「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第二部〉14p

  政宗が香の前の意趣と言えば、それが、秀吉に対する個人的な恨みをさすことは暗黙の了解として成立した。実際には、大坂の陣終結から一年ちかい月日が経ってはいたものの、松山城は凱旋祝いの気分に酔った。戦後、政宗にとってこれが二度めの仙台帰国ではあったが、一度めはわずか五ヶ月の滞在のみで江戸へ京へと出向かねばならず、祝賀も簡易にすまされてきた。
  宴の席で、田鶴は政宗の前によばれ、縁組を申しわたされた。相手は原田左馬助宗資という。これも異例の好意であり、父も母もはいつくばって感謝しようとしたが、政宗はこのとき、不思議なことに夫婦の承諾の態を冷やかに見下ろし、即答には及ばぬといった。そして、
「めおとの縁は、簡単には運ばぬものだ」
  とさらに不思議な言葉をつけたした。
  片倉重綱のことを言われている。
  田鶴はそう直感した。片倉家との破談はあくまでも内々に片付けられていたが、その破談のうわさは相当にひろまってしまっただろうと推測はついていた。
  しかし政宗の耳に達しているとは思っていなかった。恥ずかしさと悔しさがいっきにふきだして、田鶴は顔もあげられなくなった。
  政宗は田鶴を元の座にもどらせると、おもむろに大坂夏の陣の話をはじめた。この日の宴の、これが中心になるべき話題であったから当然のなりゆきだったが、政宗は、延元が戦の話をするたびにその先をさまたげ、やにわに真田幸村の娘のことをもちだした。
  瑞巌寺でこれに会ったという。そして片倉重綱が、白石城につれ帰ったとつづける。さらに、
「小十郎めは得意満面であるわ」
「女を戦勝の分捕り品にいたすは田舎侍の流儀にて」
「小娘に臥龍梅をくれてやろうとするや、小十郎めがこのわしに睨みをきかそうとしおる」
  やや毒づいたあげく、白石城にいって重綱に追い返されたとしめくくった。
  顔面をやや蒼白にしながら延元がすすみ出て政宗の酌をつとめると、政宗は延元におのが杯をゆるし、逆に一献かたむけつつ、
「梅が欲しいとは、わからぬものでもない」
  と追加し、隠微に笑った。
  政宗はその後、茂庭夫妻の案内を得て、夕闇の松山城庭園をそぞろ歩いた。あいにく五月雨がぱらつきはじめ、庭の奥にたたずんでいる椎の樹下を休憩所とした。やや築山をなした上にあり、庭への見晴らしもきく。そこで政宗は、他にいくらも花が咲きそろっているのに、わざわざ季節はずれの萩の群れに目をとめ、そういえば、と声を発した。
「白石にも萩があったな」
「それは」
  延元がひざを折って、政宗を見上げ、
「我が家から株分けいたした萩にございましょう」
  重綱の父、片倉景綱が生存中に所望をもうしでたという。
  延元は政宗より十八歳年上で、二人のちょうど中間に景綱の年令がある。政宗はこの二人の家来に幼いころより守られて育った。政宗のほうでも、ときには延元を叔父のように頼り、景綱を兄のように慕ったという。それゆえに延元と景綱は、政宗をよくささえつつ、その裏で緊密な盟友の結束を生涯たもった。
  政宗はしばし庭の面を見遣り、ふと、後方にたたずんでいる田鶴を手招きしてそばへ侍らせると、
「そなた、白石の萩をとりもどす気はないか」
  とうとつに言った。その口元はやわらかく微笑しつつ、その目は粘りを帯びて輝いた。
  からだじゅうに何かが充満し、噴きこぼれそうになるのを田鶴は感じた。それが何だったのかわからない。長いあいだ眠らせつづけてきた自分の中の何かが、このときいっせいに奮起したのである。
  真田幸村の娘が、その名を阿梅と呼ばれていることを田鶴はすでに知っていた。

  部屋に閉じこもったまま夕暮れが近付いた。
  昼食は修行や農作業のあいまに僧侶たちが分担して用意をするが、旅人が宿泊する場合は、持ちよりの米を足し、僧たちにかわって煮炊きする。そうした決まりなのだと前もって説明を受けていたが、田鶴はとうとう果さなかった。米など持ってなかった。
  寺に備蓄してある食糧を分けてもらう習慣があるはずだとも思った。その昔は倉庫や炊事場を開放し、なかば宿泊場として一般市民に提供するのが寺の役割と聞いたこともある。
  しかし、どうもそういう時代ではなくなりつつあるようだった。一揆の草の根活動を助けるようなそうした施設が、徳川幕府のお膝下であるこの武蔵に許されているわけがない。
  それでも、戦乱をのがれて飛び散った農民や、行き場を失った縁切り女たちの吸収のために未だ寺は機能していた。
  田鶴の部屋のとなりには小さな納戸が設けてあり、藁犬、しゃぶり輪、あやし紐などが備えてある。これらは子連れで旅する女たちが置いていったものにちがいない。寺の裏手には山につづく道があり、山を越えれば甲斐に通じる。上杉氏や武田氏、北条氏などの盛衰のたびに、この山家にも似た寺を頼りに往来した人々の影がしのばれる。
  追っ手の気配におののきながら身を隠していたと思われるそうした人々と今の我身とは、大きな差はない。廊下で人が行き交い、声をかわしあい、やがて密談めいた空気が流れるたびに、人々が部屋におしいって自分を拉致し、寺の外に放りだすのではないか。あるいは無理やり駕籠にでも詰めこんで、江戸の仙台藩邸に連行しようと相談に及んでいるのではないか、と気をもんだ。
  昨夜のうちにふりつもった大雪は、みるみる痩せた。時おり屋根の型をはずれるや、凄まじくなだれ落ちて田鶴を驚かせた。
  殺される。
  なぜか、田鶴はそう思った。長い時間ともにあった静かな流れを自分は今、大きく踏抜きはじめていると感じた。
  片倉小十郎の白石城に赴き、預かりの身の真田家の息女を城内からつれだした一件はすぐに父、茂庭延元に知れた。延元は顔面を蒼白にふるわせながら言った。時をおかず醜聞は世間にひろまるだろう、しばらくどこかに身をかくしておけ、どこでもよい、いや、江戸がよい、江戸は遠い、仙台はならぬ。
  田鶴が、政宗公に一言ごあいさつしなければ国をはなれることはできない、と言いはると、延元は目をそむけた。その必要はない、政宗公からどんな沙汰があったというのだ、誰にそそのかされた、瀬上か石田か、公のこととは世間は思わぬ、わしも認めぬ、江戸に行って頭を冷せ、そなたは病なのだ、江戸で療養するのが一番よい。
  以来、延元は娘を預けたまま江戸の藩邸にも顔を出さない。
  もっとも表向きには国元で隠居していることになっているから、江戸へは兄の周防守良元がいた。こちらは何も事情を聞いていないようにふるまう。医者をよび、田鶴を診察させ、どこにも異常はないと聞かされては、おかしいですな、などと首をかしげて見せ、次々と替えの医者を江戸中から招く。
  病なのかもしれない。
  田鶴もそう思った。しかし、それならそれでよいとも思った。あるいはこのまま狂気を演じつづけて一生を終えるしかないのかもしれない。
  しかし殺されてはならない。
  父の推測どおり、田鶴は松山から白石城にむかう途中、仙台に立ちより、瀬上信康の武家屋敷をたずねた。瀬上はおっとりとした人柄の目立たぬ隠居の身だったが、政宗が最近なにかとこの老人を青葉城にまねき、話し相手をつとめさせると聞いたことがある。
  そそのかされはしなかった。むしろ、瀬上も延元とおなじことを言った。
  真田家の姫については、政宗から何度か相談はうけたが、主命をいただいたというわけではない。
  しかし瀬上は、こうした事には疎いと謙そんしたうえで、父延元とちがいこうも言った。
「かような事柄は、主君の命令によって成るものなのでしょうか。もしそうなら、すでに白石様(片倉重綱)がお命じをうけておわすでしょう。ご命令とあらば、白石様といえど逆らえるものではございませぬ。つまり政宗公は、お望みではあってもご命令を下すというところまでなさっておられないのではないでしょうか」
  それだけ聞けば充分だった。田鶴はうなずき、
「なれば、主命のあったとき、瀬上様はどうなさいます」
「むろん、身を賭して果しまする」
「身を賭してとおっしゃるのは、損な役回りでもひきうけるという意味と受けとってよろしいでしょうか」
「よろしゅうございます」
「後ろ盾をおねがいすることになるやもしれませぬ」
「政宗公のご命令とあらば」
「たった今、ご命令を下すような種類の事柄ではないと仰せになったではありませぬか」


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