「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第三部〉23p

  生母である高梨内記の女に対する心象も良くはなかった。猫の子じゃあるまいし、二人の娘の両方を育てるか、両方とも手放すかという踏ん切りがつかないようで、武家の娘といえようか。ましてや自分だけ切り捨てられ預けられたのだと思うと、胸糞が悪かった。姉のお市が並びたてる不平不満を聞かされるたびに、これを育てた実母の根性の曲がりようが透けて見えるようで、すこぶる不愉快であった。
  自分や妹たちがお市にいじめられると、阿梅はすぐ義母に告げ口した。それがたちどころにお市に知られ、
「阿梅は性根がひねくれている」
  と、お市によくなじられた。
  ひきとられてから三年後に、お市は病死した。
  死ぬまぎわまで義母や義妹たちに心をゆるさず、病床にあっても、阿梅や幸村以外の者が近付くのを警戒した。祖父にあたる高梨内記などは、正室である義母を徹底してうやまったが、それゆえにこの老臣の忠告にも耳をかさない。むしろ、かつて信州で威勢のあった高梨一族の誇りをしばしば口にした。
  阿梅にとってお市の一番好ましくない点は、最期の最期まで高野山を嫌いぬいていたところだった。姉の口から飛び出す信州への郷愁と高野山への嫌悪は、信州を知らずに育った阿梅の心をさいなんだ。
  しかし今、土地になじめない挫折感を、阿梅ははじめて味わった。亡くなるまでの姉の心象風景を、ようやく垣間見た思いであった。

  夜風が生あたたかい。
  まるで春のようだと田鶴は思った。もうじきみそかを迎えようという厳冬期に、今夜はいったいどうしたことか無気味なほど気温が高い。
  夜ごと凍てついた光のかけらをまぶしている空も、今はうっとりと霞んでいる。本堂の裏手にある古びた八角堂が、おぼろな月の光をあびて今にも動きだしそうにうずくまっている。背のたかい雑草にかこまれて、屋根までのほとんどが波間に沈みかけた小舟のように隠されている。
「もし」
  近寄りがたく、田鶴は背伸びをしながら声だけかけた。
  それに反応したのか、戸の開く音だけが聞こえたが、何かが動いた気配がしない。
  化かされているように思え、思いきって草にわけいると、ほのかに香が発った。
  密度の濃い大気の中を、ゆらゆらと細い煙りが二本流れるのを田鶴は見た。出所は意外なほど近くに感じられたが、闇のせいで特定できなかった。
  線香にちがいない。近付けば火の光が目に入るだろう。
  押すと草は、ぱきぱきと乾いた音をたて、幾本か折れた。刺のような感触がほうぼうから衣服をひっかいたが、田鶴は束ねた髪を首におさえつけながら進んでいった。細い枝ばかりが、時折はねかえって額や肩をつついてきた。
「入れ」
  とつぜん呼びかけられて田鶴は首をすくめた。
  うしろに立っているのは竜雲にちがいない。
  ぞっとした。いつからそんな所にいるのかと思った。どす黒い影にはおうとつがなく、海坊主でもあらわれたように気持ちがわるい。
「文を……文をいただいて」
「入れ」
  竜雲はぶあつい肩をよせて田鶴を威圧した。彼にあとから追い越されると、その首すじにある傷痕が意識されて、田鶴は思わず口元を手でおおった。暗闇でなにも見えないものの、田鶴には、その部分の変色した皮膚をありありと思い出せる。
  堂の階段は意外と朽ち果ててなかった。誰か使う人でもいるのか、雑草も段の下だけ刈りとられていた。のぼったところに転がっているのは火打ち石だろうか。戸口に線香が焚かれてある。これをさがして草に入り、いつのまにか通りすぎたらしい。
  竜雲につづいて田鶴も堂に入った。中は存外に広い。しかし屋根は低く、頭をかすめる。手であたりをさぐったが、蜘蛛の巣などはない。誰かが掃除をするのか……と思っていると、何かが足にあたり、ごろごろと鈍い音をたててころがった。目がなれてきて、かわらけであるのが解った。中の液体がこぼれ、つんと酒の匂いがひろがった。
  田鶴はいやな感じがして、
「お酒は竜雲どのが?」
「ちがう」
「では……」
「すわれ」
  手で酒のこぼれていない箇所をたしかめて田鶴はひざをついた。
「くさった小坊主どもが飲むのだ」
「禁じられていないのですか」
「禁酒である。だがここの者は気楽に自分であがなって飲む。宿坊では飲めないからここにきて飲む」
  竜雲は憎々しげに言葉をはいた。
「私にご用ですか」
「そうだ」
「何の用ですか」
「そなたと、ここでちぎりたい」
  えっ、と田鶴はあやうく聞き返しそうになった。
  それほどに竜雲の言葉は意外であった。けがらわしい、おぞましいという感情より先に、この不気味な血も通わぬように見える僧侶が、そういう種類の発想におよぶ不思議にとりつかれた。
  答えられずにいると、竜雲はいきなり田鶴の両肩をつかんでひきよせようとした。
「おまち下さい」
「さからってはならぬ」
  その声もあいかわらず底に沈むほど重い。
「お文には、伊達家の大事を明かすとありました。あれは嘘でございますか」
「嘘ではない」
「ならば、なぜこのようなことをなさいます」
「そなたが、他に漏らさぬ証拠である」
「他に?」
  田鶴は笑った。
「なにがおかしい」
「こんなことをなされば秘密を守るとでもお思いでしょうか」
  竜雲はだまり、いっそう強く田鶴をひきよせた。
「女ごはこんなことで心を定める生きものではございません」
  ふみしだかれ荒々しく裾をまくられてなお、
「このようなことはどなたとでもできる。それが女ごというものでございますから」
  田鶴の声には哀れみが混ざっていた。怪物がとたんに昆虫に思えた。女は貞操をうばえば所有できると信じているのなら、所詮は世間知らずの寺男にすぎない。
「その通りだ。しかし」
  田鶴の帯を解き、手首にそれをまきつけると、竜雲ははじめて身をおこして言った。
「証が要るのだ」
「証?」
「そうだ」
「どのような証でございましょう」
「命の証だ」
  竜雲はおのが唇をもって田鶴の口を封じた。
  彼がどのような表情をしているのかわからなかった。闇のせいではない。見えないのではなく、田鶴は今、見ようという気力を失っているのであった。
  このように男に身をまかせようとは、これまでの人生に一度たりとも予測しなかった。また、このように身をまかせられる自分でないと信じてきた。
  徐々に息をはずませ身体の重みをかけてくる男にたいして、田鶴はまったくの無防備であった。拒否もせず、しかし相手の身体を抱こうともしなかった。
  荒々しい息遣いと、衣がはげしく擦れ合う音、皮膚と皮膚、肉体と肉体が摩擦をくりかえす規則的な連続音が交差する中で、田鶴に見えるのは歪みきって醜い自分自身の顔だけであった。両肩がもちあがり、首も顎も左右に振れながら、体が頭のほうへ頭のほうへとずれていく。そのたびに竜雲は田鶴の肩に手をかけ、したたかに引き下げた。田鶴は手で床敷きの藁をにぎりしめては肘をのばす。やはりおのが身体を頭のほうへと導いてしまい、竜雲はあとをおいながら田鶴の腰を捕えてひきよせた。
  狭い堂の壁に頭がつかえると田鶴は、この作業はここで終わるのかと思った。
  しかしそうではなかった。狙いを定めるように竜雲の動きは慎重になり、息をつめ、息をもらし、また息をつめた。
  命の証。
  朦朧としかかる田鶴の脳裏に、草むらの上の白骨死体が浮かんだ。郷里で見たことのある光景だった。
  水利の尽きた井戸の底から、発見され汲み上げられ放置されているのを通りかかって見た。同じ道を帰ってきたおりにはもう無かった。あたりの寺にでも収容されたのだろう。花も添えられず弔いの形跡もなく、草むらは死体のあった場には不似合いなほど青々と茂っていた。


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