「嵐待つ」
作/こたつむり



〈第一部〉8p

  阿梅は強く馬腹を蹴り、思いきってたつ女の馬の前方に駆け抜けた。狭い道を追いぬくと馬首をめぐらしてたつ女の追い付くのを待ち、
「このあたりに寺があると聞いてます。小さいけれど人が……お坊様がいつもいらっしゃるそうです。突然のことなので私も困ります。ひとまずそこに行ってください。おねがいです」
  嘆願した。たつ女は、
「真田の姫君としたことが、お気の弱いことです。べつにこのまま仙台のお城に行こうというのではありません。途中、休む処は考えてありますから、余計な寄り道などなさらぬことです」
  冷たい調子で言い放ち、阿梅を威圧するようにさらに闊歩してきた。阿梅は仕方なく沿道を脇へそれ、たつ女の馬を優先させてやった。
「おなかが痛いんです。本当です。すぐに休みたいのです」
  阿梅がなおも頼むと、たつ女は馬首をめぐらしてから止めて降りた。そして阿梅の馬に近付いてくると、下から覗きあげてニッと笑い、
「今度は仮病?」
  と図星をついてきた。阿梅はあわてて、
「ちがいます」
  強情に嘘をつき通した。
「さきほどはお丈夫そうでしたけど」
「とつぜん痛くなったんです」
  すると田鶴は手をのばして阿梅の握る手綱を奪い、自分の馬と阿梅の馬の間に入った。巧みに二馬を誘導しながら大きな松の木陰をめざした。
「ここで休まれてはいかが?」
「こんなところで……」
  ただの雨降りではない。むしろ、枝が突風にあおられて含んだ大水を滝のように落下させる。
「なぜ、そんな意地悪をなさるんですか。何か私に恨みでもあるのでしょうか」
「恨みと申せば過ぎましょうが、私とあなた様には若干の因縁がございましょう?」
  たつ女は顔を近寄せ、まともに阿梅の目を見てそう言った。
「聞かせてください。どんなことです? こんなことをなさるのもそのせいなのですね」
「ちがいますよ」
「いいえ、きっとそうだわ。陸奥守様(政宗)のご意志なんて嘘。なぜかは知らないけど、あなたの、あなた様個人の勝手な思い付きでこんなひどい仕打ちをなさるんでしょう?」
  たつ女は二頭の馬の手綱を、もう松の枝にくくりつけてしまっている。それでも阿梅は、頑固に馬から降りなかった。てこでもこんな雨ざらしの木陰になど休むものかと意地になった。しかし馬は首を固定されて苦しがり、早く降りてくれとでもいうように太い首や尻を右に左にと揺すった。
  やむなく降りかけた時だった。たつ女はすばやく手綱を外し、いきなり阿梅の馬の腹に一撃をくらわした。
「あっ」
  阿梅はあられもない恰好で馬にしがみついた。降りかけていたので尻が座りきらぬまま馬は奔走をはじめている。
  落ちる!
  と思いきや、阿梅の体は前倒しになり、背中から重しのようなもので馬の首に押し付けられていた。頭はずり落ちてゆき、馬の脇腹のドカドカ鳴る鼓動が耳に、顔には地上がつぎつぎと展開してせまってくる。撥ねた泥水が目や鼻に入ってしまい、手を這わせて手綱を探すと、それはすでに二本の細うでに奪われていた。
「た……田鶴どの!」
「頭を上げないで!」
  後ろがたつ女だとはわかったが、後ろから押し付けられて危うく乗っているのであって、それでもなお尻の位置が不安定で、落馬しそうに感じた。おそろしく窮屈で、徐々に息苦しくなり、たつ女の脇の下から乱暴に首をつき出すと、
「阿梅様! 阿梅様!」
  どこから聞こえてくるのか、男の声がした。
「だ……誰か、助けて」
  阿梅は死物狂いで叫ぼうとしたが、たつ女に胸も腹もつぶされて全く声にならない。たつ女の身体はおそろしく重く厚く、餅のように鼻に口にへばりついて阿梅を離さなかった。
「阿梅様! 今、参ります。ご無事ですか」
  その声の主は、やがて二人の女をのせて走る馬の横においついてきた。
「母上!」
  阿梅はたつ女の腕に噛みついた。
「母上! 父上!」
  手のひらいっぱいに馬の毛をつかみ、阿梅は背の死神をふり払おうと両足をうしろに蹴りあげた。
  もう落ちてもかまわぬ。首の根がへし折れようと、これ以上自由を奪われたら息の根のほうが止まってしまう。
  きゃっという悲鳴がはじめてたつ女から聞こえた。
  助かる!
  そう思った時だった。鉛のような異物が、ムズと阿梅の背にくいこんだ。すぐに人間の指であると判った。それはすぐに阿梅の背から着物を掴んでひきよせ、肩に手が届くとそれを掴み、肩に流れる黒髪ごと阿梅を強烈な力でつまみあげた。
  阿梅の体は、その指の主とたつ女の双方からひきあう恰好で一瞬を宙に浮いた。たつ女は阿梅の足を掴んでいた。指の主は肩を掴んだままだった。やがて阿梅は、両者の腕の間をあおむけに横たわりながら、徐々に両側から見放されかけ、このまま地面に突き落とされそうに感じた。阿梅は鋭い悲鳴をあげた。
  口の中に雨が入ってきた。息もつかせぬ雨の乱打が顔についた砂利を洗いおえたころ、肩を引いていた側がもう一本の太い腕をもって、かっさらうように阿梅の身柄を勝ち取った。
  足に激痛が走った。しかし五臓の引き裂かれる心配がなくなったと知るや、阿梅は無我夢中で男の体にしがみついていった。あとはどうしようもなく意識がうすれ、混濁した渦に全身がすいこまれて溶けた。吠えかかる風の声すら闇の彼方に遠のき、やがて消えた。

  いくつも夢を見たが、虚ろながら目をさますたびに、いつもその内容を忘れた。
「原田です。よろしゅうございますか」
  中途半端にしめられた板戸の影から男の声が聞こえたその時、阿梅の意識ははっきり覚醒した。
「はい」
  答えると不思議に体がおきあがり、そのまま床の上に正座できた。
  原田と名乗られても阿梅には誰だか見当もつかない。思い出せるのは、伊達政宗にくれてやると言われたあの臥竜梅である。確かこれを朝鮮から持ち帰った武将が原田(宗時)で、しかし、すでにこの世に亡い人であると聞いた覚えがあるのみである。
  ところで目の前の「原田」だが、なぜか、獣の皮を無造作に背におっていてむさ苦しい。油っぽい毛の筋から、雨だろうか、水滴が浮き上がってはこぼれた。夢の中にまで聞こえてきた屋根や地を揺する雨風の音で、まだ嵐が去っておらず、どこかの小屋に避難しているのだとだけ推測がついた。
  原田は遠慮もなく阿梅の床をまたいで、その奥の窓を押し開いた。立ち上がって顔ひとつ出せる程度の大きさである。いろりに肉でもくべる時に、充満する煙りを逃すものだろう。
「いかがです。もうずいぶんと良くなられましたか? どこか痛むところはありませんか」
  その言い方には、すでに言葉をかわしたようなところがあると思って、
「あなたはどなたです?」
  あらためて問うと、原田はあっけにとられたように阿梅の顔を見守り、
「これは、ご無礼をいたしました。私は船岡領の者にて原田左馬助宗資と申します……が」
  と、首をかしげて、
「なにも覚えていらっしゃらないのですか」
  その明け透けな不思議がりように阿梅は若干はにかんだ。
「夢を見ていたんです」
  どうも阿梅の癖のようだった。夢うつつのまま、まなこを開き何事かはっきりと口走るという。よく家族にも呆れられていた。きっと原田はとうに名乗ったのだろう。そして阿梅もそれを聞いたようにふるまった。しかし記憶にない。
「寒がっておいででした」
「ええ、寒かったのです」
「お城に帰りましょうと申し上げたら、帰りたくないと仰せでした」
「え」
  飛び上がってしまいそうだった。赤面しているのが自分でもわかる。
「お……覚えてません。本当です。何かご苦労をおかけしましたか」
「いえ」
  原田は視線をそらして、手近にあるかわらけをごそごそと取り出した。
「それほどでも」
  相当にてこずった様子が、その横顔からうかがえた。なにを言ったのか残らず知りたかったが、聞かぬほうが安全かもしれないと思い直して黙っていることにした。
  ただ一つだけ、気になって仕方がないのは、
「私、どなたかの悪口を言いましたか」
「いいえ」
  即答だった。阿梅は怪しいと思った。

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