。今の自分にはどうしようもない。何もかも、やむにやまれぬ事情だったのだ。日に日にそのように思えてくる。
  母と同じ運命なら、強い人間だけに与えられた、母とはちがう崇高な生き方をすればよい。そのように定まり、矛盾をどこにも見なくなったとき、田鶴はようやく気持ちの安定をおぼえた。
  そして、こういう生き方こそがしたかったのだ、と思いはじめる。実はこれこそ、本能の奥の奥で望んでいたことだ。神の声にしたがったのだとすら思えてくる。原田の前で見せた、まったく異なる自分の二つの顔が、だんだんと溶け込むようにあわさってゆく。
  どのような子なのかと想像するたびに、幼いときの弟の顔ばかりが思い描かれた。
  宗根のように夜泣きをし、癇を走らせ、ひきつけをおこすのだろう。そして、そういう我が子を、弟にたいしてもっていた感情そのままに、憎らしく愛しく哀れに思うだろう。


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