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「嵐待つ」
作/こたつむり
〈第四部〉30p
江戸では今、豊臣秀頼が生存し、真田幸村に護られて薩摩の島津氏のもとで再起をはかっているというつくり話が流行していた。これは一年前には、大坂でしきりと流れた噂であったという。
たとえば島津氏が、幸村の娘が匿われている伊達氏に接触をはかってくる、というような懸念を、片倉重綱ならもつだろう。薩摩一国で幕府転覆など狙えるものではない。
幕府の目。
阿梅はあらためてその存在の重さを知らされた。
母と別れてよりこれまで、片倉家や伊達家の背後にある最高権力の大きさを阿梅とて意識しなかったわけではない。片倉重綱の阿梅にかんするあらゆる配慮は、幕府への恐れからにほかならない。そこに窮屈をおぼえ、ややもすると屈辱さえもおぼえて片倉家を出たというのに、ここにきて、やはり伊達の陣営を頼らざるをえない。堂々巡りである。
「荒井どのを呼んでください」
阿梅は海誉にたのんで、ひとまず片倉屋敷に使いをだしてもらった。
ところが、
「茂庭家のご息女からじゃそうな」
使いのものといれちがいに手紙がとどいた。
「私に?」
「同行しておる竜雲が迎えにきたと言うて、ここの山門で待っておる」
なんだろう。
阿梅はたつ女の筆跡をはじめて見た。予想どおりの細い達筆で、意外な内容を記した手紙であった。
「人をおさがしの由、不慣れなる土地にてのご難儀、お察し申しあげ候。お申しつけあれば、いかようにも助けまいらせたく、迎えをさしむけ候」
横から覗きこんで海誉は、えらく納得したようにうなずき、
「女ごは女ご同士」
そう言うと阿梅の肩をゆるくたたいた。今日も江戸城にむかうための準備にとりかかる。
阿梅は行ってみようと思った。片倉家に世話になるのとたつ女の申し出をうけるのとでは、勝算に欠けるという点で大きな差はない。
海誉は、ああそうだ、と思いつき、
「真田どのが江戸においでじゃそうな。一度、お会いになられてはどうじゃな。こちらにおいでのうちに」
「真田?」
海誉はいそいそと帯を締めなおしながら、
「真田どのじゃよ。ほれ、信州の。そなたには叔父ぎみにあたられる」
「ああ」
思いがいたった。幸村の兄、真田信之である。
阿梅にとって真田信之といえば、それは阿梅をとりまいた人々から幾度となく聞かされた信州に住まう人であって、江戸にいるとは思わなかった。
確かに現在では、真田と言って頼れるのはこの家系しかない。信濃国小県の上田を阿梅の祖父、真田昌幸から相続したまま、徳川幕府からも安堵されて領主をやっている。
「積もる話しとてあろう。そなたは叔父ぎみに何をお聞きしたいかな」
首をかしげたままの阿梅に、海誉は、
「江戸城で二度ほどお会いしたことがある。なかなかに良きお人柄じゃよ。なんでも相談なさるとよろしかろう。そなたの一番聞きたいことを教えてくださろうて」
やさしく言ってくれた。
その暖かさこそが身にしみる思いである。
阿梅ははにかみながら、やっと首を縦にふった。
前へ踏み出したら、どこからも援助の手がさしのべられはじめた。
そんな幸先の良い気持ちは、山門で竜雲に会うといっきになくなった。
竜雲とは一度も口をきいたことがない。彼が誰かと話をしている場面を見たことがない。無愛想なことでは寺の中で群をぬいている僧侶である。
「私をどこに連れていくのですか」
「神田の旅籠だ」
「そこに田鶴どのがいらっしゃるのですか」
「そうだ」
「品川というのは、そこと近いですか」
阿梅は江戸の構図をよく知らない
「品川? なんの用がある」
「竜雲さまがおいでになる前、和尚さまに品川の片倉屋敷へ使いを出していただいたのです。人をよびつけてしまいましたので、断りをいれないとならないと思いまして」
「片倉家から? 荒井か」
阿梅はおどろき、
「なぜ、ごぞんじです」
「秀雄が伊達家からよくものを貰う。使いにくるのはいつも片倉家の家来だ。去年ごろから荒井がその役目を果しにくる」
阿梅は居心地の悪さをおぼえ、
「秀雄さまがよく接待に出られるのは存じています。なれど、秀雄さまへの贈り物というわけではありません。伊達家の慣習とうかがっております」
すると、竜雲は歩みをとめてふりかえり、
「そなたも秀雄か」
と言った。
「は?」
「秀雄びいきだな、おんなは」
「そんなことは……」
向かっ腹がたった。それが坊主の言うことかと思った。
「あの女も秀雄だ」
「あのおんなって、田鶴どのですか」
「そうだ」
「そうおっしゃったのですか? 秀雄さまがお好きと?」
「言わずともわかる。女は顔に出る」
「私はちがいます」
阿梅は立ち止まってきっぱりと言い放った。
「歩け」
「私はちがいます」
「歩け。日が暮れる」
まだ朝である。
「神田って、遠いのですか」
「遠くなくとも歩かねば日が暮れる」
阿梅は駆けだして竜雲をおい越した。抜くや正面から、
「私は秀雄さまは嫌いです」
通せんぼをして言った。ついで、
「あなたも嫌いです」
と言ってやった。
阿梅の到着を待っていたたつ女は、会うや丁寧に挨拶をし、
「今しがた、片倉様よりお使いの方が見えました。増上寺をまわってこられたそうです」
「まだいるのですか」
「おられます。阿梅さまをお待ちです」
そういって先に立ち、案内した。部屋の前に来るとささやくように、
「とりあえず、あちらに行かれてはいかがでしょうか」
「あちらって、片倉屋敷ですか」
たつ女はうなずき、
「そして戻っておいでなさいまし。あちらでは埓があかぬものと思いますよ。なにしろ、阿梅さまがどなたかをお探しの由と申しあげたところ、その者はもはや江戸にはおりませぬ、そうお伝えいただきたい、となにもかも知ったうえでとりつく島もない有り様でしたからね」
阿梅は目を見張った。
「田鶴さま」
「なんでしょう」
「私もおなじ意見です」
「お察しいたします」
そう答え、今や部屋の戸に手をかけようとするたつ女の袖を阿梅はとらえた。
「待ってください。会いたくありません」
吉次をさがさせようと思って、荒井でも誰でも、片倉家の者を呼んだのである。探す気もないとわかった今、会うのは危険にほかならない。
たつ女は、やや途方にくれ、
「ひとたび別の部屋に参りましょうか。お使者をひきとらせる方法が思いつきませんので」
そう配慮してくれた。
宿はどの部屋もうまっていた。二人は宿を出てとなりの酒屋にはいった。二階で小料理でも営んでいるらしく、三味線の音や笑い声がふってくる階下を客の待合場にあてている。たつ女の施しで酒を注文し、麹臭い奥の間を借りうけた。おそらく銀をはずんだのだろう。店の応対はていねいだった。
「使いの者をおいかえす方法はありませんよ。ここに来られると、もう言ってしまいましたからね。ひとまずあちらに、おとなしくおひきとりになる以外はないと思いますが」
と、たつ女は言う。
「片倉家の厄介になるのは、もういやです。会う必要も私のほうでは無くなりました」
はげしく首をふりながらそう言い、困っているたつ女の顔を見てから阿梅は、これではまるで子供の言いざまだと反省した。