「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第三部〉25p

  母が恨んでいるのは淀の方本人ではなく、母自身に課せられた運命なのだろう。滅びたりとはいえ、淀の方は近江の守護浅井家の長女である。それに対し、母、香の前はたかだか下級侍の末女にすぎない。おなじ側室とはいえ、同列に遇されぬことをそうまでなじる言動の底を、誰もがはかりしれるものではない。田鶴だけがそれを理解し、嫌悪し、軽蔑した。身のほどしらずに過去の栄光から脱却できぬ底の浅い女の性を。執念深い、嫉妬深い、母のような女にだけはなりたくない。なるまい。心に堅く堅く言いきかせることでおのれを保ってきた。
  しかし今、自分は母に似てきている。母のように嫉妬の虜になり、母とおなじ蛇のごとく執着のとぐろをまいている。
  母そのものと言ってもよい。
  思えば、真田家の娘をさそいだし馬上につれさったあの時、自分は母をついにだしぬいたという強い興奮にささえられていた。恋仇に直接手をくだすという、母にはできなかった行為を無意識のうちに選択していた。そして、母に勝った、ついに母の呪縛から解き放されたと自らの雄々しさに涙すらあふれでる思いであった。誰にどう言われようと、ばかなことをしたとは思わなかった。
  淀の方をなじる母をいつもたしなめていた父、延元。田鶴は、この父の公正な注意を当然のようにうけとめてきた。早く母を黙らせてくれればよいといつも思った。
  しかし、原田宗資が妻になるべき自分から、真田の姫を救出し匿い、当然の配慮をしたのだとばかりにふるまった時、田鶴の頭には、母のならびたてていた淀の方への悪口雑言の限りがうかんでいた。それはすべて真田家の娘にむけられていた。そして今では、その矛先を原田に重綱に転じていた。
  なぜ、あの女をかばうのか。
  なぜ、自分からかばうのか。
  なぜ、あのような言動の裏にある思いを聞きもせず、自分だけを悪いときめつけるのか。
  そしてそうした悪行の始末をつけるために、道をふみはずした女を唯一ただす手段として、結婚をもちだす。伊達家のために。伊達家安泰の踏台に、捨石になることが侍の本分だといわんばかりに。
  自分も母も、伊達家にとっては毒にすぎない。
  そして茂庭も原田もそれを食し、伊達家のために喜んで死んでいく。毒味役にすぎない。しかし愚かしい。
  決して毒を食らわずに生き残る人間だけが、唯一正しいのだ。
  片倉重綱は必ずや生き残るだろう。
  それはもはや確信になりつつあった。

  阿梅は台所にいた。
  今朝は早くにおきたが朝膳には間にあわず、大広間を覗いたときには、僧侶たちがひきあげたあとだった。
「阿梅の分はとっておいてもらえましたでしょうか」
  目をこすりながら台所を覗くと、僧侶のひとりが、
「早く顔を洗っておいでなさい」
  眉をしかめた。
「阿梅の分は」
  なおも問いかけると、
「さあ……残りがあらばこそ」
  迷惑そうに、ちらりと釜戸に目を遣りながら腰にまいている前掛けで手をふき、ああ、そうだ、と思いついた。
「回善様のお食事がまだなのです。だから残りがあるでしょう。ちゃんと回善様の分をとっておくのですよ。そのお残りをちょうだいしなさい。棚に佃煮があるから、それにもありつけるでしょう」
  給仕女のようにくねくねと首をかしげながら、猫でも追っ払うように言った。
  残りかあ……。そう思いながら釜戸の蓋をあけたが、どう見積もってもぴったり一人分しか残ってない。美味そうな芋粥である。
  きのうは寝坊して朝食にありつけず、夕に一食きりであった。今朝はなんとしても食べておきたい。今のうちに食糧を確保しておかないと、昼までに洗いざらい裏の備蓄小屋にしまわれてしまうのである。
  あっちの桶を覗き、こっちの篭を覗きしているうちに、昨日の僧侶がやってきた。
「おそようございます」
  阿梅を見るなり昨日とおなじ皮肉をいった。
「お出掛けなのですか」
  と、阿梅がきいたのは、僧侶の身なりが整っているからである。
「回善様にお食事をはこびにいくのですよ。今朝はわたしの番なので」
  修行僧にとっては高僧の世話をするのも修行のうちである。
  朝の行をおえ掃除をし朝食をすませると、上階級の僧に講義してもらうはずだが、今は田畑をたがやしに出ることになっている。住職の海誉は再建のための資金集めに奔走しているし、弟子たちも今は衣食にこと欠くありさまである。なにしろ、夜盗、野武士の類いが横行していたのである。見張りをだして殺されてしまった事例すらある。身の危険と重労働にたえかねて逃げだしたり、食いぶち減らしのため生家につっかえされる僧侶もいた。
  もっとも阿梅にとっては、めずらしくも思えない。高野山でも似たりよったりだった。表本山といわれ根本中堂などの隣在する高野山の中央なら、高僧も住まいし機能も整っている。だが流刑者とその家族が住む裏里はなかなかに物騒で、真田家の管理にあたっていた浅野氏の番兵たちも、阿梅たちが麓におりるとなるときびしく詮議するが、逆に里にはいってくる者にはきつい取り調べを行わない。犯罪者を見張っているのであって、その身の安全をまもってやっているわけではない。
「かように入ってくる者どもを配下にくわえていけば、一軍ひきいるのも夢ではない」
  兄の大助はよくそんなことを言った。
「でも出ていく時にあのようにうるさく取り調べられては、何もできますまい」
  阿梅が膨れっ面で反論すると、
「阿梅は子供だな」
  大助は得意そうに笑った。
「わざわざ一人づつ身体検査をうける馬鹿がどこにおる。彼らと彼らのもちこむ武具をたくわえ、いっきに山をくだって番兵どもをうちとるのよ」
「私もやるのですか」
「そうよ。それゆえに鍛えよと申しておる」
  大助は日に日に剣術馬術の腕をあげ、ときおり阿梅や妹たちにも仕込もうとしていた。
「女子供を人質にとっている、だから無謀はすまい、そう思っておるあやつらが不覚なのじゃ。まさかにおまえや母上までもが武装して山を下ってこようとは思わぬ」
「そのようなめんどう、ごめんこうむります」
  いまにして思えば、このころの兄も子供であった。山をおり、浅野の兵を駆逐したところで、そのあとどうするというのだろう。周囲何十里以内しか知らずにそだった田舎わらべの夢想にすぎない。
「そうじゃ。阿梅様が行かれるとよい」
  とつぜんの明るい声音に、阿梅は覚まされ、
「え、どこへ」
「回善様に粥をはこんでくだされ」
  見ると、僧侶の手が盆をのせたままさしだされている。湯気のたっている椀のうえから、
「ほらほら、お会いになりたいのでしょう」
  小さな蓋をかぶせて盆ごと阿梅の手にのせた。いつのまに炭火をおこしたのだろう。手につたわる膳のあたたかさに阿梅の腹が反応してしまった。
「おや」
  僧侶はかがんで、耳を阿梅の胸まで下げた。
「寝坊してしまって、まだなのです」
「おやおや」
「あとでここを使ってもいいですか」
「仕方ないですね。餅でもとっといてあげましょう」
「おねがいします」
  そう頼んで阿梅が行きかけると、
「ああ、阿梅様」
  僧侶は呼びもどし、声をひそめ、
「あの方、朝はお部屋においででしたか」
「あの方って、田鶴どのですか」
「ええ」
「朝もなにも」
  阿梅はまごつき、
「部屋を変わられたんじゃないですか。たしかきのう、和尚様にそうおっしゃってらしたけど」
「ふーん」
  いかにも問題だ、という顔つきで僧侶は腕をくんだ。
「いや、今朝、めずらしく我らと朝粥を召しあがったのですよ。このところ、お一人ですまされていたのですが。おなじお部屋にいながら、阿梅様にお声をかけなかったのかと思ったものですから」
  そういわれては恥ずかしい。
  きのう門前でたつ女とやりあったという噂が、おそらく寺中にひろまっているのだろう。いかにも不仲ゆえ部屋を分かっているようでいたたまれない。
  台所からつづく中ろうかを歩くうちに、阿梅は首をかしげた。
  寺の者にも知られずに部屋をかえるなどということができるのだろうか。たつ女は昨夜、どこで寝んだのだろう。自分をきらう意地を張って、本堂にでも横たわっていたというのだろうか。
  それはとても信じられない。あたたかい夜ではあったが、夜具も暖をとるすべもない本堂でなど熟睡できるものではない。だいたいゆるされていない行為である。しかし阿梅の思いをめぐらせるかぎり、夜をすごせる適所が他にはなかった。


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