<未病主義の考え方>


     
 
その三「気力」


さて、そろそろ本格的に東洋医学の話を進めて行きたいと思います。

まず、東洋医学の根本は、「未病主義」である、と断定して良いと思います。未病とは、「病気になる前に治す」という意味です。

例えば、私がお世話になった東洋医学の先生は、私が風邪をひいただけで、「アンタは、バカだ」とよく言いました。

東洋医学的には、風邪は立派な病気です。万病の元、という言葉を耳にされた方も少なくはないでしょう。つまり、「風邪などという深刻な病気をするまで、体の不調に気付かないなんて、アンタは何て鈍感なんだ」ということを先生は言いたいのです。

前述のとおり、道教の世界では、感応を好む分、鈍感を何よりキライます。そんなバカな患者の相手をしたら、自分の気が害されて損をする……という事を、先生は言いたいのです。

ところで、会社で「風邪ぐらい何だ、そんなの気力で吹き飛ばせ」なんて言う上司が居たら、その上司はバカだと思って間違いないです。

気力とは何ぞや。

「気」が衰えているから風邪をひくのであって、その気力を、「ふんばれば出るもの」という解釈をしたがる人を、私は「動物以下」だと思っています。

「病は気から」という言葉は、「気持ちの持ちようで、どうにでもなる」という意味ではありません。「病(風邪)は『気』に疾患があって発生するのだから、『気』を整えない限り治らない」という意味なのです。間違った解釈をしている人が、絶望的に多いです。

この「気」というものについて上手に説明するのは、至難の技です。ただ、「気持ち」とは、「気」を「持つ」のですから、「持つ」ことには意志の力が働くとしても、「気」そのものは、養うことによってしか生まれて来ません。

それでは、この「気」を養うためには、どうしたらいいのか……。

ここから千差万別であり、これが一番という方法は無いとしか申し上げられません。気に入った気功方法で、一生健やかな気が保てる人も多いし、体が弱い、薬を頼らなくてはならない人もいます。また、「気」そのものが、環境の変化やそれにつれた体調の変化などによって、大きく揺れ動く人もいます。

いずれにしても、「気」は、「精神力」そのものではありません。

よくよく、「気」「血」「水」という言葉を、耳になさった事があると思います。これは、人間の重要な要素とみなされて、よく使われます。強いて言うなら「血」は、血液とみなして良いと思いますし、「水」も、まあだいたい「水分」と同じと捉えて良いでしょう。

しかし「気」だけは、西洋医学が、つい最近言うようになった「心理」という奴とは、ずいぶん違うのを私などは感じます。

たとえば何かイヤな事があったとします。その後、頭が痛くて病院に行きます。何となく元気もありません。しかし病院での検査の結果、「異常ナシ」であったとします。患者が、「それでも、どうしても頭痛がする。元気が出ない」と言い張ったとしたら、病院は、すぐに「心因性の○○」を疑います。

本人にも、イヤな事があった、という自覚がありますから、そこで簡単に「きっとそうだ、心の病か、ストレスだ」なんて考えに、自らハマッてしまう人は、東洋医学的には、大変にお目出たい人です。

病院にしてみれば、栄養剤か精神安定剤でも与えておけば、患者は多いに感謝してくれますし、それで納得しない患者には、カウンセリングなんてやって、自分たちはエライと思っていられます。このシステムがお好きな方は、この先はお読みになられないことをお勧めします。

確かに、イヤな事が解消したら元気を取り戻した……という事は、ザラにあります。これは東洋医学的にも、決して否定はしないと思います。

しかし、イヤな事が解消したから元気が出たのであって、心因性(という事になっている)病気が全て「イヤな事(ストレス)のせい」というのは、何かおかしいとは思いませんか。治ったとき「やっぱりイヤな事が原因だった」と、妙な「学習」をさせられてはいませんか。イヤな事を自力で無くす事。これがいつの間にか義務になってませんか。

結論から言うと、イヤな事が無くなって元気が出る、健康になる……というのは、それこそ「気」のおかげなのです。医者も病院も、何もしてません。あなたが「イヤな事」を自分で解決したか、運良く「イヤな事」の方から去ってくれたか、自分で自分を励ました結果にすぎません。

あなたは、全部自分でどうにかしただけです。しかしその間、大切な人に当たり散らし、大事な人間関係を痛めつけ、社会を傷付けたかもしれません。抗生物質やらホルモン剤やら、安定剤やら鎮痛剤やらで、自身の肉体を傷付けてしまったかもしれません。

病院は、エラそうな事をつべこべ言わず、病気をこそ治せばいいと思いませんか。

ところが、かく言う私などは、幼い頃より大変病院のお世話になっておりました(^_^;)。そして、その結果、どういう事になったかを、これからご説明いたします。これは、きっと多くの方々にも通じる体験ではないかと思います。

その前に、試しに今、握り拳を作り、う〜んと力を入れてみて下さい。それで、机でもガンと殴ってみて下さいませ。

どうです? あんまり痛くないでしょう? それは力を入れてるからです。

逆に、掌を開いて、同じように机にぶつけてみたら……?

痛いでしょう? よく、ふいにぶつかったりすると、衝撃を強く感じるのは、油断している、つまり力を入れていないからなのです。

もちろん痛くていいんです(^_^;)。感じることが出発点です。感じない人は、始終力を入れて生活している人です。他人の痛みにも気付かない人です。そういう人の集まる社会は、だんだん鉄の塊になります。一番強いのは、もっとも破壊力の強いもの、という発想の社会です。

本来、人は、風邪をひく前は、その予兆を察して予防し、ひいてしまったら、風邪のために体に起こった様々な後遺症を訴え、その訴えに沿って治していかねばなりません。充分に治さないでいると、風邪そのものは去っても、体のどこかに悪因が残ってしまうのです。

この時に残ってしまった事が原因で、後年、いろいろな障害がつきまとうようになります。

しかし、同じ風邪を引いても症状が人によって違います。西洋医学では、この体質というものを絶望的なほど軽視しますから、抗生物質を与えて熱を下がらせ、それによって胃の調子が悪くなれば、同時に胃薬を出すだけです。

つまり、現代医学は、サイボーグを作るワケです。もちろん、そのツケが老後や遺伝子に来る、という仕組みは避けられません。それはまるで、水中で生活した浦島太郎が、短い春を謳歌したあげく、いっきに老けるのに似ています。

本来、気力の強い人とは、むやみと我慢する人ではなく、おのが「気」の調節に長けた、自然の投げるサインに敏感な人のことを言うのです。

ところが、この感応能力(自分に対しても他人に対しても発揮する能力)は、抗生物質や鎮痛剤、ホルモン剤などを飲むたびに低下します。薬で治る経験をしてしまうと、体が、敏感であることを諦め、風邪をひきそうだ、という、つまりは気の低下を知らせるサインを出さなくなってしまう、要するに鈍感(=バカ)になるのです。

現代人の多くは、病気になる前の自分の状態に、大変に疎い、非常に鈍いのです。薬害の影響もありますし、無意味な抑圧のせいでもあります。抑制と我慢の結果、サインを伝えるのは無駄だ、と体が諦め、苦痛を感じないまでに感覚が鈍くなってしまうのです。

現代社会に生きる限り、これらはある程度はやむをえないと思います。どうしても薬に頼って、毎日を切り盛りしてしまうし、そうすればいい……という調子で、社会全体が迫ってきます。(たとえば、胃薬飲んで忘年会で酒飲むのが常識、風邪薬飲んで会社に行くのが当たり前、という宣伝がありますよね(^_^;))

だから、西洋医学も現代医療も、決して否定はしません。私などは、幼い頃より難病持ちでしたから、ホルモン剤に浸かりきってます。人より遥かに「バカな体」です(^_^;)。今でも鎮痛剤も風邪薬も飲みまくってます。私たちはそれらを抜きに生活していけない状況に置かれています。しかし、そのツケに思いを到らせる……それが大人です。

「大人」とは、オトナとコドモの大人ではなく、物のよくわかった人の事です。対する言葉に「小人」があります。こちらは、先の見通せない愚かな人です。

私たちは、めったやたらに「オトナぶってる人」を目指すのではなく、「大きな人」を目指さなくてはなりません。

「抱朴子」では、仙人になろうとして山に入り、そこで凍え死にする奴は世間のいい笑いものだ、と言っています。要するにこれは、凍え死んだりしない、真に丈夫な体を作ってから修業しろ、と言ってるワケです。

わかっていない小人である我々は、小さな事から始めなくてはなりません。

修業ばかりやっても、基本にすべき皮膚感覚がおかしくなるぐらいなら、最初から何もやらない方が遥かにマシです。無理をせず、まずは、自分の体を整えることを覚える。それが「未病主義」の原点です。

 
     




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