「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第二部〉16p

  母のたねは、伏見の下級侍、高田次郎右衛門の娘であった。香の前と呼ばれたのは、豊臣秀吉に召し出され、その愛妾の一人に加えられたころからである。
  音に聞こえた伏見城や大坂城という想像もおよばぬ巨大な宮殿のほんの一隅で、まだ少女であった母が老哲である秀吉に仕えている。子供のころの田鶴にとって、それは一枚の絵にかたちよくおさまる光景だった。豊臣秀吉という名は巨大な歴史そのものであり、ときおり周りから聞く秀吉の好色癖についても、英雄色を好む、権力者とはそうしたものという田鶴の認識を変えることはできなかった。
  母の履歴に熱が加わり、どことなく精巧さが崩れはじめたのは、その過程を知ったことに原因があった。
  母が、秀吉から父の延元の手にわたる途中に、伊達政宗を経由していたという事実である。
  田鶴にとって政宗は伝説の英雄などではない。幼いころから政宗を実際に見て育った。秀吉を人間と認識したことはなかったが、政宗は人間であり、男性として田鶴の目前をふさいでいた。
  そうして振り返り、ようやく、秀吉も政宗も、また父の延元も、母に対して、または女に対して、そう大きなちがいなどないのではないかと思いはじめた。同じように好色で、ただ、かわるがわるに母という女を弄んだにすぎない。そう思いはじめると、田鶴の体には気も狂わんばかりに血がさかのぼってくる。そして、日々の暮らしに浸りきっていられる母の鈍重さを見るにつけ、消してやりたいという衝動が全身をつきぬけていった。
  女だからとくくりつけた宗根の声がいつまでも耳の奥に残っていた。弟は、あのように断じることで、母とおのれとはちがうのだと思いつづけたのだろう。そして、たとえ母がこの世を去っても、姉という象徴を残し反面教師にすえることで、常に自戒を忘れまいとしているのかもしれない。
  暗黙のうちにわりふられている悪役を演じる苦痛、演じることを強要される屈辱が、常にあの仙台伊達家中のいたるところにあった。
  しかし、いつもいつも風に吹かれる側に立たされるのは厭だった。吹く側にいたかった。いつかは風にのって行きたいところへ行ける。そういう自分になりたかった。

  大悲願寺の内門が田鶴の部屋から見える。昨日のひがな一日、冬の陽がよく庭をめぐって残雪も余すところ門下にわずかとなった。
  早朝、海誉がこの門から二人の弟子に見送られ出掛けていくのを、田鶴は縁から見かけた。田鶴のおとずれた夜に江戸城から帰り、寺にとどまっていたのは二日間だけだった。その間、あのか細い体を、庭といい廊下といい本堂といい、台所にまで寺の様々な場所に出没させた。呼び出しが多く、それを喜んでいるようにも見える。茶室における海誉そのままに落ち着き、にこやかさにあふれていた。
  この三日めから田鶴は朝粥の席に出るのをやめた。寺に出入りの商人を見付け、朝夕の食材を手にいれるめどがたったのだ。
  廊下は毎朝のようにあわただしく、田鶴が寝過ごしているとでも思ったのか、いきなり仕切り戸を連打する者もあった。
「『だって、誰も教えてくれないんですもの』そなたはいつでもこれですね。教えてくれない、声をかけてくれない者が悪いのであって、おぼえられない、間に合わない自分が悪いのではない。本当に、田鶴の理屈はいつもそうなのですよ。場になじまないのは場のほうが悪い。人に良く思われないのは良く思わぬ人のせい。たまにはご自分の方からうちとけてみてはいかが? そんなに気強くふるまっていて、よく疲れないこと」
  耳の奥によみがえるのは、姉の芳乃の声だった。言葉は辛辣だが、声音には笑いをこらえるような温もりがこめられている。
  優しかった。
  思い出す限り、田鶴にこれほど愛情を注いでくれる人間は芳乃しかいなかった。
  長兄、良元と田鶴の間は十六歳離れている。親子ほども年のちがう兄妹のちょうど中間に立たされ、誰にもかまわれなかったせいか、一人娘のように気ままなところが芳乃にはあった。
  片倉家の白石城に田鶴をはじめて連れていってくれたのも芳乃だった。
  重綱には叔母にあたるきた女に会うためである。政宗の養育係をつとめた賢婦人として名が高く、喜多を訪問する子女は伊達家中にも多かった。が、彼女はいつも朗らかさに包まれて、堅い職歴を感じさせない。たずねてきた芳乃や田鶴を、城の西側に結んでいる自が草庵に誘い、気軽に夕餉をふるまってくれた。出家の人とは思えぬほどに元気がよく、枯れ山水の庭おもてに響きわたる高らかな声で、きらきらと笑いころげた。生涯の独身を少しも苦にせず、また、伊達家のために操をささげたというような骨太な生き様を背負ってもいなかった。笑いたければ笑い、泣けることには遠慮なく涙を流した。ことに政宗の幼少期の苦労話しに談がおよぶと、いつも同情と愛憐で顔をくしゃくしゃにして泣いた。禁忌がそこには存在せず、田鶴もひざをのりだして様々な逸話を聞き出した。
  重綱にもよく会った。彼は竹刀の振り稽古が終わると、
「田鶴どの。声をかけて下さればよろしかったのに」
  汗をふきながら縁をあがり、決まってこう言った。
「お邪魔かと思いまして」
  実際、田鶴はいつも声をかけようとする。しかし裏木戸ごしに垣間見る彼は、あまりにも竹刀の上げ下ろしに真剣すぎて、思わず躊躇させられる。
「邪魔? 田鶴どのらしくもない」
  重綱は、一言のもとに笑い消してしまう。
「私らしくないとは、どういう意味ですか」
  なぜか、重綱に対してはそう聞けない。ちょっと首を傾げてみせるのだが、我ながらぎこちない。こだわりのあまり、会話がとだえてしまうことがこわい。
  重綱に嫌われてしまうことがこわかった。それはおそらく、すべての人間が彼に抱いている感情であり、迷路のように行き場のわからないものであった。
「いつでも遊びにいらして下さい。父も母も田鶴どのが来られるとよろこびます。茂庭様とわが片倉とは、ともに伊達家を支えていく盟友の仲なのですから」
  やや顔を紅潮させながら、重綱はよくこんな言葉を口にした。
  すがすがしい立ち居振る舞いによく通る声。額が広く眉のよくひきしまった、いかにも利発な好青年という顔立ちに、しゃべりすぎては、ふと、自らを照れ、頬を真っ赤にしてしまう素直な地が溶け込んでいる。
  重綱には、行く手のありとあらゆる事柄に、いちいち学ぼうとする癖があったように思われる。どこからでも、おのれの経験になりうる材料を巧みに仕入れる才があった。時折しくじる場面があっても、返って人に愛されるような天性の朴訥さが彼を救っていた。
  はじめて会った六歳のころから、田鶴はこの少年が好きだった。重綱は十七歳だったが、田鶴の目に彼は、まわりの大人たちよりよほど大人らしくうつった。そうした好ましく思えるすべてが彼の父親からゆずられているのだと聞くと、幼いころより長い歳月を伊達政宗ひとすじにささげつづけてきた片倉景綱という重臣をも、ともに好ましく思えた。遊びにきた田鶴が景綱に挨拶を申し出ると、
「父はそうしたことは好みません」
  重綱は驚いたようにそう言って止めた。そして、よく、さすがは茂庭家の子供だとほめられもした。
  しかし田鶴にはむしろ、片倉家のやりかたの方が心地よかった。挨拶を断りはしても、嫌っているからではないとはっきり伝える空気が常に満ちていて、田鶴には新鮮だった。重綱と別れて帰る廊下や門の周辺で誰と出くわしても、みな田鶴の出入りを心得ていて、今度はいつ来るのかとか、茶菓子をもっていきなさいなどと、自然で、親しみのこもった言葉をかけてくれた。
  いつのまにか重綱個人を越えて、片倉家そのものに魅かれ、やがて、その中に入りたいと願うに至った。また重綱には、自分一人が愛されるより、自分を含めた家全体が愛されることを望んでいるようなところがあった。
  重綱の正室が亡くなったとき、その後ぞえを父に頼んだのは田鶴本人だった。しかし実際、その中にあって徐々に浮き上がり、やがては孤立する我身を予想してもいた。重綱と自分とでは、育った環境がちがいすぎると思った。


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