<石和川中島合戦戦国絵巻・総集編レポ07>
2003/04/20、山梨県石和町、笛吹き川にて。
午後、雨天決戦。
武田本陣より上杉軍突入を写す
高坂隊、妻女山へ先発
以後、プログラムで言うと、
合戦(1)「車がかり」
合戦(2)「三太刀」
合戦(3)「火縄銃・殺陣」
合戦(4)「騎馬戦」
合戦(5)「魚麟・鶴翼の戦法」
までが一繋がりにご覧頂けるかと思います。まずは最初の「合戦1」が10分程度です。
<武田軍「きつつきの戦法」を開始!>
まず「川中島合戦」ですが、2〜3回と言われる物から十数回に及んだように記される物まであり、現在の定説として11年間に5回ほどと言われ、俗に言う「川中島合戦」とは、もっとも激戦だったとされる「第四回川中島合戦(永禄4年=1561)」を指す事が多く、ここでもそれを再現してます。
先に勝敗結果を述べると、前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち、とされます。
戦況は、武田軍は海津城(のちの松代城)に入城し、これを聞いた謙信は小田原城攻めから急遽越後に帰国し、8月には春日山城を出発、雨の宮の渡しを渡り、海津城を通過して川中島の妻女山に布陣します。兵約1万3千。
対する信玄は8月18日、甲府を出発し、24日には川中島を挟み、妻女山の謙信と相対する茶臼山に布陣しました。兵約2万。
←戦場の川付近の炎は勢いを増し……
↑やがて戦場の奥側からも火の手が上がって、両軍の緊迫感を演出します。
これらの煙か、別にもスモークするのか、何しろ戦場は物凄く煙くなりますが(^_^;)、見てる側からは立体的な物凄い演出背景になるのです。
そしてこれを合図に、ナレーションは戦場に風雲が告げられたことを叫びます。
両軍睨み合いのまま日は過ごされ、9月10日未明、海津城にいた武田軍は兵を二手に分け、一万2千ほどを謙信のいる妻女山に密かに向かわせて夜襲をかけ、残り8千ほどは八幡原で待機させて、妻女山から逃げてくると想定した上杉軍を迎え撃つ戦法に出ます。
これがまるで、木を突付き、そこからいっせいに這い出た虫を待ち構えて食らい取る啄木鳥(きつつき)に似ているとして「きつつきの戦法」と言われ、軍師・山本勘助の策として、江戸期に持てはやされ軍記講談の一郭を形成しました。
この時、先に妻女山に向かい、後になって武田本軍の援軍のために駆け戻って来る部隊の一翼に、ここ石和が生んだ英雄「
高坂弾正
」がいたのです(^^)。
弾正は戦局を見極める事に長け、自分がいま目の当たりに見られない戦場についても、常に冷静な判断を下せる武将でした。
この祭りでは、特にこの部隊の活躍が花形として登場します。
<「火の軍団」(高坂隊を含む)離脱開始!>
しばらく観客席からの視点でお届けしましょう。動きがあるのは武田陣営。以下のナレーションが流れます。
「さて、きつつき戦法を決めた武田の陣営では、2万の軍勢のうち高坂弾正隊を先陣として、1万2千の軍勢を夜陰にまぎれて上杉の本陣・妻女山の裏手に向けて進撃の命令をくだした」
「武田全軍、ご起立めされい」
「高坂隊、お屋形さまの下知により上杉本陣、妻女山の裏手に廻れ」
こうして妻女山に向かう先発隊の出発シーンで始まります。↓
武田軍から離脱開始する瞬間。
例年ですと「高坂弾正隊」のみだったのですが、2006年は、「火の軍団」とされてました。
「火の軍団」は、
高坂弾正忠昌信/武田刑部の少輔信廉/小幡豊後守昌盛/一条右衛門大夫信竜/真田源太左衛門尉信綱/多田淡路守満頼
でして、高坂弾正隊を先頭にして次々と武田の兵士が続きます。
←以下は武田軍における視点。まずは高坂本隊が、いっせいに移動を開始。
一度信玄公本陣前を通るべくグランド一周、グルリと半円を走ります。
信玄本陣前の後は、川沿いを移動。
わ〜い、後に続け〜、とこたつ隊も橋を渡る
(この赤っぽい連中がこたつ隊)
再び観客席から。↓
先頭の高坂隊を黒忍者さんが先導。続いて長々と赤い列がやって来ます!
↑ご覧の通り、「鞭声粛々」と歌われる川中島合戦の詩で、頼山陽が「長蛇」と表した武田軍の、まさに竜のようなウネリ(#^.^#)。 (ちなみに詩に表される「長蛇」は、信玄をやや悪く見立てた言い方ですが:笑)
<謙信「鞭声粛々、夜河を渡る」の作戦>
この段階あたりから少し重要なのは、我々が高坂隊にいた2003年は、珍しく雨が降りやまず(^_^;)、この後は著しく戦場における写真に、晴天の下における画像と、ドンヨリ雨に濡れる様子の明暗が別れます(笑)。
これには、
こたつ城主が武田にある時は雨が降る
、という事を身を持って実感しました。
この高坂隊にあった2003年は1日雨でしたが、2006年の「火の軍団」においては、こたつ城主は見学で、その他のこたつ隊のみ参加で、私が小学校に皆を見舞っていた時間帯は雨、その後私が抜けて他の皆が戦場にあった時間になるや、恐ろしく晴天となったのです(爆)。
恐らくそれらは、その後の「
こたつ城主の戦死(笑)
」に到る、罪深き「
裏切りの数々
」が理由するのではないか、と個人的には
武勇伝
として誇りに思っておるのであります(爆)。
まずは高坂本隊が橋を渡り、後に赤いこたつ隊が続きます。
ここで再びナレーションが入ります。
「両軍緊張の内に9月10日の朝を迎えた。
武田軍は、高坂隊1万2千に上杉軍の背後をつかせ、自らは、8千の軍を率い、川中島の八幡平に鶴が翼を広げた形の鶴翼の陣を張り上杉軍を一気に打ち破る作戦に出た。
世に言うきつつきの戦法である」
ウキウキウキ〜♪
(こらっ、緊張感足らないゾ! 亭主は亭主でカメラ撮影するし↓:笑)
また、この様子は高坂本隊にいた時(2003年)なのですが、自分達が出番の時なので写真があまり無く(^_^;)、武田軍の星友さま、上杉軍の太郎丸さま、観客席武田側の紫さま、観客席上杉側のたみい様、高坂隊のこたつ亭主と、多くの方から写真を頂戴した事を感謝とともに申し述べます。m(__)m
急げ急げ、もうすぐ妻女山だっ!
こたつの後からは、さらにこたつ隊の面々が続きます。
後ろに行く程、前の列から離され、わりと頑張らないと間があいてしまいます(^_^;)。
戦場を離脱した高坂隊は、橋を渡ると→
観客の渦の中に↓影を潜めます
や〜っと、
妻女山
(という事になってる
観客席
:爆)
に移動完了〜。
「だが、この戦法は、まんまと上杉軍に裏をかかれた。
上杉軍は、妻女山を下り、武田軍よりも早く八幡原に車がかりの陣を布陣してしまっていた!」
まさに謙信の神通力(^_^;)。謙信は武田軍が妻女山に夜襲をかけると見抜き、時間差攻撃で逆に八幡原の武田本隊を襲う策に出ました。
この時、謙信は、武田軍に悟られないため、つまり騙されて夜襲をかけられたフリをするべく、妻女山にはあたかも上杉軍が残留してるような細工を残し、また自分達の移動を悟られないように、馬の口や轡の音が出ぬよう工夫し、兵馬ともに極力音を控えて川を渡ったため、後に「鞭声粛々、夜河を渡る(馬を鞭打つ音すら静かに、夜の川を渡った)」と詩に歌われるほど細心の注意を払って素早く移動した、と言われています。
<妻女山における「火の軍団」(高坂隊)>
しばらくは、まだ高坂隊の先発シーンの続きをお届けしましょう。今度は観客席から(^^ゞ。
そして先頭、高坂隊の九曜紋が観客席に上がって来た瞬間。
走りは遅くても大丈夫です(^^ゞ。その方が長く目に留まりますし、大量に感じます(笑)。
何より望ましいのは、隊列の間が空かない事がいいですね。
ここで、しばらく観客席の合間に待機しているのがそれまでのスタイルだったのですが、2006年からは、観客席を悠然と通り過ぎ、鵜飼橋のたもとで待機する構成に変わっていました。↓
高坂隊は観客席を横切り、続いて武田信廉隊(こたつ隊)が到着したトコ!
↑手前の観客の間近さ(大きさ)と、奥の点のように遠い人(の小ささ)の比較で、いかに戦場から観客席までが大きな舞台か、実感して頂ければ(^^)。
2006年からの構成では、居なくなるのが全体の四分の一に当たりますか……それぐらいの大人数が抜けると、いかにも「武田は手薄になった」と実感し、この後の武田のピンチが伝わってハラハラさせ、良いと思いました。↓
二番手のこたつ隊も……
一生懸命に後を追って走ります
武田菱の旗(信廉隊旗)に続くこたつ隊。がんばれ〜(^O^)/
さて、この高坂隊(火の軍団)、当の武田の中では「何かあの人達だけ違う事やってる」と思うでしょうし、やってる本人達も当然「自分達だけ違う事をやらされてる」とは感じてます。
少なくてもこの別働隊の存在を知らないって事はあり得ません(^_^;)。
それが上杉になると……相変わらず「遠くて見えないセレモニーの一部」ぐらいの認識ですね(^^ゞ。
遠いというのもあるんですが、上杉にも「そろそろ出陣」という陣触れが兵士に周って来たりで、ちょっとソワソワしてる頃ですから、特に目を離しがちです。
いつからだったか、合戦の流れとしては知ってましたし、宮下帯刀さまの隊が配属された事があったので、そういう部隊があると聞いた時「へ〜、
ただのチャンバラごっこ
と思ってたけど、わりとちゃんとやるんだ?」ぐらいは思いましたが、それほどきちんとした話だと判ったのは、残念ながら、見学するようになった
戦死後
でした(爆)。
「合戦1、車がかりの戦法」
<武田軍「鶴翼」の構え(上杉「車がかり」を迎える態勢)>
さて、いよいよ合戦。
武田軍はやって来る上杉軍を迎え撃たなければなりません。
というわけで、最初の戦は上杉軍が勝利すべく「車がかりの戦法」であります(^^)。これは「軍がかりの戦法」と言われていた時期もありました。
まずは兵士の布陣から。
あ〜あ、最初は負けるんだってよぉぉ〜。ゾロゾロ。
(上杉に負けるために陣を作る武田軍達:上杉軍から撮影)
観客席からも、武田の赤い山が本陣の前にドド〜ッと移動して行く様子が伝わります。↓
向かって右側、苦境に立たされた武田軍、鶴翼の構え
↑戦場の奥、陣幕の向こうから上がった火の手も燃え広がり↓
焼け野原状態
(藁を集め、いっせいに燃やします)
↑戦場の奥の野原は、文字通り「焼け野原」となり、戦場の朝に出た濃い霧を演出します。
この時こそ、米沢から祭りの応援に駆けつけている稲富銃砲術隊の方々が、ドンドンと武田に向けて発砲し、まずは初段階の揺さぶりを大いにかけます。
発砲披露に登場する、
米沢稲富砲術会
の方々の後ろをモクモクと……。
本陣の信玄を守るべく布陣する武田兵と、その前に立ち塞がる砲術隊
<上杉軍、車懸の陣形を整える>
翌朝、霧の八幡原には、手薄となった武田軍の前面にズラリと上杉軍が並んでいました。
高坂隊など「火の軍団」の抜けた武田軍を、「今だ」とばかりに謙信が総動員で攻めて来るのです。この時点では、上杉軍の方が兵力が上回っているのです。武田は劣勢です。
上杉軍も皆が総立ちとなり、なかなか壮観です。見ていて驚いたのは、兵士の動きです。
兵士だった時、この車懸の頃まで座ってて、ここではじめて運動開始するので、足が痺れていたり眠気に襲われたりで、つい立ち上がりや行動がノロノロとし、「もっとキビキビしなきゃ見た目悪いんだろうな〜」と気にしてたのですが、この心配は全く不要です。
特に上杉については、先頭から末尾の兵士までの「集合」の動きが大きな広がりを見せ、すこぶる威圧的で数の多さを実感させます。
まさに「山が動く」という感じ。
ここで全員が揃った迅速な行動だと、返ってせっかくの数の多さが生かせないとすら思いました。
一方、あくびをしたり足腰の砂を払ったり、面倒臭そうな動きを取ったからといって、殆どの兵士は「点」で見えません(笑)。安心してリラックスしてれば良いと思います(^^ゞ。
観客席から見ると↓
向かって左側の上杉陣営、右に立つ数人は米沢の鉄砲隊
↑兵士達の前に立って、横に埋め尽くすのは各隊の大将達。次の戦線では兵士達とともに戦います。
また手前に控えている数人は演出部隊の待機です。
この頃から演出部隊(殺陣隊)の人たちも、いよいよ活躍開始。↓
殺陣隊の武田軍(赤備え)兵士たち、駆け足入場
そぉらぁぁ〜、出番だ出番だぁぁぁ〜!!
ダダダッ!!
一方、上杉寄りのフィールドでも待機完了
<両軍まずは鉄砲の撃ち合い>
ちなみに、例年のこの戦における兵士など動員数は700人〜1000人とも聞きます。
(公募が700人でも、ドンドン集まって1000人近くなるそうです(^_^;))
左・上杉、右・武田の間でまず鉄砲戦
↑これより先は、中央に「テレビ画面」があるのに注目(^^ゞ。戦場は広いので(笑)。
上杉軍の人達は、この時間帯は「ただ走るだけ(^^ゞ」と思ってて(笑)、実際リハーサルでも「ダッシュしてすぐ戻って来てネ」としか言われませんし、恐らく武田に至っては「立ってて」としか言われてないハズ(笑)。
だから兵士としては「戦はまだまだ先」って感じなんですが、既にストーリー上は
バリバリ戦闘状態
ですし、お客は
すっかりその気
でいます。
ほらこの通り、
食い入るように
見てますし(爆)
つまり一番感動して受け取っているのは
間違いなく観客
です(笑)。これは自分が見学になって初めて知ったのですが(^^ゞ、何しろ観客が全体のストーリーと構成、シナリオの類が全編通して把握できる舞台ですから。
後ろに屋台などあって、もっとホンワカお祭り気分で見てる(つまりあまり見てない)物だと思ってたのですが、意外とかなり熱心に見てます(^^ゞ。
だいたいの人が腕を組んだり、腰に手を当てたり、望遠鏡を持ってたり、カメラ位置を取ろうと移動したり、いずれも「じっくり見入ってる」様子に思えました。
途中で他の客に手が当たったり、うっかり持ち物を落としても、みんな観戦に気を取られて、謝っても気付かない(きっと手や物がぶつかった事も:笑)という感じ。
何しろこの高坂隊の抜けた分だけ兵力に損失のできた武田軍が、この先苦境に強いられる様子は、かなりの緊張感をともなって観客に伝わって来ました。
武田はピンチに立たされていたのです!
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