「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第一部〉5p

  ところが、重綱はあきれたように首をふり、
「なぜ私がこの人をこの城に移したか、母上、あなた様はまるでおわかりではない」
  と言ってから溜息をもらした。そして、
「父上はご存命のころ、この姫の処置は慎重にしなくてはならないとあれほど申されていたではありませぬか。死の間際まで気にかけておられた。真田は武門の誉れよ。日本一のつわものよ。その末裔の行く末は、全国の者が目を皿のようにして見守っていようぞ。そう仰せになったのは誰あろう亡き大御所様(徳川家康)ではございませぬか。
  つまりは幕府に、徳川家に見られているのです。とうに嗅ぎつかれているのです。それでいて何も詮索せず、敵方の、豊臣がたの、真田家の末裔を伊達家がどう対処するのか。まさかに伊達家から、よも敵の血筋が芽生えることなどあろうか、なかろうかと。奥州六十万石の出方を獲物を狙う鷹のように執念深く窺っているのです」
  そこまで言って、重綱は黙った。
  しかし、もはや手遅れだった。望春院は激しく胸をつかれて、何も言葉が出ない様子だった。昨日の迂闊なふるまいよりも、阿梅の前で言わせたことを後悔しているようだった。赤く潤んだ目で重綱ばかりを見詰め、阿梅と目を合わせるのを頑固に避けた。
  仕方なく話し出したのは重綱の方だった。やつれたように声音を低め肩を落として、阿梅の手をようやく放した。
「父上が亡くなり、大御所様が亡くなられて、政宗公は面変わりなされた。おつむりの上の重しが取れたように晴れ晴れとなさっておられる。お目も生き生きと輝いておられる。何かをなさろうと毎日を画策される。江戸での催し物にも突飛にお出になられたり、いきなり辞退なさったり。それがしがごとく若輩者には、その御心が何にむいておられるのか図りかねて辛うございます。わからずに空回りもいたしまする。無駄骨も折りまする。しかし、父上亡き後の伊達家を、なんとか安泰ならしめねばならぬ。念には念を入れてかからねばならない時なのでございます」
  立ち上がり、部屋を出ていこうとする重綱に、望春院は、
「なれば、この姫の処置は」
  あいかわらず阿梅とは目をあわせずに、ようやく声をしぼりだした。
「母上が仰せのごとく、それがしの妻にでもいたすしかありますまい」
  重綱はそう答え、すっかり顔を上げられずにいる阿梅の頭上から、
「言いにくいことを言った。聞かせたくないことをずいぶんと聞かせてしまった。本当はもっと困らせずにすむやり方があったはずなのだが、こうやってしまった以上取り返しもつかない。遅かれ早かれ、お耳に入ることだったのだ。どうか料簡してもらいたい」
  声をふらせた。阿梅は、
「私もいろいろと気をつけますので」
  口ごもりがちに言い、自分こそ捨て場の定まらぬ首であったかと思った。

  敵中にわが子を送りこむ、という発想は真田幸村ならではと片倉家では解釈されているようだが、阿梅には必ずしもそうとは思えなかった。伊達と真田の敵味方を越えた友情、という筋書にもどこかついていけない。死を前にした父が、そうした安っぽい感傷をもったとは阿梅にはとうてい信じられない。
「伊達様だからというより、おそらくは片倉様だからと……。父は片倉家をこそ見込んだのだと思うのですが」
  重綱の給仕をしてやりながら、阿梅は日ごろの推理を口にしてみた。むろん、若干のお追従も入っている。
「はて……」
  どんぶりを手にしたまま重綱は、後方で味噌を湯に溶いている阿梅をふりかえり、
「真田どのには、この片倉を、それほどにご存じでござったか」
「それはもう」
  幸村が少年のころには、秀吉の大坂城に出仕していたから、全国から出入りの大名小名、その家来や家族にいたるまでをよく見知っていた。中でも伊達家の片倉小十郎はひときわ有名な存在で、秀吉がその知謀の才を高く買い、豊臣直参の家来に欲しがったと阿梅は聞いている。
「ほお」
  阿梅のさしだした味噌とき汁の椀をのぞきこみながら、重綱はめずらしく阿梅のいうことに感心した。
「他にも、伊達の御家中のお話しをずいぶんと父から」
「左衛門佐どのには、女ごのそなたにまでそうした話をなさるのか」
  なぜ、女だとそういう話を聞けないのかと、阿梅にはさっそくわからない。高野山の一隅で、狭いながらも気心の知れた家族だった。男の子も女の子も家族はみな、秀吉の側近くつかえていた父に、諸国の大名の誰がどんなことを言ったとか、どんな土産をもってきたなどという話を、時にはせがんで聞いた。
  阿梅がふざけて幸村の背中によじのぼると、幸村は、
「秀頼様も同じようになさった」
  などと、ごく自然に大坂の話をしてくれた。
  ところが、真田家でのそういう日常を話すたびに、重綱を落胆させるような、父や兄の格を落としてしまうような気がしてくることが多い。
  重綱が子供とすごすところを阿梅は見たことがない。彼の長子は幼いながらも江戸屋敷に住まわされているし、長女のほうは重綱の亡くなった妻の実家にひきとられている。それが武家として当然の暮らしなのだと重綱には言われる。
  武家とはこういうもの。
  片倉家で仕込まれる不可思議な常識の数々を、阿梅はいちいち怒られながら学ばねばならなかった。しかもそのどれもが実家とは流儀がちがう。ちがうのに、真田家も当然おなじであったかのように塗りかえられる。理由は、真田幸村が偉い人物であったから、ということになる。
  偉い家同士はおなじ常識をもっているはず。どうやら重綱は、そう思っているようだ。真田幸村が、手塩にかけて育てた娘の命を漢と見込んで託すという、いかにも伊達家だけを一方的に偉く見せるための逸話の中にはまってやりつつ、阿梅は、父が真に意図した今となっては解らないところをどうにかして知りたかった。
「太閤殿下は、こちらの先代様(小十郎景綱)に直轄のご領をお分けになったとまで伺っております」
  受けの良かった話のつづきから試みる。
「いかさま」
  重綱も満足そうにつづきを促した。
「太閤殿下も老獪な策を弄されたものよと、父はそう申しておりました」
「策?」
「はい。伊達様のご家中に嵐を起こそうという策です」
「嵐?」
  重綱は、ふんと鼻を鳴らした。
  こういう反応をうけとるたびに、阿梅は頭をいそがしく働かせなくてはならなくなる。
  そんな策で団結の乱れるような伊達家主従ではない。
  そういう意思表示であったにせよ、真田幸村の言うことはよくて、豊臣秀吉は、ふん、になる。これは阿梅には理解に苦しい。
  阿梅には、豊臣家がこのまま歴史の舞台から消えていくという実感がいまだに沸かない。豊臣秀頼といえば、生まれてからの長い歳月を、遠い存在ながらも太陽の次に確かなものと思ってきた。父がそれを、寝返ると決めたわけでもないのに、娘の自分を片倉家におくりこむのは奇妙だと思えた。戦う前から負けを認めるような行為を、自分の父がしたとは今でも信じがたい。
  阿梅のいそがしい胸の内をよそに、重綱はズズッと大きな音をたてて味噌汁を飲んだ。山芋がすりおろしてあるので吸わないと口に入らない。あわてて阿梅が箸を取ってやろうとすると、重綱は手を挙げていらないと表示し、しばらく口に含んでから飲みこんだ。
「わしも奥州者じゃて、椀の汁ものなどみなこうじゃ」
「横着なのでしょう」
「そうではない」
  いつものように重綱は眉をしかめ、
「女ごでもあるまいし、箸でこそこそと入れるような小口では大物になれんと周りにけなされるのよ。この白石でもな、父上が雑兵のために考案なさった兵糧があってな。そのうちそなたにも食させようが、小麦などをひいた粉で、湯に溶かすととろみが出る。冬には暖かく腹もちもよい(元禄以降、白石特産物『うーめん』に発展)。入れ立ては熱いから一気に口には入れがたい。そういうものでもないと奥州者はなんでもかんでも大口に入れて食すから消化が悪い。消化の悪い者は早死にする」
「まあ」
  とあきれてから阿梅は、
「私の父も母も、なんでもよく噛んで食せと申しました。どこでもそう言うものだと思いましたが」
「わが父上は、よく噛めとは言われなかった。言っても聞く連中でない。噛まずにすむ食べ物を作ったほうがいい」
「でも、あなたさまはよく、噛まれますこと」
「うむ。これはな」
  言われてなお強調するように、重綱はあらためて口中のものを機嫌よく噛んだ。


4p

戻る

6p

進む