「嵐待つ」
作/こたつむり



〈第二部〉15p

「いや……これは」
  瀬上ははじめから、にこにこと応対している。彼から見れば田鶴の茂庭家はずいぶんと格が高い。失礼のないようにふるまってはいるものの、どこかに子供でも相手にするような鷹揚さがにじみでていた。それでも律義につきあうのは人柄だろう。政宗が気にいるだけのことはある。
「お膳立ては私が果します。瀬上様にはどうか、ご後見の方を」
「恐れいりました。あい努めましょう」
  いつ切れるかわからぬ、かぼそい紙縒にも似た口約束であった。力も弱く、あてにはならない相手だったが、ひとつだけ自分に共通するものがあると田鶴は思った。それは主命という動かぬ証拠より、主君の胸中に重きをおく価値感だった。
  政宗の胸中にあるものは、家来の方から察しなければならないのだ。田鶴はそう思って生きてきた。それは強迫観念となって、幼い彼女の眠りをしばしば遮った。それを田鶴は、ついにうちあけられたのだと思った。少なくとも自分一人がうけとった。政宗は、自分でなければこのようなことを頼まないとも思った。そして政宗の頼みとあれば、いかなる手段を講じてもかなえなくてはならないと思った。なんのためにかは振り返らなかった。ただ絶好の機会と確信し、行動をおこした。
  まちがえれば殺される。そうも思った。
  殺されてはならない。それだけは避けたい。命が惜しいとは思わなかったが、何事も果さぬうちに消えるわけにはいかなかった。そのためにも確かに生き残れる証拠を、殺されないことを確かめたくて、大悲願寺に来た。
  真田の娘を奪いきれず逃した瞬間、田鶴がとっさに思ったのはそれであった。そして松山をおわれ、江戸に住まう日に日に確かめずにはいられなくなった。ただ焦躁に身を焦がし、何らかの沙汰を待っていても、命の保証は得られないと思った。そよぐ風にもゆれて消える蝋燭の灯を、指でかこって保たせるほどに、それははかない望みだった。
  伊達小次郎が殺されてなければ、自分も殺されはしない。
  狂気であろうが妄想であろうが、田鶴は一筋にそう信じてここに辿りついた。

  亘理家に養子に入り跡をついだ田鶴の弟、宗根がたずねてきたのは翌日の午後だった。
  庭で鉢合わせになった時、それが弟とはわからず、田鶴はとっさに部屋に逃げ帰りかけた。
「逃げ隠れなさろうとは、姉上らしくもない」
  部屋にあがると、さっそく宗根ははじめた。皮肉そうにもちあげる口元や、鼻をならして笑う癖は昔のままだ。唯一の同母弟だったが、田鶴には苦手な相手だった。
  宗根も牽制ぎみに、
「私にも立場があります。そうしたくだらないものがそなわるようになりました。私にとっては大事でございます。姉上はきっとお笑いになるでしょう」
「べつに笑いません。ただ、私にはそんなものが必要なかっただけのことです。立場なんてものは」
「弱い人間の欲するものだと、そうおっしゃりたいんですね」
  なぜかいつも田鶴は彼のひろげている網にかかってしまう。お前は俺を軽蔑しているんだろうと言いながら、その何倍もの軽蔑を投げ返してくる。しょせん相手を憎みたいがための被害妄想にすぎない。
「用件だけをおっしゃい。どこへ連れていこうというのです」
  すると宗根は、ふんと笑い、眉をもちあげて、
「どこへ連れていけと言うのです。姉上のことは、もはや誰もが見捨てていることでしょう。この寺で尼にでもなったらいかがです」
「尼!」
  田鶴は色をうしなった。死ぬよりもいやな事だった。それだけは考えずにきた。それが政宗の意志なのかと、身のうちに震えが走った。
  しかし宗根の口から政宗の名は出なかった。宗根は静かにひざをすすめて縁に近寄り、庭に目をくばるやすばやく戸を閉め、
「父上と母上のことです」
  と切り出した。
「え?」
「こんな寺に他に何の用があります? こちらに伊達家ゆかりの御仁がお住まいになられたという噂があったのはずいぶんと前のものです。もはや誰も記憶にすらないでしょうし、あったとしてもそういうお家の事情を暴こうとかむしかえしてみようなどとは、姉上でなければ思いつかれますまい。茂庭家の行き遅れた娘が、このような寺でふらふらと訳のわからぬ詮索などしようとする。茂庭からは、いったい何の故かと、早速にこの私に詰問の嵐でございます。私ならわかるだろう。そういう世間の目が、いかに迷惑であろうとも跳ね返せない。皆が皆、まっすぐに私になんらかの処置をせまる。
  以前も同じようなことがございました。家をとびでたまま、片倉屋敷に入り浸り、喜多どのに、あれやこれやとお家の事情を詮索し」
「お待ちなさい。そのことと父上母上のことと何の関係があったというのです」
  田鶴が中断すると、宗根は今まで適当に据えていた視線を、ぴたりと田鶴の目にとめた。なぜか田鶴は、そういう宗根をまともには見返せなかった。
  なにか勘違いがあると思った。あるいは彼は、田鶴の行状をなにも聞かされていないのかもしれない。とにかく連れもどしてこいと指図をうけ、わけもわからず、来たくもないのに来たということを言いに来たようにも見えた。
  田鶴は用心深くだまった。彼の言うとおり、養子にいったとはいえ弟との縁は一生切れないと思ったからだ。
「なんのつながりもないものを、つなげこじつけるのが姉上の常ではありませぬか。ご自分に少しでも不都合がおきると、どこかに出掛けていって何かを蒸し返し、必ずご自分の不幸につなげてふさがりつつある古傷をひろげようとなさる。一度得た不幸の味を、時おり嘗め返さずにはすごせぬ姉上の癖なのです」
  宗根は吐きだすようにそう言った。
「不都合?」
「片倉様とのご縁が破談になった事です。それならこたび、原田様とのご縁がまとまり、世間はすべてを水に流しておりましたのに」
「宗根どの。あなたに一体なにがわかるのですか」
  だまってはいられなかった。田鶴は声をあらげ、
「ご自分は養い家で安穏と暮らしてきて、円満にご縁談も片付けられ、今や押しも押されもせぬ亘理の家の跡取りとなられた。そういうあなたに、長い年月を茂庭の家で肩身の狭さに耐えてきた私の気持ちなどわかろうはずもありません」
  両眼から涙がほとばしった。弟の前となると、こうなる自分をどうすることもできないのが、田鶴の常であった。
  ぬかるむ視界の中にある宗根の顔は冷たかった。姉の激情を前に淡々と、
「姉上が時々亘理の私のもとへ来られ、二人で一緒に泣こうと誘われるたびに、私はどうやって姉上から逃げようかと、そしてどのように養家に言い訳しようかと、心の臓が凍り付く思いでございました」
「もう結構です」
「いいえ。苦しんできたのは私だ。まだ幼い、右も左もわからぬころ、なんの前触れもなく亘理に養子に出された。べつに亘理では養子が欲しかったわけはありません。欲しがられたんじゃない。茂庭家から追い出されたのだと教えつづけられる日々でした」
「それは……それこそ考えがすぎますよ、宗根どの。そなたはとても利発で、しかも愛嬌がおありだったので、ぜひ貰い受けたいと、茂庭の父上のもとに亘理どの自ら頼みにいらしたんです。その当時のことは、あなた、そりゃあ私のほうがよく知っています。なんといっても年が上ですからね」
「それはそなたの思いこみじゃ。考えすぎじゃ。そうそう何もかも不平に思っていては、成るものも成らぬのが当たりまえじゃ」
  声音をかえて宗根はそう言い、
「口癖でいらっしゃる。姉上。結局あなたはそういう人なのです。そうしたところ、実に母上に似ていらっしゃいます。ご自分の不幸で頭がいっぱいなのです。人がその被害を訴えようとすると『口だし無用』なのです。
  私は侍女のおまつに手をひかれ、茂庭の護っていた松山城の門をくぐり出たあの日のことを今でも覚えています。母上はうしろからついて来られ、このたびの一件にはそなたのくちばしを挟むのはあいならん。一切、口だし無用じゃ、としつこく繰り返されました。そんなお達しがなくとも、私には何を言う気もございませんのに。そう毛ほども」
「宗根どの」
  田鶴が言いかけるのを、宗根は、これだけは言わせてもらうというようにふりきってつづけた。
「私の記憶にある母上は、いつも茂庭の父上と政宗公との仲を悪しくさせようとばかりなさっておられた。つまり、主従を競わせてまで、おのが女ごとしての価値を高めたいお人でした。姉上。あなたもおなじことをなさっているのです」
「ちがいます」
「いいえ、ちがいませぬ。結局あなたというお方は、あの母上と同じです。同じような人種……つまりは、女だということです」
  田鶴はそう言い切った宗根の顔を、あらたな驚きをもって見詰めた。そして、これはまさしく、血を分けた弟だと思った。
  何よりも先に植え付けられる母親からの刻印が、女性嫌悪という点において、姉と弟は、誰よりも深く色濃く結ばれていた。


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