「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第四部〉34p

  荒井は、重綱と阿梅の顔を交互に見た。ようやく、
「しからば、例の吉次とか申します真田家の……」
「見付かったのですか」
「もう江戸にはおらぬのだろう」
  二人の声が、ほとんど同時に荒井を襲った。
  切腹でも申しつけられたような顔になって、荒井は答えにつまっている。
「江戸にはおらぬ。わしは確か、そう聞いたと思うが」
  念をおす重綱の言い方はいくぶんやわらいだが、あいかわらず有無を言わせぬ調子を底にたくわえていた。
「それが居ったのでございますよ」
  荒井は自分でも驚いたというような、どこかおどけて思い切った答をはなった。
「どこです。ここに連れてきてください」
  阿梅は重綱にかまわずに言った。重綱は、
「阿梅。ならぬぞ」
  牽制した。
「なぜです」
「なぜか、わかるだろう」
「わかりません。なぜです」
「荒井」
  重綱は阿梅を相手にせずに、
「阿梅から母上なる方への伝言がある。そのほうが万事とりはからってやればよい」
  断定し、朝食を途中にして去ろうとした。そんな重綱に低頭しつつも、荒井は、
「お待ちくださいませ。お言い付けは必ずやはたす所存にございます。が、聞くところによれば、吉次なるものは今は上田の真田家につかえておる者にございます。真田家ではかようなる召し抱えにおいては、いかなる身分の者についてもいちいち本多家から内意をうかがっております」
  本多というのは、徳川家の重臣である。阿梅の叔父である真田信之は、この本多家から徳川家康の養女に入った女性を妻にしている。つまりは、徳川家からも本多家からも婿としての扱いをうけ、ために父や弟の反乱行為にもかかわらず、現在の徳川治世に安泰を保っているといってよい。
  内意というだけで、荒井はそれが誰のものとは口にしなかった。しかし、いまの本多家の当主は、信之の妻の弟がつとめている。親族の誼で、幕府の真意をそれとなく探り、伝えてやるくらいはしていよう。幕府も認めて真田家に奉公しているような者なのだから関わっても差し支えはないだろう、と暗に荒井は匂わせている。
「たわけ」
  重綱はすでに隣の間に行きかかり、ふりむいて叱った。
「なればこそ、なおのこと上田さま(真田信之)のお立場がわかろう」
  この一言で、阿梅の目はすわってしまった。
「荒井とやら。もう結構です」
「阿梅さま」
「もういいのです。よくわかりました」
「阿梅さま。もう一度よく……」
「伊豆守様」
  阿梅は近寄ろうとする荒井をふりきって、
「私、田鶴さまのすすめに従って、政宗公のもとへ参ります」
  きっぱりと断言した。

  品川の伊達藩邸へ出向いてから、政宗に従って江戸城へおもむく。
  それがこの日の重綱の日程であった。
  小太郎の病後を見守るために残った荒井は、物言いたげに阿梅の顔色をうかがっては、言い出しかねて廊下をさがった。阿梅も荒井とは顔を会わせづらく、小太郎のそばから離れなかった。
「小太郎様の病断ちの献立を」
  荒井は夕刻がせまるころになると、そういって伺いをたてにきた。
「これでいいと思います」
  阿梅は、自分の量も見積もってあるのを承知でそう答えた。察するに重綱から、自分を外にださぬよう申しつけられているのだろう。荒井が気の毒におもえてきた。
  重綱の妻になる。
  それが片倉家ひいては伊達家のためであったにせよ、もとは重綱のたくらみであったにせよ、女あるじに迎えようとする自分の要求をのみこんで主人の重綱に逆らってくれたのである。そう思えば、寺での荒井の無礼はゆるせないものでもない。自分の悲願をおぼえていて、なんとか果してやろうとした律義さには感謝の念すらわいてくる。
  正直者は損をする。阿梅は痛感した。
  に反して、重綱の裏表のはげしさはどうであろう。夜更けに帰宅するや、
「荒井は粗忽者ゆえ、じつは今朝の話を信じてはいなかったのだが、ある筋に確かめたところ、本当にこの江戸に居るそうだ」
  手の平をかえした。
「なんのことでございましょう」
「吉次とやら申す者のことだ」
  阿梅は答えなかった。重綱は、
「今朝はとつぜんの話であったから、私も当惑してつまらぬことを口走ってしまったが」
  阿梅にうけとってもらえぬ羽織りを、自分でたたみながら、
「いっそ、上田どのの江戸におられる間にでもご挨拶に出向かれてはいかがだろう。そのおりにでもその者にお会いになれば、不穏当でもないというもの」
  無気味なほど腰の低い提案をした。
  三十歳をすぎた男が、低血圧でもあるまい。
  阿梅はあきれて言葉もない。起きぬけだからと血迷ってあらぬ言を口走るようで武士といえようか。きさまの心底ついに見たぞ、という思いだった。
  今となると、母の便りがたった三日の間、ちょうど阿梅の不在のおりに届いたというのも不審に思わずにはいられない。
  本当は、もっと前にうけとっていながら自分にはわたさず、片倉家の内部でその内容を分析し協議しあい、着々となんらかの対応策を練っていたのではないだろうか。
  阿梅が片倉屋敷をとびだし大悲願寺にいったとなると母の手紙をさしだし、今、政宗の側室にあがるに及ぶとしぶっていた吉次との面会をゆるす。なにもかも握りしめ、一つ一つを小出しにしか与えない。そのやり方に阿梅の怒りは爆発しそうであった。
「片倉小十郎は吝い男だ」
  といった伊達政宗の言葉を、今こそ痛烈に思い出す。
  阿梅が憮然と座をたち、重綱のそばをぬけて小太郎の部屋に行こうとすると、重綱は、
「昨夜、阿梅の申したことだが」
  なんと、袖をひくではないか。
  立ったまま男を見下している女も女なら、女の袖をひく男も男である。そのまま阿梅の目を見ずに、重綱は、
  なるほど自分には、田鶴に影響をうけたところが多い。
  などと、しみじみ語りはじめた。
  田鶴を通じて女子の躾というものを学んだと思う。それには女の兄弟がいなかったためもあろう。
  田鶴のいうことには、その母親への不満などが多少は込められており、いわれてみれば、領主の妻とはこうでなくてはならぬと阿梅にむかってくどくどしく言ってきた内容の中には、実例としてより批判として学んでしまったものもあったかもしれない。
  しかし、それをもって田鶴への未練といわれるのは正しくない。
  ここから、重綱の話が長くなった。阿梅は立ったまま、だまって聞き流した。
  自分の言いたいことはそんなことではない。しかし、これ以上言いたくもない。
  言っても言っても、彼は否定するだろう。彼は阿梅にでもたつ女にでもなく、彼自身にむかって否定しつづけるだろう。重綱自身が気付かぬ断ちがたい思いを、なぜ自分の方から言ってやらねばならないのだ。
  そうまで自身を落としめねばならぬのは、自分が悪いからではない。
  自分は真田幸村の娘である。たつ女のいったとおり片倉家より格が上である。
  そしてそう思わねば生きていけなくなるほど、たつ女の放った言動の呪縛から解きはなたれることはない。
  すべては重綱の責任ではないか。
  そう思うほどに腹がたち、何度となくわが袖をひきかえしたが重綱は握りしめて離さなかった。
  絶対に言い訳をききたくない相手というものがこの世にはいるのものだ。阿梅にとっては、生母の高梨内記の女がそれであった。
  生母には生母の、重綱には重綱の、やむにやまれぬ事情があっただろう。
  しかし言いわけはききたくない。
  聞いてしまうということは許さなくてはならぬということだと阿梅は思った。
  自分より、姉のお市を選んだ生母を許せないように、二人に一人という決断をせまられるや妻になるべき自分より、妻には選ばなかったたつ女の言い分をたてた重綱がゆるせなかった。許してはいけないと思った。そういう事情によっていつも自分の身体が、まるごと見知らぬ他者にあずけられてしまうのだということが許せなかった。


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