<仙人を探そう!>


     
 
その一「仙人はイジワル」


私は難病を病んでいます。だから、もちろん常人並の生活が出来てるワケではなく、今でも病院に行けば、きっとアレやコレや、悪い所が見付かるに違いありません。でもその事と、「数値がどう出ようと、私が感じる限りでは、元気だと思う」ってのは、別だと思うワケです。

東洋医学に限らず、私は中国文化に関する事を人に聞かれたとき、たいてい「う〜ん、それはね、仙人になるための修業なんだよ」と答える事にしています。本当はそうじゃないだろうな、と思える事でも、まあ当たらずとも遠からず、と私は思っているのです。

これは別に、相手をバカにしての答ではありません。つまり私は、何でそんなに、何でもかんでも知りたがるんだろう、例えば健康に関して言えば、体が元気になればいいんじゃないの?と、思うのです。元気って言うのは、「今日は、何だか楽しい気分だな」と思うのも、私に言わせりゃ「元気」です。

中国人ってのは、古代から、たいそう意地が悪いです。訊いた事にちゃんと答えてくれません。ニセの墓を作ったり、わざとウソを教えたりして、自分たちの文化を維持してきました。それは、彼らの理想とする仙人ってのが、だいたい意地が悪いからではないか、と思うことが少なくないです。東洋医学的な世界にいると、自分も、少しづつこんな空気に染まってくるのを感じます。

中国人の宗教は、儒教はタテマエで、どうも本当は道教らしい、という事は、最近ではずいぶん知れ渡ってきたように思えます。しかし、道教って何?とかいう話には、あんまりマジメにつきあう気がしません。やっぱり「う〜ん、仙人になるための教えってトコかなぁ〜」になってしまいます。

まあ、老子も何か言ってるし、荘子も何か言ってるわけで、一応彼らも仙人ではあるのですが、それらは必ずしも神仙思想ばかりを説いているわけではありませんし、私に言わせれば、老子荘子は、私たちの日常にはあんまり関係がない、となってしまいます。

たとえば、仙人に会って、ワケのわからぬ難しい話が始まっちゃったら、それは、あまりマジメにつきあってない、というサインと思って、まず間違いないです。本当は、空論を繰り返すことは、あまり彼らの好みではないからです。

しかし、何かを伝えなくてはならなかったり、書き残さなくてはならない事態というものが、いつの時代にも存在します。だからいろんな書物があるでしょう(^_^;)。しかし、これは今後もたびたび私が口にするだろう事なのですが、「要するに、自分に合った物を読めばよい」。これに尽きます。

ちなみに仙人とは、長生きできる人の事です。魔法が使えるみたいな発想は、マンガの世界のことであって、長生き、これこそが仙人の存在証明です。ところが、その長生きな人が、まるで人生の残り時間を惜しむがごとく、「時間の無駄は避けろ」なんて、一見矛盾した事を言ったりします。

仙人と言うと、とにかく現実や世俗から遊離した人々……という印象があるかもしれませんが、仙人の世界には、かなり生々しく現実を直視している面があります。

「抱朴子」は、バカに物を教えてはならない、なんて事を言ってます。私は、こういう事を言う教えは、子供の教育上、良くないんじゃないかな、と思います。思いはするけど、現実問題として、関ずらあってロクな目を見ない相手、というのには、どうしても出会ってしまう。

これを「気を奪われる」などという言い方で、これから表現していきます。

これからも、しばしば登場するであろう、この「気」というものの概念についてですが、これをちゃんと説明できている本に、私はかつて出会った試しがありません。

しかし「気」は間違いなく存在します。そして、上記に言った事で、何となく察しがつかれた方もいらっしゃるのではないかと思いますが、要するに「気」とは、自然にとっては無限でも、人間にとっては無限の物ではありません。

それともう一つ、生まれながらにして仙人、という設定の話はよく聞くのですが、実際にはそういうのはありません(^_^;)。そうした記述をご覧になられても、「ちょっと飛躍した表現」ぐらいに差し引いてお読みになられるのが正解かと思っております。

つまり「気」は、使えば無くなります(^_^;)。仙人とは、つまり「気の達人」を指して言うわけですが、いかな偉大な仙人であろうとも、際限なく使えばへたばります。しかし用途がどうであろうと、使って無くなるようでは困ります。そこで「気を養う」という概念が飛び出てくるのです。

さて、ここで、「なるほど、仙人というものは、気を奪われないために俗世を離れ、人間とは無縁で居たがるものなのか」と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、それがそうでもありません。

道教の世界では、「感応」という言葉をやたらと用いて、これを良しとしてます。感応ったって、ポルノ小説ではありません(^_^;)。要するに「ツーカー」の事です。この関係の当てはまる弟子にだけ、物を教えて良い、と彼らは言ってるワケです。この考え方は、易の中にもしばしば登場します。

まあ、どういう事かと言いますと、気を養うだけで何事も社会に還元しないでいれば、この世の文化は失われます。だから、仙人になったからには、弟子を取らなければならないのです。人を選んで教えを授ける。こういう事を、仙人の世界では営々と行われてきたわけです。

そして数多く行われたであろう伝授は、そのほとんどが「口伝」だったようです。つまり、誰が読むかわからぬ書物などに、大切な事を記したりはしないのですよ(^_^;)。それほどに、この世界は師を選び、弟子を選ぶことを優先するのです。まあ、ホームページに書こうなんてのは、ある意味、邪道なんですね(爆)。

このように、仙人を志す道の途中には、驚くほど俗っぽいメッセージがばら撒かれている事があります。現実というものは矛盾だらけです。ここから逃避する道を説いているようでいて、その実、道教とはそもそも、矛盾を生きる道なのではないか、と思う今日このごろです。つまり「矛盾を生きる」とは、相反する主義主張を、ケースバイケースに取り入れて、巧みに順応する道のことです。

こう言うと、ズルイの不純だのと思われそうですが、そうではありません。断じてそうではないのです。ここが肝心な所なので、よく聞いて下さい。

陰陽を合わせもつ、それが人間であり、陰陽を調和させることに巧みなのが仙人です。白か黒かではない。天国か地獄かではない。神か悪魔かではない。善か悪かではないのです。

道徳という言葉があるぐらいですから、むろん決定的善、決定的悪というものはあります。しかし、まあだいたい、殺人はダメだとか、盗んではいけないとか、そういう事と思ってもらってよいでしょう。

しかし、それより何より、「バランスを取れ」というような事を言うわけです。人間だから、バランスを取ってる行為の中で、すでにバランスが崩れてしまう。だから、一生崩れたバランスを取り続けるのです。

これこそが養生、という事になります。気功でも漢方でも経絡治療でも、風水でも詩歌でも易でも、まあだいたいバランスを取ることを目指していると言ってよいでしょう。

易の思想に、「陰極まれば陽に転ず、陽極まれば陰に転ず」というのがあって、放っておいても、いつのまにか自然とバランスが取れる、という考え方も中国にはあります。

そうか、バランスを取るのか、と今度はバランス取ることに血道を上げるのが人間のようです(^_^;)。これを戒めるべく、我々は、より高度な仙人から学ばねばならないのです。人間は、果てしなく続く仙人への道を歩み続ける動物と言ってよいでしょう。
 
     




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