「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第一部〉2p

  大坂の陣中は、常ならぬ篝火のためにいっそう夜更けが色濃く、阿梅が仮床のうえで眠れずにいると、屏風の外から重綱に声をかけられた。宿舎を定めた近くの寺に引き上げることになったという。
  幕を出ると、足軽も家来衆も、駆り出された村の者には女や子供まで入り混じり、荷駄を押し坂道をおりていくのが一列に見えた。ずいぶんとあたりは暗く、どれも危険な作業に思えたが、戦が決着した以上そのまま夜をむかえるわけにはいかないのだろう。万が一にも、城や大将を失った敵の残党が、放火などの狂態に転ずるのをおそれたのかもしれない。
  阿梅は重綱に手をひかれ丘をのぼった。時おり重綱は怒ったように、
「さあ。お父上のぶんまで気合を入れなさい」
  などと励ましてくる。どうして父のぶんまで自分ががんばらなくてはならないのか、敵の武将にそんなことを言われるのかよくわからなかった。
  突然、闇が裂かれ、浮かび上がった二つの篝火の中央を連れていかされると、炎のむこうにまた二つの火がある。その間を、数人の鎧武者の背に覆われるように隠れて座っていたのが伊達政宗だった。重綱に、
「軍容の沙汰を決めているのだ。つまり軍議だ」
  と耳打ちされてどこに通されたのかをはじめて知り、阿梅は膝をつこうとした。それを突き飛ばすような勢いで使い番の侍が入ってくるのが落ち着かず、挨拶にならぬまま時は過ぎた。
  戦場からの引き上げにてこずっているようだった。全国から集まった多くの部隊が辺り一帯にひしめいていると、徐々に知れた。
  阿梅の視界を遮っている三人の男たちと声をかわしながら、時おり覗かせる政宗の顔には、あきらかに異なる二つの表情が交互にうかんだ。勝利ゆえの上機嫌と、焦りといらだちからくる気難しさ。話題はもっぱら、徳川家康陣営への参上に絞られてゆく。
  感情の豊かさがそこにはあった。大御所(家康)に会うのに、他の大名に遅れをとりたくない、という負けん気な言葉が、遠慮なくその口をついて出た。あとはおまえたちにまかせる。もう俺には行かせろ、という性急な物言いをした直後に、あれはやったか、これには気をつけろ、などと神経質な注文や小言をつけ加え家来どもを翻弄していた。
  ついに立ち上がって、大股で阿梅や重綱をとおりすぎる。
  政宗と面し、阿梅たちには背をむけていた家来の一人が、ふりかえってから二人の存在に気付き、政宗を呼びとめた。政宗はちらと二人を見てすぐに、いい、とうるさそうに手をふり、飛び立つように出て行ってしまった。
  あれが父と同じ年令の、しかも大名なのだとあらためて阿梅は驚いた。殺しあいの直後に、宴会か祭りにでも行くような弾んだ調子がある。
「困ったな」
  重綱は一言だけそう言ったが、すぐさま政宗の家来たちに取り巻かれて指図をはじめた。重綱がすすんでそうするのではなく、政宗に残された者たちが替わりの指示を重綱にせまるのである。阿梅はだんだんと重綱から遠のかされ、ふたたび闇の外にぽつねんと置かれた。夜露にすっかり身体をおかされたころ、重綱が陣馬織になにか包んで篝火のちかくに立っているのが見えた。近寄って聞くと、首だと言う。
「どなたのものでございましょう」
「わからぬから、こうして持っておるのだ」
  と、重綱の態度はさきほどとは豹変する。
「わからぬなどということが……」
「そういう事もある。打ち取った者が絶命したと聞いた。調べてわからぬままなら捨てるしかあるまい」
  自分にとっては菩提をとむらう可能性のあるものが、ここではごみになる可能性がある。阿梅にもそれは納得できたが、捨て場の定まらぬごみを家来にまかせず持って歩く性癖には奇異なものを感じないではいられなかった。

  戦後は京の伊達屋敷に仮住いしたが、すぐに、その周辺の寺々を移動する日々がおとずれた。阿梅の世話をするために片倉家から遣わされる者たちも、その都度入れ換えられた。
  大坂の陣が終結し、生き残った敵の兵やその遺族をみだりに匿ってはならないという法令でも出されたのだろう。阿梅の耳にそうと告げる者はいなかったが、関ヶ原の合戦以来、敗将の家柄にそだった阿梅にはそうした事情は聞かずと知れていた。幸村の妻である母にも、別れたきり会うことはかなわなかった。本来、阿梅にとって保護者であるべき幸村の兄、真田伊豆守信之ですら阿梅に会いにくることはなかった。
  この、阿梅にとって叔父にあたる人物は、関ヶ原合戦のおりに祖父の昌幸にそむいて徳川陣営にのこった。そのために、もともと真田の領地である信州上田をいまもってなんとか維持できているほどだ。真田とはなんの縁もない伊達家の一家臣たる片倉家が、大坂がたの遺族をかくまう難しさは女の阿梅にも察してあまりある。
  ついに仙台に移される日が来たと、重綱から書状が来たのは去年の九月だった。しかし、それはすぐに取り消された。重綱の父、小十郎景綱が死去したのだ。阿梅は洛外の寺に軟禁されたまま今年の正月をむかえ、やっと春に海路を江戸にのぼった。
  海を見るのははじめてだった。畿内から江戸へ、何日も海面を舟にゆられたり陸路を駕籠にせかされながら、遠くに近くにいくたびか見たが決して好きにはなれなかった。舟底を揺する波も白いあぶくも、阿梅に不安と恐怖ばかりを印象づけてきた。香りがまた好きになれない。なにか不潔でみだらで、潮風に吹かれるたびに身体が汚れていくように思えた。
  波音も耳ざわりで、舟を下り、波音のとどろきわたる宿に泊まったおり、明けがたに船酔いした夢を見てしまい、やはり二度と聞きたくないと思った。
  江戸に到着すると、今度は徳川家康の死を知らされた。喪に服してなければにぎやかであったろう江戸の市中を見ることなく、武蔵の山深い里にある伊達家ゆかりの寺に、またもや移された。
  この寺での滞在は長くはなかったが阿梅にとってはもっとも居心地がよく、このままここで髪を下ろして父や兄の菩提をとむらいながら余生をすごしたい、などと思ったものである。しかし阿梅がうたかたの夢に酔っているあいだに、世間では真田幸村の武勇伝が一人歩きしはじめたようだ。伊達政宗から直筆で、
「仙台の地へ参られたし」
  という、ものものしい書状を受けとったとき阿梅は、死を覚悟する勘違いをおのれに強いるほど、流行遅れになっていた。
  ようやく仙台に来たのがこの五月。阿梅は、まず仙台青葉城の城下にある武家屋敷に住まいした。
  二度めに政宗に会ったのは、仙台港を見下ろす高台であった。伊達家の親族や重臣しか入れないと言われている寺の軒で、阿梅はまず重綱に再会した。ともに茶を喫しながら初夏の風にそよがれ、はじめて好ましく海を眺めおろしていると、政宗はいつのまにか背後に座して、ふりむいた阿梅を仰天させたのである。
  政宗にじかに問われ、しどろもどろの返事をしているあいだに、阿梅の預かりさきは白石城と決められた。理由を、
「片倉家にお預けが、幸村公のご遺志により」
  と聞かされたとき阿梅は、ずいぶん偉い人の娘になったと驚いた。

  白石城にきた阿梅の日々は安定し、しかし退屈を増した。話す相手といえば望春院とその待女たち、庭師や下働きの下男下女ぐらいである。出入りの商人はおろか、仏事や説教におとずれる僧侶とすら顔を会わせることはなかった。
  真田幸村の娘を預かっているというだけで、片倉重綱の白石城にわざわざ用を作ってたずねてくる者が多いと聞く。そのたびに望春院は、身内の恥とばかりに阿梅を人目につかぬ適所へといざなうのである。
  しかし、それが世間を知らずに育った阿梅には、かえって気が楽でもあった。やがて来客の気配を察するや、阿梅のほうから好んで逃げかくれするようになり、望春院とは呼吸があってきた。目配せひとつで、隠す隠れるの態勢がととのい、年の離れた二人の女のあいだには、ときおり共犯じみた微笑がうまれることもあった。

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