「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第二部〉11p

  木枯らしにのるたびに霙になりかかった雨が肌を叩いた。
  方々から幾重にも薙ぎ倒される竹林の間道を延々とのぼるうちに、いつのまにか道をはずれて谷底に落ちてしまいそうだった。
「いやな空じゃ。雹でも降ってきそうな気配がする」
  前を行く小坊主が、はじめて甲高い声を発した。さっきから一度として田鶴をふりかえらず、両手を蓑の上から十字にあわせたまま黙々と先導をつとめてきた。
  揺れる竹笹の合間から、確かにどす黒い空をほのかな黄土色の雲がなびいている。
  ふと見上げると、大悲願寺の山門である。重たげに影を垂れ込める茅葺きの屋根を見たとたん、田鶴は荒い息をおさえるのも忘れて小坊主の袖を蓑ごととらえた。
「和尚様を呼んできて下さい。私がこれから入っていいかどうかお指図いただけるはずですからね」
  田鶴にそう言い付けられると、小坊主は、本日来客があるのを和尚はよく心得ている。迎える準備を整えて待っているはずだから取り次ぎなど通すのは無駄だと言い返したが、やがてしぶしぶと一人で門をくぐった。両脇に杉の威容を従えた長い石段を上っていく。
  急に雪の量が増した。遠のいていく小坊主をかすめふりそそいでくる大群に、田鶴は赤ぎれそうな鼻孔を押えた。
  なんと意地の悪い雪だろう。武蔵という地をその名を聞くたびに、もてなしを心得ぬ今日の空を思い出してやるのだ。出迎えがなければ、いつまでもここで待ちつづけてやる。凍えてたおれ、飢えて死んでやるのだ。
  雪はその粒ごとに震え、触れあえば薄氷で包んだように固くはじけあい、それでもいつしか、田鶴のまつ毛の上に行儀よく並びはじめた。

  住職の海誉は不在だった。江戸城に出向いており、帰りは夜更けか翌日になると、一方的に言われた。留守をあずかる回善という僧侶も、風邪を理由に顔をださない。
  黴臭い床だった。粗末な床敷の中でひざを抱えながら田鶴は寺に踏み入ってから見たここの何人かの僧を思い出した。
  到着するやただちにあてがわれた湯の椀といい、休む間もなく案内された炊事場といい、つくづく宿舎だと田鶴は思った。用件をもちだす間もなく様々な僧侶に導かれていき、結局、この修行僧たちと板戸ひとつでしきられた個室にとりのこされた。この部屋に通してくれた青年僧が、去りぎわに、
「ここまで来れば安心。ゆるりと休まれい」
  などといたわりの言葉をかけてくれた。年回りなどから、田鶴を縁切り目当ての駆け込み女と勘違いしたのだろう。
  胎児のように丸まって、田鶴は両手のひらをすねからかかとへ、やがて足の指にまであてがった。重い板戸のむこうでは先刻以来の雪が地上をおおいつくしていく様子が、乾いた大気を伝ってうかがえる。目には見えぬ一本の道筋を根気よくたどって、ようやくここまで来たのだ。たとえ握ってしまえば溶けてなくなる淡雪のような真実であったとしても、自分の方から辞するような愚かな真似だけはするまい。
  室内にふりつもる闇の一点を見据えながら、田鶴は、なかなかに眠りへの糸口をつかめずにいた。

  翌朝の冷えこみは、奥州の冬にもひけをとらなかった。
  大広間は朝の掃除も済んで、午前の陽が黒床を冷たく光らせている。修行僧たちが膳を持って行き来するたびに、その法衣からあらたな塵埃が宙におこっては舞いおりていく。
  昨日までの長旅の疲れが、今になって痛みや熱をともないながら田鶴の全身を襲いはじめている。すぐにも呻き声が口から洩れそうだった。
  皆が整列してすわりおのが膳を前に両手をあわせた時だった。田鶴は、彼らの唇が一勢にひらいて自分を呪詛しはじめたような錯覚にとらわれた。すべての声が背後にまわってからせめたててくるような、なんともいえぬ恐怖感が胸につきあげてきた。それは次第に広間の底を割るような大音響になっていき、ついにこらえきれず両耳をおおった。
  これから、おそらく毎朝がこうなのだと気付いて目をあけると、入ってきたのは、まばらに注がれる非難の視線だった。どの口も蛙のように表情なく開かれているのに、その上にのっている様々の形の目は、どれも生臭いほどにくるくると泳いで田鶴をうかがった。
  食前の読経の場に、耳をふさいでのぞんでしまったと思うと、ついにどの僧侶にも正面きって視線をあわせられなくなった。
  粥だけの朝食だった。
  田鶴が与えられた椀に手を出さぬのを見て、
「遠慮することはない。食事をしなさい」
  と、声をかけてくれる僧がいた。まわりで粥をすすっていた数人の僧たちが戸惑う表情で互いに顔をあわせている。
「今朝はことのほか冷える。食欲がなくても、腹にものが入っているのと入っていないのでは体の保ちかたが違う」
  つづけてその僧侶は言った。昨夜、部屋に案内してくれた、あの青年僧だった。
  田鶴は声をかけてくれた僧にむかって軽く頭をさげたが、彼はちょうど食事を終え、膳を持ってさっさと広間を出ていった。
  わずかばかりの親切をこぼしてくれた彼の背を、目で追い掛けずにはいられぬ自分がみじめに思えた。

  庭はなんら手が施されていない。
  朝日のようやくさしこんできた縁側と、横にだだっ広いだけの空き地。雪の下は、おそらくそうとうに荒れた畑か、刈らずに放置しているうちに波をうって枯れたおれた夏草の群れだろう。上から毛皮かなにかでおおい、体裁を取り繕ったような雪景色である。
  ふと、庭の片隅に顔をむけると、高く積まれた材木の影からこちらをうかがっている僧侶の目とぶつかった。この庭の中で唯一ととのった態をなしているものは、皮肉にもこの材木だけであった。
「秀雄様でいらっしゃいますね」
  声だけが届いたようだった。相手は軽く会釈するとおもむろにきびすを返して、材木の裏に姿を隠してしまった。その動きは異常に速い。
  履物をあたりにさがしたが、部屋のいずこにもわらじ一揃え吊されてはいない。とっさに裸足のまま雪の上に降りて、隠れた僧のあとを追った。
  材木に近付くほどに、その裏は細い路地になっているように見えた。その路地から相手に逃げられる気がして、田鶴は歩を速めた。
  そして材木をすぎるや、あっと息をのんだ。
  目指す獲物は目を見張り息をのんで立ちつくしている。発見されてるや両手のひらをむけ、首もそむけて露骨に牽制した。
「私は秀雄様ではございません。私は秀雄様ではございません」
  と、経でも唱えるようにくりかえした。
  荒行でもするのか、僧の皮膚は陽に焦がしたように黒く、骨格も逞しい。そのくせ兎のように落ち着きがない。
  田鶴は彼の袖をわしづかみにひっぱって庭の中央にいざなった。僧侶は何も言わず、陽のあたる白原に立って叱られるのを待った。真綿にのる乾ききった枯葉の印象がある。
  田鶴が詰め寄るぶん相手は後ろに下がり、そのついでに田鶴の足元に目をやって息をのんだ。
「そうですよ。このとおり私は裸足です。当たらず触らずを決め込まれて、草履ひとつたのむことさえ出来やしない。このまま放っておけば、おとなしく諦めてやがて仙台へ帰るだろうなどという了見なら、今すぐに改めてもらいますから」
  語尾をのみこんだまま、田鶴はウッと顔じゅうを強くしかめて片足をうしろに蹴上げた。
「海誉様か回善様にでもそう伝えておいで」
  相手の答えも待たず、おもむろに我が背を振り返って足の指先を手のひらでくるんだ。
  鈍い反応ながらも僧侶はあわてておのが草履をぬぎ、田鶴にさしだした。

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