「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第四部〉37p

  もはや竜雲を待ってはいられない。
  予定どおりに。
  田鶴はそう思い、自らうなずいた。
  自分を疑ってはならない。独りでも果さぬばならない。宿を出て、夜の江戸を一人歩きしはじめた。
  藤兵衛の屋敷まで、ほんの数町である。
  手には薬を入れた包みをもっている。万が一、見回りの役人などに身改められた時に、急病の知り合いのもとに届けるといえばよい。名を明かせば番所などにまで連れていかれるおそれはない。
  わずか一町を越えただけで、あたりは日中でもひとけの少ない、いたって物静かな蔵屋敷街になった。ほどなく雑草の生い茂る空き地が広がりはじめ、建造物のまばらにしか立ち並ばない新興の土地へとつづいていく。
  星空がさえぎられることもなく冷気を伝えてくる中に、ぽつんと一件だけ、あたりには不似合いなほど立派な建造物が白々と闇に立ち塞がっている。藤兵衛の屋敷である。
  裏口から入ると、藤兵衛の姪が、寝もやらで田鶴の来るのをまっていてくれた。灯をともして長廊下を案内されて、そこで別れる。
「阿梅さま」
  まず声をかけたが、返事を待たずに田鶴は戸をあけた。
「田鶴でございます」
  暗い部屋の奥で夜具に丸まっている人影が、真っ先に目に入ってきた。
「た……田鶴さまですか」
  たしかに阿梅の声である。
「そうです。遅くなって、あいすみませぬ」
  そば近くに座すと、阿梅はようやく顔を出し、
「政宗公は……」
  と聞いてきた。
「もうじきお見えになるでしょう」
  田鶴はこたえて、もってきた包みを開けた。そして阿梅のふるえているのに気付いて、
「こわいのですか」
  気遣った。阿梅はすなおに頷き、懐剣をさしだした。
「これは?」
「竜雲さまが……」
  田鶴はなんら躊躇せず、夜具の上から阿梅の肩をやさしくたたいて、
「それでは」
  と、ほほ笑んだ。

  政宗は予定どおり、寅の刻(四時ごろ)に現れた。
  顔をあわせるなり、阿梅の期待していたとおりに文を見遣り、しかし、
「自分への文でないのが残念だ」
  と期待はずれの応答をした。
「さて」
  政宗がそういって立ちあがるのを合図に、阿梅は指をついて一礼し、
「次の間にて」
  先に立って部屋を出た。
  政宗はあてがわれた酒を一人でたのしみ、詩吟を弄し、隣の間に控えさせている侍臣に話しかけたりしていた。
「参るぞ」
  いっこうに招く声がないのを不審に感じたのか、ついにそう呼ばわり、答えもまたずに部屋に入った。
「さても」
  何かを言いかけ、夜具の膨らみの上から手をかけたその時である。
「お抱きあそばしませ」
  そういって政宗の手を引いたのは、
「そなた……田鶴ではないか」
「お抱き下さいませ。お情けを」
  政宗の、身を離そうとする勢いにのせて跳び起きた。
「血迷うたか」
「いいえ、少しも」
「そなたが、なぜ」
「私が」
  あおむけに転がりかけた政宗の腹の上から、田鶴はまともに飛び乗り、おのが体重のすべてを政宗にかぶせた。
「私が、まこと茂庭延元の娘ならば、どうかこのままお情けを頂戴しとうございます。それとも……」
「痴れもの」
  身体を敷かれ、叱りつけながらも、政宗は大声をたてはしなかった。
「そなたは、わしの子ではない」
  田鶴のなすがままに仰向け、天井を見詰めてそう言った。
「なれば、その証にこのまま」
  田鶴はすでに懐剣を手にしていたが、その手首は政宗の手に握りしめられていた。
「愚かな真似はすまいぞ」
「母になされたと同じように」
  両眼からあふれでる大粒の涙を、田鶴は政宗の頬に垂らした。
「さすれば二度と、大殿を疑いませぬ。父のことも。母のことも。弟のことも。すべてを水に流しましょうほどに」
「いや」
  政宗は手首を放し田鶴の後頭部に手のひらをあて、
「わしの子なのだ。そなたも、宗根も」
  そう言った。 田鶴は息をおさえ、政宗の首もとに懐剣の束をおしあてた。そのまま両手を政宗の首に、顎に、頬に這わせ、冷えきったおのが指先で、その存在を確かめた。何度もくりかえす内に、ついに彼の懐におのが顔面をおしつけ、はじめて嗚咽をもらした。ひいっ、と、しゃくりあげる声を漏らすたびに激しくかぶりを振り、政宗の胸もとに合わさる襟を噛んでこらえた。
「原田は気に染まぬのか」
  政宗はそう言い、田鶴の髪を撫でて、
「何もしてやれぬゆえ、せめて、そなたの好む婚儀をととのえてやりたかった。原田で不足なら……」
  田鶴は激しくかぶりを振った。
  これだ、と思った。長い年月、この言葉を待っていた。他には何もいらなかった。心も体も、世界の何もかもがどうしようもなく溶けてゆくのを田鶴は止められなかった。
  政宗は田鶴の手首を放し、投げ捨てられた懐剣を手繰りよせると、ぽんと遠くへ投げた。懐剣は畳ににぶい音をたてて転がり、それを合図に奥の衾がけたたましく開かれた。
「ご無事でございますか」
  入ってきたのは若い侍である。政宗は顎をしゃくって対面する衾をさした。
  侍は荒々しく踏みこみ、政宗に示された方のふすまを、やはり乱暴にこじあけた。
  そしてそのまま、奥にうずくまっている人影めがけて刀の柄を突きだそうとするのに、政宗が、
「手荒はいたすな。わしに大事はない」
  はじめて大声を張り上げた。
「真田の小娘はそそのかされたにすぎぬ。いたわってやれ」
「はっ」
  堅苦しく返答した侍が、持ってきた灯に照らされると、阿梅は正気をとりもどしたように、
「あっ。お許しを」
  と叫んで畳に手をつき、震えながら低頭した。政宗はそれには声をかけず、起こしていた身であぐらをかきなおした。
「大坂者か」
「いえ。これまでのところ、どうやら大坂ものは噛んでおりませなんだ」
「捕えたのか」
  侍はやはり、はっ、と堅苦しく声をあげ、
「斬りすてました」
  と答えた。
「ここに持ってこい」
  政宗は眉ひとつ動かさずに命じた。
  侍が元来た方にひき返し奥にむかって呼ばわると、ついではげしい足音をひびかせて三人の侍が入ってきた。重たげな荷を三人がかりで持ちあげ、やがて放りだした。
  あっ、と声を上げたのは田鶴である。
  声を上げるのとつっぷすのは同時であった。
  阿梅は投げ出されたものより、失神した田鶴を見るや、はじめて喉も裂けよとばかりに繰りかえし絶叫した。
  血だらけの法衣につつまれた竜雲の遺体には首がない。


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