「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第二部〉18p

「なんですって」
「阿梅様です。こちらにいらっしゃるのでしょう」
「阿梅どのですって?」
  どうしてこんなところに真田家の姫が来るというのです。
  田鶴はそう聞きそうになって、口をつぐんだ。
  あの豪雨のさなか、後ろから追い掛けてきた男と真田の女を奪いあったときの激しい感触がからだじゅうから蘇ってきて、あとからあとから動悸が迫ってくる。
  男の顔はおぼえていない。というより見ているゆとりなど無かった。女を渡すまい、邪魔者をやりすごさねばと、走りゆく先方ばかりを目でおっていた。
  おそらくは片倉家の者だろう。そして、あの事件がちまたの噂になったのは、あの男が触れ回ったからだろうと田鶴は想像していた。しかしそこから、どうして自分が阿梅を隠しているという発想に発展するのかが、田鶴にはわからない。
  答えられずに黙していると、原田は先をいそぐように田鶴の部屋に入り、座について言った。
「阿梅様のことばかりではありません。申し上げるまでもなく、我々の縁談についても、あなた様のご存念をうかがっておかねばならない。一体いつまでこのような所におられるおつもりなのか」
「縁談?」
「お聞きおよびでしょう」
「それは……」
  田鶴もおくれて座をとり、
「お断りもうしあげる所存でございました」
  きっぱりと言った。原田は、
「ほお」
  口だけを動かした。そしてそのまま黙った。
「よろしゅうございますね」
  田鶴は念をおし、首をかしげる原田を見て、はじめて落ち着きをとりもどした。
「こうして、原田様とじかにお話しできるのはなによりでございます。女は、縁談となると自分自身の意見を申し述べられぬものとされているところが世間にはありますので、本日おこしいただけて宜しゅうございました。ここに父や兄がおれば、私に、一言も許さなかったことでしょう」
  澱むことなく発言できたことに満足し、原田の回答を待った。
  しかし原田は黙ったまま、ぼんやりと田鶴を見つめていた。放心しているといったほうが近い。
「よろしゅうございますね」
  あまりの手ごたえのなさにじれて、田鶴は声音を強めた。原田はちょっと眉をうかせて、
「それは茂庭様からのご返答とうけたまわってもよろしいのでしょうか」
  事務的に言った。やはり澱みがない。
「茂庭の父や兄の意見は、また別のものだと思います。このたびの縁談は大殿のおはからいということもあり、簡単にひるがえせる種類のものではないと心得ます」
「そのとおりです。私や田鶴どの、個人同士の感情だけで動かせるものではございません。田鶴どのご本人に、断るとおっしゃられても、茂庭様のご意見、ひいてはお館様からの取りやめの沙汰をお受けできなくては、ことは成らぬと存じます」
「どうすればよろしいのですか」
「今、申しあげたとおりです。茂庭家、伊達家、そして仲介に入られた津田家をすべて説得しなくてはならないのではありませんか」
  原田は他人ごとのようにそういった。
「私がやるのですか? すべて」
「私にそうせよと言われるのですか」
  田鶴はためいきをつき、
「そうではありません。私はただ、断りたいという気持ちを原田様に伝えたかったと申しているのです。それが成るか成らぬかは私にもわかりません」
「あなた様のお気持ちを? なるほど」
  原田はうなずき、
「わかりました。それなら成るか成らぬかは別のこととして、念のためにお断りなさる理由をうかがっておきましょうか」
  仕方ないからつきあってやる。原田からは、そういう調子がにじみでていた。
「何か、先をお急ぎなのですか。他に御用でも?」
  田鶴はいらだち、答えもまたずに、
「よほど緊急に、阿梅どのをお探ししなくてはならぬ理由でもおありなのでしょうか」
  すると、あたかもその言葉を待っていたかのように、
「阿梅様は白石城をお出になられました」
  どうだ、とばかりに原田の目は凄んでいた。かさねて、
「この先も、きっとお戻りにはなられないでしょう。あなた様が片倉様以外の誰かと縁付かれない以上、あの方の心の痛みは消えないと存じます。おわかりでしょうか。あなた様のなさったことがなにもかもを不当にねじまげてしまったのです」
  田鶴の顔からは急速に血の気がひいていった。開いたままの唇を舌でなめると、原田は何をか言わせるものか、とでもいった具合に、
「弁解は一切、ご無用に存じます。この上、縁談をはねのけるなどというわがままが通用するとでもお思いなら、ずいぶんと世間を甘く見ておられると申し上げていいでしょう。なんなら今、この場で、それがしがあなた様と祝言を上げてもよろしゅうございます。それが拙速と申されるのであらば、これより原田家にておあずかりにお連れ申しましょう」
  言うや、ぐいとひざを進め、乱暴に田鶴の片腕をつかんだ。
  きゃっ、と思わず声をあげ、肩を左右に振って原田の手をほどくと、
「無礼者!」
  田鶴は叫んでいた。原田はひるまない。女の背から恐ろしいほどの腕力でその動きを静止させた。おのが腕の中で田鶴の乱れた呼吸がおさまるのを待って、
「再三、無礼は承知のうえです」
  息ひとつ乱さずに言った。反して、田鶴は喉にひっかかったような声で、
「原田家にはいきません」
  背を覆う無法者に叫んでいた。
「けっこう。それなら茂庭家の江戸屋敷に」
「茂庭にも、もう戻りとうない」
「それでは、亘理家に」
「亘理ですって?」
  原田はやっと腕をとき、田鶴に正面をむかせた。
「宗根様のおわす」
「宗根。あの子に聞いたのですね。私がここにいると」
「そのとおり。弟ぎみであられる。不服はございますまい」
「いやです」
  首をふり、田鶴はずるりと原田の胸を、腹をすべりおちて床にくずれた。
「大殿に……、政宗公のもとに参ります」
「縁談を断りに?」
「そうです」
「お聞き入れにはなりますまい」
「いいえ、聞いてくださいます」
「無駄です」
  ためいきをつきながら、原田もようやく床にひざをついて田鶴と顔の位置をあわせた。
「まったくおわかりでない。そんな子供じみたことを通せるものではないのです。だいたい政宗公はお会いにはなられぬでしょう」
「嘘です」
「嘘ではありませぬ。めおとのことが整ったあかつきに、田鶴どのにもお会いして祝いごとを述べようとの仰せでございました。つまりそれまでは、整うをひたすら待つとの御心を示されたも同然」
  嘘です! 田鶴は叫びたかった。
  裏切られた。
  そう悟った。原田との縁組は、自分のほうに権限がゆるされていると政宗からはうけとってきた。しかしあの夜、彼から投げかけられた一連の波紋は、こんな形で帰結したのだとようやくわかりかけた。それは田鶴にとって死ぬよりさらに、尼になるよりいっそう屈辱的なことであった。
「いいえ」
  叫ぶとそれは泣き声に転じていた。田鶴は鼻水をのみこみ、こんな空虚な絵図面にあてはめられるべき自分ではないはずだと思った。我をふりしぼり、心の奥底に結わえつけた何かを引っ張りだそうとかぶりを二度ふると、
「ご存じのはずです。私は、私も宗根も、政宗公の胤であることを。私は伊達政宗の娘です。あなた様との縁談も父が娘に与えたものだったのです。私がいやだといえば、そういう考えを知れば、大殿は撤回してくださいます」
  絶叫した。声の涸れたとき、唇は蒸発をもよおしたように乾ききった。 原田はひざにためていた体重で、どたっと尻をついた。
  二人は同時に庭に視線を転じ、やがて空を見上げた。
  重い雲がちょうど庭にさしかかり、枯れ重なっている草むらや根こそぎうちたおれている庭石を、端からうすい暗がりにさそっていった。


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