<未病の考え方>


     
 
その六「東洋医学にかかる前に」


手近な医療施設としては、鍼灸治療院、気功道場、整体等、何でもよろしいでしょう。漢方専門店でも気に通じた専門家が居る事もあります。

何だか疲れやすい、どうも気分が優れない、このごろ物忘れがひどくなった、など、病院で相手にしてくれない不定愁訴の内に行くのがお勧めです。保険がきかない所が多いし、保険がきく所はこの世界では「ヤブ(^_^;)」である可能性も高いので、そういう意味でも、重症にならない内に行くことが肝要です。

最近は、だいたいフォーマットがあって、質問内容を用意してくれる所もあります。

私の経験としては、漢方薬局なら、舌診(ベロを見る)。鍼灸になると脈診(手首の内側を指で確かめる)をしているかどうか、ぐらいは判断材料にしますが、これも何とも言えません。

脈など測らず、対面した患者の気を読み取って即断出来る気の大家もいますし、また、これを気取っているだけの治療士もいると聞きます。どの医者が良いかは、いろいろ経験して選ぶしかないと思います。

目安としては、2〜5回も通って効果も感じられなければ、そこはヤブだと思った方が良いでしょう。

しかし一番の目安は、相性です。この人なら何となく信用できる、何となく話しやすい、逆に話さなくても通じる何かを感じる……など、患者も自分の好みで相手を選んでいい、と、ここでは強調しておきたいです。

東洋医学ほど「感じ方が人それぞれ」という世界も他に無いです。本から得た知識で「気」の概念だとか、東洋医学とは、などと言い出すのは、食事をした事がない人が、食べ物の紹介記事を読んで「食」を語るのと同じです。

アイスクリームについて、ある人は「白い」というイメージを持ち、ある人は「冷たい」、ある人は「甘い」。どれも間違いではないけど、「白くて冷たくて甘い物」がアイスクリームではない。何を決定打と感じるかは、人によって異なります。

しかしこれを、どうしても本に書けなくては学問として認めない、とする世界がこの世にはある。例えば医学界というものがそれです。

要するに現代医学とは「子供っぽい」のです。子供は、「誰が一番エライか」という事でしか物事を判断できません。勝ち負けだけが唯一の基準です。「美味しい」とか、「この人とは相性がいい」などという感覚で価値を認められない。

それゆえに、今世の中で売られている東洋医学関係の本というのは、主に経絡(鍼灸)関係、あるいは漢方薬関係ばかりで、「気」について真正面から語られている善書に乏しい感じがします。

いかにも医学として通用しそうな用語が並び、そのくせ効能をボカした本によく出会いますが、たいていバックには医者がいて、医大を出た程度の能力(気功を一日何時間行っているんですかね)で偉そうに解説してたりするものが多く、また哀しいかな、そのように書いてくれなくては理解できない一般読者が多い時代となってしまいました。

で、大抵の人は、これらを読んでも「あんまりピンと来ない」という事になるわけです。アイスクリームより、もっと白い物もあるし、もっと冷たい物もあるし、もっと甘い物もあるからです。

食べれば一発でわかる事を、いちいち酷明に描写するほどバカバカしい事って無いんです。

私はかつて、東洋医学の名医に出会いましたが、私を診た先生は軽く脈をはかっただけで、以下の私の症状を言い当てました。

「頭が重い。体が冷え、特にくるぶしより下が集中的に冷える。薄手の靴下を履いていると冷たいが、厚手の靴下を履くと鬱陶しい。夜は寝入りばなが悪く、一度深い眠りに入ると、今度は起きる時がしんどい。食事は濃い味を好み、味が薄いと食欲が湧かない。食事中、喉の通過も悪い。咳は軽いが一度蒸せると止まらない。便秘はするが、便秘剤を飲むとすぐに下痢をする。体に湿疹が出来やすく、主に赤くなるよりは、水泡が出来る事が多い。冬はそれが乾燥して皮がめくれ、痒みが起きやすい。仕事中は集中力に欠け、すぐに気分を変えたくなる。一方、集中しだすと止まらない。このコントロールが上手く出来ず、日頃ボーッと過ごしてしまいがち」

こんな事を言われても、私には最初、ピンと来ませんでした。なぜなら、私は幼い頃から難病や重病の類が多かったからです。

私の頭の中には西洋式の知識がビッシリ詰まっていたので、つい、自分で重要と思っている事……すなわち、病院で言われた、心臓や肝臓、腎臓に胃がどうのこうの、難病が何たらかんたら、という話をしはじめてしまいました。

すると先生は、たった一言。
「それで何か困ってるの?」

別に困ってません(^_^;)。このまま放っておくと大変な事になる、と脅かされてきただけです。

しかし、東洋医学にかかるようになってわかったのは、いろいろな病気の根本は、どうやら西洋医学言う所のアレルギー体質、膠原病体質が原因だった、という事です。

私は幼い頃よりアレルギーで、皮膚病にも鼻炎にも随分泣かされました。鼻炎は喘息にまで発展し、日常大変不愉快な思いが多かったのですが、この東洋医学の先生にかかるころには、それらの症状がすっかりナリを潜めていました。

ところが、東洋医学にかかるようになって、治りかけていたアレルギー性鼻炎が、花粉症という形で再発してしまったのです。

一見、副作用のようにも思えるんですが、どういうわけか私の日常は、前より遥かにハッピーです(^_^;)。

つまり花粉症とは、くしゃみや鼻水が出るだけの症状なのです(^_^;)。喘息に発展し、呼吸困難にまで陥るから、夜眠れなくなったり、酸素不足によって日常も頭がボーッとし、ついには人生にイライラ、クヨクヨするわけです。

虚弱な人間は大きな苦痛に耐えられません。だから、大きな苦痛は訪れない消極的な体に鈍化していきます。辛くもないが楽しくもない、つまりメリハリのない生活をおくり、いつ失ってもいい程度の命しか持ちようがなくなります。常に死ぬ準備をして生きているようなものです。

花粉症ぐらいやって、だからと言って、昔のような困った事にはならない。これが本来の自分だった、と私は気付きました。人間とは、苦楽ある生き物です。楽しく生きられれば良いのであって、根こそぎ病気を無くす必要はないわけです。

バランスの取れている肉体は、決して頑丈ではないかもしれませんが、どんな苦しみにも笑って耐えられる、明るい気持ちを持つ人生を与えてくれます。このように、死ぬギリギリまで立って歩き、楽しい思いだけで一生を満たせる人生を終えた方がいい、私ならそう思います。

つまり東洋医学では、悪いと「思いこんでいる事」「教えられてきた事」は治しません。イヤだと「感じている事」を治すのです。胃が丈夫になった事がレントゲンで確かめられたとしても、食欲がなければ美味しく食事が出来ません。「胃」という物体より、「食欲不振」という「困った事」の方を治す。これが東洋医学です。

ただし、私がよく聞く話では、私が出会ったような昔ながらの名医や治療士は年々減少し、今や医大に入れないから東洋医学に来る、ただの「針刺し屋」「マッサージ屋」ってのも少なくなく、この連中は「東洋医学はいかに素晴らしいか」なんつー本を書いたり、テレビに出たがる事も少なくないそうです。(爆)

それでも、およそ東洋医学を専門にやっている人の技術は、医者の技術……すなわち機械を通さなくては何一つ発見できない、こちらから何かを言わなければ、苦痛を察することもできない、そして何一つ治せない……こういう技術とは何しろ違います。

肌に触れ、舌を見、脈を取る。そして「気」を測る。それゆえ、多くの人を治すことは物理的に出来ません。一人が人を救える限界の数値。これを実感させるのが東洋医学です。多くの人に影響を与え名声を得るより、目の前にいる一人を救うこと。これこそ東洋医学「気」の本体です。

確かに、テレビから「気」を送れたり、写真を見ただけでどうとか出来る、という人も居なくはないようです。ただ、一概にこうした人……ちょっと言い方が悪くなりますが、見世物パンダを探そうとしない方が身のためだと私は思います。

目の前にいる救われない一人をとにかく救う。困った事をとにかく取り除いてやる。こういう人を探してほしいと思います。

現代社会は、多くの人をいっぺんにどうにかする(例えばいっぺんに殺す)方法でしか、うだつが上がりません。そうした能力の持ち主ばかりが歴史上でも評価されつづけました。

しかしそのツケで、私たち現代人は、今や社会全体から、「いっぺんに始末される」という土俵に立って生活している有り様です。

現代人は、自我の確立が遅れていると言われています。遅れているのではなく、自我の出発点→腹が減った、体が不快、苦痛、眠れない、イライラする、何となく何もかもがイヤ、といった基本的な訴えが封じ込まれてそうなるのです。

政治改革も教育問題も大いに結構なのですが、疲れた頭で何を考えても空回りするだけではないでしょうか。まず自分の感覚を取り戻し、充分に捉える事が現代人の急務だと私は思っています。
 
     




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