「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第三部〉21p

  いつのまにか寝たらしい。目がさめるとたつ女はいない。寝床もきれいに片づいている。
  日はずいぶんとのぼっていた。夜明近くにようやく寝付いたようだ。
「おはようございます」
  廊下ですれちがった修行僧にあいさつすると、さっそく、
「おはようじゃなくて、おそようでございますな」
  と軽口をたたかれた。阿梅がその言葉に額の皺をよせ、口をすぼませると、
「ほらほら、すぐそうなさる。まだ赤ちゃんなのでしょう」
  笑い顔でからかわれた。阿梅は、
「あのね、ちょっと」
  と手招きして廊下の先を行った。修行僧は首をかしげてついてこなかったが、阿梅がふりかえって、ちょっとちょっと、というと、笑いながらついてきた。
「おねしょでもしたのですか」
「ひどいわね。ちがいますよ」
「なんですか」
「回善様がご病気とうかがったけど」
  僧は困ったように俯き、誰から聞いたのか、同室の女人にきいたのかと質問してきた。
「あんなひとと」
  阿梅は自分にあてがわれた部屋のほうをふりむき、そこにまだたつ女がいるかのように睨んだ。僧は遠慮がちに、
「きらいなんですか」
「わたくしはね」
「私もですよ」
  二人はともに肩をすぼませて、こっそりと笑った。
「みんな言ってますよ。なんでこんな所にいらっしゃるのかって」
「なんでなの?」
「さあ、一言もおっしゃいません。何の用があるんだか」
「私のことは何かおっしゃった?」
「いいえ。私など口もきいたことはありませんよ。だいたい、ここに来られた日に、門までだれか迎えに来いという仰せだったんですよ。みな機嫌を悪くしましたね。雪が降ってたのですよ。海誉様は江戸づめです。回善様とてご病気です。誰も挨拶にこないのがお気に障ったようですね。あのように気位の高い姫君のお相手のできる者など、この寺には他におりませんし……。それからずっとここにご滞在です。寺の空気が悪くなりますよ」
  吐き出すようにそう言うと、その修行僧も阿梅と同様に部屋のほうをにらんで、
「ここを高野山と勘違いしていたようだ。そうおっしゃったそうですよ。厭味のおつもりなのでしょうがね」
「あのひと、高野山に行ったことがあるのかしら」
  阿梅が不安になり、真剣な面差しで聞くと、修行僧はワッと笑った。
「奥州の田舎から一歩も出たことはないでしょうよ。高野山は阿梅様のほうがはるかにおくわしいではありませんか」
「そうでもないらしいわ」
  阿梅は廊下の隅に腰をおろし、ひざの上にほおづえをついた。修行僧は首をかしげて近寄り、ひざだちになった。
「どうして?」
  うかぬ顔をのぞかれ、阿梅は溜息をついた。
「高野山のことも真田のことも、私はなんにも知らずに育ったのだということがよくわかったんです。育った世間が狭くて損をしています」
「ずっとここにいらしたら良いではありませぬか」
  何も知らず、僧侶はのんきなことを言い、
「阿梅さまが干された木の芽。あの後、うかがった通りにつけこんでみましたが、うまくいきませんでした」
「山椒を加えるのですよ」
「加えました。ああいう味のものなのでしょうか」
  阿梅は眉をよせ、
「そう言われても、食べてみないとわからないわ」
「だから春まではいらしていただかないと……。みな阿梅さまがいらして喜んでおりますよ」
「海誉さまは何ておっしゃるかしら」
  すると僧はひっそりと手をふり、
「そういうことは、海誉様より回善様にお願いするほうが良いですよ」
「ご病気なのでしょう?」
「折をみて、お部屋に案内しましょう」
「本当?」
「あの方には言わないで下さいね」
  と顎をしゃくって、僧はまた部屋のほうを示した。

  昨日までに集まった職人たちが茅葺き門の計測を行っている。阿梅は台所を借りにいく途中をたちどまって、庭から傍観し、
「この門を修繕するんですか」
  通りかかった僧をつかまえて聞いてみた。
「改築するのだ。門だけではなく、本堂や庫裏も」
  秀雄であった。
「お金がかかるでしょう」
  遠慮がちに聞いたつもりだったが、秀雄には気に障ったとみえて、
「昔、ここはもっと立派な寺だったのだ」
  そう言って袂をたどりながら両手をくみ、静かに本堂の石段をおりていった。
「うちつづく戦乱の世にあってかように荒れ果ててしまったが、元のとおりにしようと海誉様も回善様もずいぶんと苦心されてきたのだ。しかしそちらの工面はめどもたって、このたびようやく世の中がおさまりつつあるので、いよいよ復興に着手できるようになった」
  秀雄は片手を懐から出し、雑木林になっている本堂の裏手を指した。
「このむこうが今は畑になっている」
  阿梅はうなずいた。朝の御経の行をおえると、修行僧たちが総出で田畑を耕しにいくのを知っている。
「あのあたりに観音堂を建てる計画をもっている。そのさらに先の山にむかっては墓所、ふもとには鎮守堂」
  お愛想で聞いてみただけなので、秀雄のいう壮大な計画を、阿梅は耳はんぶん程度に聴きながした。すると秀雄に、
「聞いておるのか」
  叱られた。
  阿梅は真剣に聞いているとばかりに頷いたが、長々しい説明の口火をきったことも秀雄をひきとめたこともとっくに後悔していた。
  始まった。過去の栄光。
  そう思った。昔は立派な寺だったというのが、この坊主の決まり文句であったと今さらながらに思い出す。
  この大悲願寺の中で、唯一、苦手な僧侶だと思った。どこかどの人間に対しても、心をゆるしていない、一線を画すようなところが秀雄にはある。そのくせ寺に寄宿する者には、ああしろこうしろと指図したがるのである。
  特に阿梅にたいしてはそうだった。
  高野山から来たというのに、こんな事も知らないのか。秀雄にはよく、そういう顔をされた。そうしたところ、片倉重綱に似ているようでもある。なんにせよ阿梅にはけむたい存在であった。
  ところがそうするうちに、秀雄の指さす方角からたつ女がもどってくるのが見えた。
  とっさに阿梅は秀雄の背にまわってしまった。秀雄はやや身体を離すように一歩前に出た。阿梅がそのあとを追う。秀雄が右に一歩出て阿梅から離れると、阿梅も一歩でおいつきやはり背にまわった。秀雄は、
「どうした。何をやっているのだ」
  と、たしなめ、
「こら、少し離れなさい」
  いかにも息苦しそうに阿梅の肩を押した。つき放されてはじめて阿梅はやってきて立ちどまったたつ女を見た。イヤな奴が来たという顔になった。
  しかしそうした阿梅の露骨な態度が、田鶴に余裕をもたらした。
  この女は自分をつけてここに来たわけではない。
  そのことが今、はっきりと田鶴にはわかった。付け狙うどころか、こうして逃げまわっている。あの嵐の日から未だ変わらずに、自分の存在が目の前の小娘にとって脅威であることをようやく実感できたのである。
  おしだまった二人の女の間に立って腕をくんでいた秀雄は、静かに腕を解き、後方の阿梅の背に手をさしいれて自分の前に立たせ、田鶴に軽く頭を下げるとおもむろにきびすを返した。
  砂利の混じった土をさくさくと踏んで本堂に戻っていく。門前で測量をつづける職人たちに用があったのだろうに、いかにもなにごとも済ませたような様子で行ってしまった。
  阿梅には、秀雄が田鶴を重んじているように見えた。さきほどの修行僧が、奥州を田舎だと言い放ったのが思い出される。
  修行僧にとっては一度は上ってみたい名山なのだろうが、高野山は京に近いというだけで、とんでもなく山深い。ましてや阿梅が暮らしていたのは、人目にふれぬ隠れ里である。そこに長年いた自分のほうが、目の前の茂庭家の女に比べればはるかに田舎者にちがいない。そう思うと、秀雄の背に隠れようとした自分がはずかしくなった。
  田鶴には、秀雄が阿梅を庇っているように思え、
「秀雄どのと何のお話しを?」
  きりきりと尖った声で阿梅につめよった。


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