「嵐待つ」
作/こたつむり


〈第一部〉1p

  これが本当に真田幸村の娘なのか。
  片倉景綱未亡人、望春院はあからさまにそんな目付きで阿梅を見た。
  今までも、多かれ少なかれ同様の目にさらされてはきた。ここに来るまで自分につきそってきた片倉家の者たちからである。しかしこれからの長い日々を、仰いで生きねばならぬ相手からこのような視線をあびるとなると、阿梅もさすがに肩身がせまかった。
  元和二年の六月、まだ梅雨入りせぬ空に鮮やかな紅雲が流れるころ。預けどころとして定められた片倉家の白石城門を、阿梅ははじめてくぐった。
  片倉家は仙台藩伊達氏の家老職家である。十七代、伊達政宗のもっとも信任あつかった小十郎景綱を去年にうしなったばかりの、喪の最中にある。おなじく縁者を多く亡くした阿梅にとって、哀しみを重んじる沈んだ静けさが心になじまないでもない。
  ところが望春院は、未亡人らしからぬ怒声を放ち、
「さあさあ、そんなものをいつまでご覧になるつもりです」
  城内に迎え入れたばかりの阿梅をせかしてくる。
  こういうところが良くないのか。我ながらそう思いつつ、阿梅の目は吊された鳥かごで長々と止まっていた。通された廊下の端にあったそれの中には、驚くほどの極彩色に塗りたくられた生き物が、すくすくと息をして収まっていたからだ。それは田舎暮らしの長かった阿梅にとって、見るはおろか、想像したこともない派手な代物であった。
「それは大御所さまよりの下されものですよ」
  せっつきながらも望春院は教えてくれた。誇らしげである。
  大御所というのは徳川家康のことである、とわかっていながら阿梅はことさらに誉めなかった。今、あずけられている片倉家は伊達家の家来であり、伊達家は徳川家の臣下であるが、徳川家康は阿梅にとって実父、真田幸村のかたきに相違ない。ところが望春院は、
「舶来品です」
  と追加し、亡くなった夫、片倉景綱が家康からじかに頂戴したのだと自慢してのけた。
  景綱の跡を継いだ長子重綱は、今年三十歳になるそうである。
  この城には居ない。替わって留守をあずかる重綱の母、望春院は次々と、
「父君の御首級をご覧になっておられぬそうですね」
「それでは、戦の様子をご存じないというのは本当のことなのですか」
「真田家のご家来がたにも、会われなかったのですか」
「秀頼どのや淀の方といった方々にも、お会いになったためしはないということですか」
「大坂城にいらっしゃったというのも、それでは嘘なのですね」
  調査を開始した。非難の調子がある。
  頷いてばかりいた阿梅も、さすがに最後の問い掛けには呆れ、
「私がついたのではありません。誰かのついた嘘でしょうけれども」
  と口ごたえをして、言葉づかいをたしなめられた。
  ついで望春院は、重綱に対する呼びかたも聞き咎め、
「まあ、伊豆守がご自分からそう呼ぶようにおっしゃったというなら、仕方ありません。伊豆守にとって、あなたは本当に娘くらいにお見えでしょうし、あなたにとっても『おじさま』くらいにお歳が離れて見えるでしょうから」
  譲歩する態をつくろいつつ嫌な顔をした。
「伊豆守様とお呼びすれば、よろしいでしょうか」
  あらためて阿梅は聞いた。およそ武士への呼び名は、官位名をあてるのが無難であると父に教えられている。
「それでは、あまりによそよそしい」
  望春院は目を丸くして咳ばらいし、
「それでは、あなたが知っておられることをお聞きいたしましょう」
  難しいものだと阿梅は思った。また、これから先、そうしたことも学んでいかねばならぬと思うとますます気が重い。
  望春院は気をとりなおしたように渋面を解いてくれたが、つづけて降らせる質問には阿梅の覚えていないことばかりが多い。望春院はすぐに頷いた。結論づけるように、外出をひかえてほしい、と阿梅に注文して根比べを打ち止めにした。
  そのまま広間で茶をいただくと、案内されてずいぶんと奥へ通された。白石城は思ったより敷地がひろく、一度説明をうけただけでは、どこになにがあるのか覚えきれなかった。
  一番奥の間に、先代、小十郎景綱の位牌が安置され、まだ真新しい仏壇と仏具の前にすわらされて阿梅は位牌をあおいだ。死後一年がすぎてもなお、実の肉親の位牌すらまだ拝んでいない阿梅が、見たこともない先代の霊前に手をあわせるのである。
  型どおりの所作のあと立ち上がると、望春院はようやくほほえみ、
「お背がたかいこと」
  阿梅はちょっと口をすぼめたが、誘われて望春院と背くらべてみた。
「おいくつになられたんでしたか」
「十六です」
「おや、お年と背丈のわりには、ずいぶんと幼そうでいらっしゃる」
  やさしく阿梅の肩をたたきながらも、望春院はそう言い切った。
  季節はずれ時刻はずれのほととぎすの声が空高くのぼり、望春院の肩ごしにふと見る奥州、白石の空は、阿梅が長い間おもい描いてきた北國の峻厳さはかけらもない。のどかで、どこか退屈そうに雲を浮かべて阿梅を見下ろしている。

  父、真田幸村と兄の大助が大坂城に馳せ参じた直後、阿梅は突如として長年住まいした高野山を母や妹たちとともに追われた。大坂や堺、京などの町中や寺につぎつぎと転居を強いられながらも、ある時は身を潜ませるように言われ、ある時は護送の兵がつけられた。そのうちの誰が敵で誰が味方なのか。阿梅はこういうことをまるで把握していない。
  高野山は、父幸村と祖父昌幸の流刑地であったが、阿梅にとっては故郷にちがいなかった。生まれてから、一度も高野山を下りたことがない。
  父や兄が大坂城にいるとは知っていた。しかし阿梅たち女には入城は許されず、ようやくおちついたさる商家から、大坂城天守の高い頂きを確認するだけの日々がつづいた。もうここまで来れば大丈夫だと母に言われたが、なにが大丈夫なのかはわからなかった。
  入城はゆるされなかったが、護衛と称する兵たちが始終、阿梅たちの住居の周囲を見張っていた。大坂城からきた者たちであった。
  彼らは話しかけてもろくに口をきかず、差し入れた食料などにも手をつけないが、阿梅たちが外出するとなると必ずあとをつけてきた。
  そうした大坂方の真田家へのあからさまな態度から、城内における幸村の苦衷がしのばれる。母はよくそういって夫を案じた。
  父に会うことはできなかったが手紙のやりとりは許された。もっとも、大坂がたの使者を介するより、父から直接つかわされる真田家の忍びの者によるほうが多かった。
  最後の手紙がとどいたのは決戦前夜であった。一通は母に、一通は阿梅に宛られてあり、阿梅にはただ一言、使いの者とともに、伊達家中、片倉陣屋をたよれ、とある。言われたとおりに使者の背に負われ、山の暗闇を抜けるうちに松明を円状にふりかざす一行に出会った。その連中に手早く輿に詰めこまれ、阿梅は徳川方の陣内へ運びいれられたのである。
  戦塵ふきすさぶ大坂、道明口の陣。伊達家中でも特別に片倉重綱に配された陣幕で、阿梅は父、幸村の死を知った。真田左衛門佐討ち死にとか、首級を確認されたなどという叫び声が陣幕の外から入ってきた瞬間、
「片倉様を、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」
  阿梅は、目の前の敵将にそう問いかけていた。とっさに口をついた擬態の声であったせいだろう。どこか、すっとんきょうな響き方をした。
  ふりかえるや重綱は首を震わせ、
「お聞きになられたか」
「なにをです?」
  すると重綱は目を見張り、今さらその誇りを重んじようとでもいうように頷いてみせた。
「お父君には遠く及ぶべくもないが、私がこれからは姫のお世話をいたしましょうほどに、何もご心配はいりません。なんとでも……おじさま、とでもお呼びなされ」
  父の敗死を知らされる瞬間。それがこの先の人生で、もっとも自分を殺してかからねばならぬ、感情を禁じねばならぬ時なのだと、ずっと前から思い定めていただけに、どこか重綱の態度は阿梅にとって腑に落ちなかった。
  伊達家が父にとって、敵に連なる武家であることは阿梅も知っていた。それゆえに、伊達家が敵を裏切ったのか、父が味方から離反したのかが推り知れなかった。伊達も真田もそんなことをやりそうなところがあると阿梅には思えた。なんにせよ、父と伊達家とは裏で手を結んでおり、自分もとりあえず父の懐に入ったのだとばかり思った。あるいは人質に使われているかもしれないなどとも考えてみた。
  しかし、真田幸村は大坂がたについたまま討ち死にし、伊達政宗は徳川がたについたまま勝利した。
  つまり阿梅は、敵の陣中に取り残されたことになる。

2p

進む