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「嵐待つ」
作/こたつむり
〈第三部〉26p
阿梅は庫裏のはずれまで行き着いて、回善和尚の部屋をとおりすぎ、さらに奥の書院、茶室のあたりを見わたした。
茶室には入れない。夜は錠がかかっているはずだし、たつ女の気性をかんがえると、茶室で寝入るようなだらしないまねをするとは思えなかった。
なんであんな女の心配をするのだろう。
そう思って阿梅はきびすをかえし、いちど回善の部屋にいきかけ、ふと本堂につづく渡りろうかの先に目をやった。本堂に渡りきったところで、その廊下は閉じられている。裏手の縁につながった構造なのだが、傷みがはげしいためその先は歩行禁止になっているのだ。実際、縁はきれぎれに壊れていて歩きようがない。
しかし外にでれば本堂の裏手にいけることを阿梅はしっている。竹林が乱雑のびほうだいに目のまえをふさぎ、ただでさえ日かげの地をいっそう暗く湿らせている。
あそこにはいきたくない。
阿梅は本能的にそう感じていた。
しかし、たつ女ならあのような場所に身を潜ませられるように思えた。茶室でねるようなふしだらはしないが、うす気味の悪い裏手の朽ちはてた堂になら床をとれる。たつ女にはそんなところがあると思った。
「ご存じのはずです。私は……私も宗根も、政宗公の胤であることを」
寺内に入るなり耳にとびこんできた女の泣き叫ぶ声を阿梅は思い出していた。
朝っぱらから、甘味をとりたいといっては弟子に茶菓子を盗みださせ、息がつまるといっては東西の戸を全開させる。口を開けば、
「もう長うはない」
を回善は連発した。
「気の病なのではありませんか」
「この顔色を見よ」
病ぶりを強調する。
たしかに顔色はさえない。頬の肉はそげおち目の中央からあごにむかって、くっきりとたて皺が刻まれている。回善によると黄疸がうかんでいるのだという。
「肝の病じゃ」
「お酒ののみすぎではありませんか」
阿梅は心底あんじて言ったつもりだが、
「言うことよ」
同情がたりないとばかりに溜息をつかれた。
その骨格はいかめしいばかりにたくましい。ものすごい大男である。
昨年、阿梅がこの寺に身をよせていたころより回善の体調はおもわしくなかった。当時は、それでも身体の故障を口にはださず、寺と労苦をともにするを良としているようなところがあったが、今では、遠慮なくまわりに愚痴をいっているようである。
「もはや空威張りも効かぬ」
大柄な肩をおとして回善はいった。病気だ病気だとさわがねば、まわりが案じてくれぬのだという。
阿梅はわらった。
これほどこぼしても、やはり彼からは病みおとろえた人の陰鬱がすこしもあらわれない。
「からかっておいでなのでしょう」
「そのとおりじゃ」
開け放たれた窓から老若ふたりの笑い声が唱和し、冬のすみきった大気にぬけた。
阿梅は回善の体に次々と灸をほどこした。
病気と聞いたときから、してあげたいと思ったかぎりのことを、今したかった。はた目にどう映ろうと、弟子たちの気遣いをみれば回善の病がかなり進行しているのがわかる。ちやほやされるとすぐいい気になり、もう直ったようにふるまうという。そのたびに卒倒してこの部屋にかつぎこまれる。
「私の祖父にたいそう似ておいでです」
「真田昌幸公じゃな」
「はい」
「片倉どのはどうじゃ」
「片倉景綱様のご生前にはおあいできませんでしたので存じませぬ」
「ちがうわい。片倉家ではいかがおすごしじゃった。よき処かとお尋ねしたのじゃ」
阿梅は口をとがらせた。
「ほれ、みたことか」
回善はつついてきた。
「こなたは髪をそいで、このわしの世話でもしておればよかったのじゃ」
軽口をたたく。ところが、
「本当にそうしておれば……いいえ、これからでもそのようにさせていただきたいのですが」
と阿梅がこたえると、回善は眉をひきしめ、
「いろいろあったようじゃの」
床の上で腕をくんだ。
「はい」
「おもしろうなかった」
「おもしろくないどころか……」
阿梅は語尾を不服そうにのみこんだ。
「じゃったら……」
大きなためいきとともに回善は掛け衣をひょいと肩にのせ、たいぎそうに身体を床敷きのうえに横たえた。阿梅が両手をさしのべると、うるさそうに手でことわり、あごで枕をひきよせた。
「じゃったら、尼になりなされ」
「本当でございますか」
「わしはもう長うはない。あとのことは知らぬ」
わあ、と、声を発して阿梅は手をわが胸にあてた。
とびたつように廊下をぬけると、
「阿梅様。餅、餅」
廊下を掃いていた僧侶によびとめられた。さきほどの僧である。ふところから布の包みをとりだし、振りまわしている。
「あとで」
阿梅は、空にも高らかな声でそれにこたえるや、ころがりそうに段をくだり、庫裏をぐるりと走りぬけた。
垣根の手前に井戸がふたつならんでいる。水量は豊富で、創建時からかわらずにあるのはこの井戸だけであると聞く。
井戸をのぞきこみ、そおっと息をすいこむと、苔と海苔のような湿った匂いにまじって、どこからとどくのか焚火の煙り、枯草、馬糞など、ありとあらゆる朝の匂いが嗅ぎとれた。井戸の石組のうえに、ぺたと頬をのせ目をとじる。幼いころの阿梅は、眠りたりない冬の朝によくこうして身体が目覚めるのを待った。
これからはじまる一日は決して憂鬱ではない。ふたたび眠りにはいるまでの一瞬一瞬を、生きる力がじゅうぶんにある。そんな納得を我にうながす儀式だった。
空はきれいに乾き、大地は健やかに冷たい。
からからと頭上にひびいた桶が、またたくまに地下に落ちて水面にぶつかった。
汲み上げた水をもらさぬよう慎重に桶をひきあげ、足元のたらいにうつした。
両手のひらをおもむろにたらいに突っこんだその時である。
「その井戸は……」
声がした。
「それは使ってはならぬと言われています」
すでにぬれた瞼をこじあけると、滴のあいまからたつ女が見えた。庫裏のかどを曲がったところで立ち止まり、阿梅を凝視している。
「え……。だって」
たつ女は、まっすぐにやってきて、
「使ってはならぬそうです」
「誰がそのようなことを」
「ここの小坊主がそう申したのです。使ってはならぬと」
阿梅は、変なの、とばかりに首をかしげ、そのまま顔を二度、三度と洗った。腰の帯にくくりつけた布をとって顔を拭くと、
「田鶴様は、井戸を使わずにどのように過ごされているのですか」
寒さに首をすくめながら、無遠慮にきいた。
「井戸は使っています」
「え、でも」
「人のいない時をえらんでいます」
「そんな……。不便ではありませぬか」
「不便です。ですが、仕方ないでしょう」
言いながらたつ女は、阿梅の手からゆるやかに桶をとりあげた。そして誰かがそこにいるかのように井戸のむこうをじっと睨み、
「台所にもむやみに顔をださぬよう言われました」
恨むように言った。
阿梅の使った水を捨て、あらたな水をくみあげるたつ女を見ていて、阿梅はふしぎな思いにかられた。
その横顔はあいかわらず透きとおるように美しいが、膚が顎のあたりにたまって、老けたように円い。寝不足なのか指先の動きにもいつもの機敏さがない。
元々はこういう女性なのか、それとも今朝は体調でも悪いのか、あるいはいいのか。とにかく吐き出される言葉とはうらはらに、たつ女の全身をとろみのある温かさが支配している。
「あなたは台所を勝手にお使いのようだけど、本当は、そのようにしてはならぬときいてます」
たつ女のそういう声に、ひとたび、そうですかと頷いたが、
「それは、お坊さんたちが使っていらっしゃる時のことではないんですか? きっとそうだと思います。きっとそうだわ」
ひきさがってはならぬと、あわてて阿梅は反論した。