その二「天仙と地仙」
道教は、時々、仏教と似てるのかな、と思うことがあります。最終的に、俗世の何もかもを捨てる、といった発想が底辺にあって、そのために修行を重ねていく、といった所が似ている気がします。
そう考えると、仙人とは、もしかしたら仏になる(何て大雑把な表現(^_^;))前の段階なのかもしれません。しかし、神仙の道は、ただむやみに煩悩を捨てさせるのではなく、そこに達するまでの途中の道のりを提示している所が優れている、とも思っています。
仙人には、天仙という高度な気の持ち主と、地仙という「天仙になる途中」の仙人がいます。天仙には、どうやら我々は出会えないらしいです。地仙のレベルだと、時々、探せば会えると言われています。
天仙は、日がな一日じゅう、空の上、雲の上を散歩しているのだそうです。時々、昼の弁当を届けにくる弟子か何かが居て、それを食べたら、また散歩を続けるのだそうです。
不老不死の天仙が、弁当だけは食べる、というのは、ちょっと不思議な感じがするかもしれませんが、臨死体験者の話でも、死後も食事をしていたなどという事を聞きますし、死者を祀る供物にも食べ物が多いものです。
それでも、食べずに生き長らえる体を持つ天仙の感覚となると、想像するのは難しいでしょうか。
皆様は、子供のころ、親に付き合わされて人の家に訪問し、大人の会話に飽き飽きした覚えがありませんか。それでも人の家を訪問する楽しみを、子供はおやつを貰う事で覚えるものです。例えば、祭りの楽しさも、露店で買ってもらった珍しい食べ物によって覚えるものです。
子供のころは、純粋にお菓子が食べたいのですが、大人になっても、特に女の人などは、友達の家に行く時、必ずケーキを買ったり、みんなでお菓子を囲んだりするものです。
大人の目的は、だいたいが「おしゃべり」です。お菓子が食べたいのではなく、おしゃべりを楽しむために、お菓子や料理で雰囲気を盛り立てているにすぎません。
天仙も、本来は雲の上の散歩が目的なのだと思います。むろん私に、それの何が楽しいのかはわかりません(^_^;)。この世に飽きると、そういう事が楽しく思えるのかもしれませんが、残念ながら、まだまだ世の中にやり足りない事の多い私は、毎日雲の上の散歩は、そっちの方が飽きてしまうような気がします。
同じように、子供のころは、大人のおしゃべりに何の意味があるのかわかりませんでした。何であんなにしゃべる内容があるんだろう、と不思議でした。
大人になった今は、おしゃべりが楽しいです(^^)。それと同じように、いつか、雲の上の散歩が楽しくなるかもしれません。それでもなお、おやつ(=昼弁当)も捨てられない、それが人間の先を行ってる人にしかわからない「感じ方」なんだなぁ〜、と私は思っています。
こういう風に、道の先に行っている人の感じている事を知ること、それが道教言うところの「道」の感覚であり、道の先を生きている人を、書いて字のごとく「先生」と呼ぶのです。
先生とは、得がたい経験と、その未知の経験なくしては持ち得ない、独特の感性の持ち主を指すのです。仙人、あるいは仙人を目指す人以外には、本当は使ってはならない呼び名です。
しかし、いくら気の大家であっても、会えないほど遠い存在では何も教えてもらえません。会えもしない天仙の話を、ここでいくらしても始まらないでしょう。我々は会える仙人を探さなくてはなりません。会える仙人、すなわち地仙は、それではどこに居るのでしょう。
ここから、いきなり現実の話になります(^_^;)。その前に、一言お断りしておきますと、この手の仙人話には、こういった「いきなり現実への飛躍」が付き物です。
例えば、「蛇が脱皮を重ねて大蛇になった」。ここまでは、科学万能の時代の我々にも充分納得が行きます。
が、この手合いの話は、例えば「
大蛇がさらに修行を重ねて龍になった」という発想が、三段論法の結論として、いきなり飛び出て来ることも、しばしばあります。こういう事は、この世界の特徴なので、まあ、あんまり驚かず、かつ、お気になさらずにお付き合い下さいませ(アセ)。
私としては、地仙の域に達している、と思える気の大家には、今まで何人か巡り合ってきました。むろん人間ですから、彼らは家族も職業も持っています。
しかし彼らは、やはり、かなり人を選びます。人をあしらう技術も相当なものがあります(^_^;)。
よく、香港映画などで、若者がカンフーの達人に出会い、「弟子にして下さい」などと一生懸命頼んでいるシーンなどを見かけます。映画では、最後は若者の熱意に心を打たれて、「仕方ないからついて来い」というような事になり、目出度く秘伝の術を授けてくれたりするわけですが、まあ、実際はあんな事はありません(^_^;)。
昔から、仙人を探すのなら、「仙人の存在を疑わないこと」だと言います。「目で確認できる事が全て」という現代の物証主義世界にあっては、やや難しい感覚かもしれません。
でも、せっかく東洋医学の世界にお付き合いいただくのであれば、ここは一つ、「
大蛇が龍になる」式に泥を引っかぶっていただき、大らかなお気持ちで読んでいただきたく思います。
まず、「本当に居るの?」と思っている人は出会えません。一方、「世の中には不思議な事があるに決まっている」「物凄い見世物をぜひ見たい」というタイプは、さらに出会えないと思います(^_^;)。信じない人と、信じすぎる人は、この世界にとって同等なのです。
彼らは、人前で、わりと、とんでもない話をします(^_^;)。例えば、宇宙人の存在を信じている、とか、昔の人は偉かった、お父さんやお母さんを大事にしなさい、なんちゅうような、ウンザリする話をはじめる人も居ます。
もしかして変な宗教をやってるのでは……とか、何か偏った思想の持ち主では……ぐらいには思えるかもしれません。愚痴と不満に凝り固まった変人にすら見えるものです。
そして気を付けなくてはならないのは、実際、本当にそれだけ、という人も多いです(爆)。区別のつかないうちは、あまりむやみに、誰も彼も信用しない方がいいと思います(^_^;)。
どこが決定的に違うか……と申しますと、私が地仙と見込む人々は、一度教えに関わる内容に踏み込むと、二度とその手の怪しげな論法を繰り返しはしない、という所です。
ですから、もし、皆様が、皆様にとっての仙人を探したあげく、むやみに入会金を取られて、いつまで経っても「宇宙の神秘」めいた言葉しか引き出せなかったとしたら、それは新興宗教です(爆)。その辺りで、一度家に帰って来られ、頭の中をリセットされるのが正解かと存じます。
こうした紛らわしい事象は、すべて地仙が、気功の心得のある者や、疑わずに居る者だけを選んで、本当に意味のある話はその人にしかしない事の現れだと私は思います。まあ、言ってしまえば、気に入った人にだけ秘術を教えたいという事なのでしょう(^_^;)。
私と同じ病院(東洋医学の)に通っていた人も、「ジジイの愚痴を聞かされてウンザリした」という人がいます。でも仙人だって、金を稼がねば食っていけないし、医者としての信用に関わるから、こっちの患者とは口をきくけど、あっちの患者は無視しよう、というワケにはいかないのです(爆)。他の患者の言う事は、ニヤニヤ笑って聞き過してみて下さい。
こういう芸当が出来ると見込んだ相手には、彼らは、少しづつ知識を授けてくれます。ただし口伝と言って、決して書類にしない事が暗黙の了解事項です。メモを取る、なんて事を言うと、いきなりくだらない世間話を始めて、話をはぐらかす人も居ます。
記録行為は、感応を阻害すると思って、まず間違いありません。物証を取られると、後でその言い訳や立証に、修業の時間と体力を奪われるからなのではないかと愚考します(苦笑)。
老子が本当に何かを言い残したり、何かを書き残したりしたか? まあしたかもしれませんが、テキトーな事も言っていた。それが仙人ってモノだと思います。
我々は天仙とは遠くかけ離れた存在です。それがどれほど離れているかは、道を進めば距離感をして、わかってくると思います。今すぐにわかる必要はないと思います。
ただ、道の先を行った人の、遠く及ばない感覚のようなものだけはお伝えできたのではないか、と勝手に自負させていただきましょう。
長々と話してきましたが、易占いや風水、漢方薬や経絡なども、多くの人が「感じた事」を統計にして発展してきた学問です。言い方が悪くなりますが、何億何兆……いや、もっともっと多くの人を、人体実験してきた結果の文化です。
だから、成分がどうのこうの……という事はあんまり重視しません(^_^;)。それより、「なぜか治る」「なぜか効く」の積み重ねなのです。