<掲示板・議事録>

「城主のたわごと」2013-02(上下毛編2)、1

     
  <こたつ城主 2013/02/28(Thu) 18:35>

題名:「城主のたわごと」2013年2月

↑上りました! な、何とか間に合いました(^m^;)。。宜しくお願いします!!

※ 過去更新状況
01/23「城主のたわごと」2013年1月
他、「今週のご挨拶とお知らせ」「議事録」など〜詳しくは「更新歴」を



<畠山義綱さま 2013/03/07(Thu) 21:32>

 ご無沙汰しております。レポの「だって、昭和8年(1933)ですもの。どうしたってそういう色合いになるわな(汗)。。」をみて、やはりそうか…と思いました。仕事で鎌倉に行った際、会社の先輩に誘われてついでに護長親王が幽閉された土牢のある鎌倉宮に行きましたが、パンフレットがメチャメチャ南朝贔屓。明治天皇が整備したらしく、宝物殿や天皇家の家紋などがある。やっぱり戦前ってそういう時代なんですね。

 それにしても新田氏と足利氏との鎌倉末の勢力争いの話が興味深いですね。新田と足利の争いが結局南北朝を引き起こしたのでしょうかね…そうおもうくらい仲が悪いのですね。鎌倉や室町初期は知識が不足していますので、勉強になります。

 また、拝謁に伺わせていただきます。まだ持ち帰りの仕事があるので、これにて・・・



<こたつ城主 2013/03/08(Fri) 14:10>

>畠山義綱さま

お忙しかったんですね(>_<)。お呼び立てしたようでスイマセンm(__)m。。
でも群馬旅行は畠山さまの金山城跡レポがキッカケでした(^^)。
夏旅行どこ行くかご質問頂いた繋がりも自分的には強かったので、「こんな旅行になりました(^。^)」ってトコ見て欲しいとは思いました(爆)。……結局行ったのは秋も終わり頃でしたが(^^;)。。

護良親王の土牢! 鎌倉にあるらしいですね! 明治天皇が整備……なるほど。南朝遺跡って霊山とか北畠神社とか東北にも多く見ましたけど、維新以後のそういう雰囲気満載です(≧▽≦)。。
今まで実はその事にそれほど違和感なかったんですが、新田一族については、地元には複雑な思いがあったんだなぁ、とこのほど思いが至りました。

南朝陣営から尊氏が孤立した直接の原因は、護良親王の過激な行動にあり、地元・関東に起きた中先代の乱への対処にも各々で動くしか無かった事情もあったでしょうし、尊氏を主役にしたドラマでは、何しろ全員が敵ですから、やって来た順に片付ける話に陥りがちで(笑)、新田×足利の激しい論争など取り上げないのでしょうが……(^_^;)。。

>新田と足利の争いが結局南北朝を引き起こしたのでしょうかね…

と思うぐらい、両者の理論は真っ向から対立してます(^_^;)。まぁ立場が「対立」に至った以上、もう腹を定めて言い合ってるにせよ↓

【足利】義貞の蜂起は徴税使殺害から逃れるためで、尊氏の六波羅制圧を知ってから朝敵追討の名分を掲げた。勝利を三度も掴めず、千寿王が下野に蜂起してやっと幕府に勝てた。
恩賞・官位を貪り、(中先代の乱で)尊氏が苦労してる時、策略により朝廷内に佞臣の讒言を横行させた。放置できないので義貞討伐を行なって欲しい。

【新田】尊氏は日和見で、河内の名超高家の討死をきっかけに天皇方に寝返っただけ。義貞の挙兵は05/08、尊氏は05/07、六波羅での尊氏勝利など知らない。千寿王の参陣も取るに足らない。
尊氏は六波羅の制圧後、京の法禁を占断し、護良親王の従者を殺害し、鎌倉府の成良親王にも専横の無礼を働き、中先代の乱で坂東八国の管領を賜った後、天皇の命を用いない。功績の高い護良親王を種々の讒言で流刑に陥れ、拘禁して殺害した。

私も折を見て、また伺わせて頂きますネ(^^ゞ。お忙しい中ありがとうございましたm(__)m。



<北畠具顕さま 2013/03/10(Sun) 13:36>

久々に登場しました。

前のパソコンが壊れてからしばらくネットとは離れていたのですが、やっと環境が整いました。

まぁ、問題があるにはあるのですがね・・・

新田義貞でしたね。
岩松氏などはなかなか弱小勢力で目が離せないものがありますね。



<こたつ城主 2013/03/10(Sun) 23:47>

>北畠具顕さま

おおっ(゚.゚)? ちょっとお久し振りですよね!
パソコン壊れちゃいましたか(>_<)。ウチも亭主のが壊れてだいぶ経ちます。忙しい合間に面倒見るので、なかなか復旧がね〜〜。

はい、新田義貞と新田氏の史跡巡りを「城主のたわごと」に(^^)。
「1月」号の最後から始まり、今回(2月)号はいっぱい載せたので、北畠具顕さまも是非ご覧下さい(^O^)!
岩松氏はウチの方、手賀沼周辺のレポした折、相馬氏から岩松氏に嫁入りした女性によって、岩松氏の所領となった経緯を書いた事があり、千葉も少し関係あるのです☆ミ
2008年12月<六所神社(柳戸砦跡)> 内:http://kotatu.jp/hyo/tawagoto/2008/12.htm#m



<畠山義綱さま 2013/03/11(Mon) 22:06>

>こたつ城主様
>両者の理論は真っ向から対立してます(^_^;)。まぁ立場が「対立」に至った以上、もう腹を定めて言い合ってるにせよこたつ様が書いたものを見ると、ものの見事にがっぷりと言い合っていますね。後醍醐天皇は、足利と新田の対立を知って武士の団結を防ぐのに利用しようとしたのか…そんな勘繰りもしたくなります。だとしても結果的に、対立が対立を生み、南北朝の内乱で激動の時代になってしまうのですが…。

>結局行ったのは秋も終わり頃でしたが(^^;)。。
こたつ様は本当に好奇心旺盛な方ですからね!今度はいづこに行かれますか?そういえばちょくちょく八王子まで来られるご様子で。八王子城もガイダンス施設ができ、2月に御主殿の平面展示が完成したはずです。なかなか見どころが多いです!千葉ではどの史跡が最近は熱い(笑)ですか?



<こたつ城主 2013/03/12(Tue) 17:07>

題名:現在更新状況

「城主のたわごと」2013年2月
を上げております。宜しゅうご覧下さいませ(^^)。

※ 過去更新状況
01/23「城主のたわごと」2013年1月
他、詳しくは「更新歴」を


>畠山義綱さま

>>こたつ城主様
>>両者の理論は真っ向から対立してます(^_^;)。まぁ立場が
>>「対立」に至った以上、もう腹を定めて言い合ってるにせよ
>
>こたつ様が書いたものを見ると、ものの見事にがっぷりと言い
>合っていますね。後醍醐天皇は、足利と新田の対立を知って
>武士の団結を防ぐのに利用しようとしたのか…そんな勘繰りも
>したくなります。だとしても結果的に、対立が対立を生み、
>南北朝の内乱で激動の時代になってしまうのですが…。

確かに本来なら、新政(親政)が両者を調停すべきですよね(^_^;)。興味深いのは、今回の「たわごと」にも書いた通り、鎌倉討伐の軍忠状を新田・足利のどちらに出すかで多くが右往左往し、中には両氏ともに提出した武士もいた点です。自分らで幕府を滅ぼしておきながら、その戦攻を認める組織はこれまで通り、当然必要だと思ってるわけです(笑)。 ところが発足された建武の新政府は、そもそも武士を軽視……と、この意識の開きで、何も起きないわけないです(^^;)。。両氏の相克は動乱初期の大きな起爆剤には違いないけど、義貞の生存は僅か五年。長い動乱の原動力は、やはり新政への武士らの不満が大きいと思います。

多摩と千葉……個人的には多摩にも将門伝承の地がいっぱいあるのが気になってます(笑)!
 
     

     
  <Syoさま 2013/03/25(Mon) 09:21>

こたつ城主さま、ご無沙汰いたしておりました。
ご亭主殿共々にご健勝でお過ごしのことと存じます。
ようやく多忙期を抜け、少し時間が穏やかに流れ出したのですが・・・
探訪コラムの作成が随分と滞っておりました。(^^ゞ
一気に4コラムを急ぎアップした次第でございます。。。
こたつさま程、手を加えませぬ故に一気が可能なのでしょう(^^ゞ爆

さて、<2013年・城主のたわごと2月>拝読させていただきました。
毎度ながら、写真や図解など丁寧に作成されており感服いたしまする。
当然、文章も読み応えがありますので何度か読ませていただかないと、感想が書けないほどの大作ですね。(^^ゞ

「上下毛編」第2弾は新田義貞がメインですね。
このお方の像は刀を拝している姿が多いのですか・・ こちらでは、楠正成親子の石像(桜井駅跡)がわずかに存在するのですが、新田さんは見かけたことがありませんから、とっても新鮮でございます。
ただ、首塚やら墓と言われる嵯峨野・滝口寺があります。

新田義貞は、足利尊氏と戦って敗れ、越前(福井県)に逃れる途中、勾当内侍を今堅田に残しました。延元3年(1338年)7月2日、内侍は、義貞が藤島の戦いで討ち死にした事を伝え聞き、京都嵯峨野に草庵を構えて義貞の菩提を弔いながら余生を送ったと記されております。

また、近江の今堅田に残る伝承では、今堅田に留まっていた勾当内侍が義貞が討ち死にした事を知伝え聞き、悲しみのあまり琵琶湖琴ケ浜に身投げをしたとも伝えております。

新田さん、こちらでは伝承が薄いのですが、さすが関東では色濃く足跡も残り、神格化され家康の祖先でもあるのですね。
こたつさんの源氏・新田・徳川家系図とっても勉強になりました。
とどのつまりは、武家は清和源氏と桓武平氏に大別されるのでしょうね。

世良田東照宮
御由緒もすごいですね。
「お江戸みたけりゃ世良田へござれ」と謳われたのも凄い。
東照宮と名乗っているので徳川ゆかりと一目瞭然。(^▽^;)
>家康の最初の墓標として建てられた多宝塔も、先ほど話した通り、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年まで豪華な姿をとどめていた。
現存していたら素晴らしいでしょうに、残念至極ですね。

鎌倉は、平氏と源氏そして後白河法皇
室町は、足利と新田、楠木そして後醍醐天皇
それぞれの時代の変革期には武家と朝廷が複雑に絡み合っていますね。
結局武力だけでなく、智力など政治力も兼ね備えたものが天下を制しては遂に滅んでいくという諸行無常の絶対の法則なのだと思います。

最後は、神格化され石仏や石碑となって祀られて後世へ伝承されていくのですね・・・。
こたつさまのコラムを拝読させていただき、事細かに写真や解説などから、そんなこと感じております。(^^ゞ

しかし、新田義貞の墓所は各所にあるようで
ほんとはどこなのでしょうね・・戦死した辺りが本星だと思いますが・・・偉い人は、あっちこっちに墓の伝承があるのでこれも・・歴史はロマンってことで 一件落着?!(^^ゞ爆 今回も大変読み応えがあり、脳みそが満タンになりました。(^^ゞ爆

最後に、向かい風が強くこたつ城へ登城が遅くなり申し訳ございませんでした。苦しい弁解ですが・・平にご容赦を(^^ゞ



<こたつ城主 2013/03/25(Mon) 23:11>

>Syoさま

Syoさま、やっと多忙期を抜け出られたのですね〜!良かったぁ(^_^A)。
こたつも「来てねっ、そろそろ来てねぇぇ〜\(>o<)/!」と思ってた所です(爆)。
コラムアップもお疲れ様でした。さぁさ、お茶でも>( ^^) _旦~~
いえいえ、こたつに負けず劣らずタップリ散策あそばされ、手抜きどころか、時折、命がけっぽいコースもあったりで(笑)、ネタもさぞ溜まっておられる事でしょう。

「城主のたわごと2月」ありがとうございました(^O^)!<待ってました!
はい! 今回はわりと頑張りました!
そうですね〜。Syo様も仰せの通り、新田義貞は、西に行けば楠木正成に人気負けしてますし(笑)、北陸に行けば木曽義仲や戦国期の話題に紛れがちですし、肝心の鎌倉の活躍はと言うと……何と言っても鎌倉は関東の古都ですから、他にもいっぱい史跡があるわ、中でもやっぱメインは源氏三代や前後北条氏の歴史だわで、そこを滅ぼした武将ってんで、若干、心象ナナメになりがちで(^^;)、そんなこんなで、意外と語れる史跡が限られている武将と言えるかもしれません。

楠木正成とは同じ南朝側なんですが、「得川義季の墓所」でも書いた通り、足利尊氏との和睦を巡っては、義貞の「断固戦うべし」とは、むしろ正反対の意見であったろうと思いますので、尚更そちらでお耳にされる事は少ないかと思います。
が、一応、湊川の戦いではともに足利尊氏と戦っているのです(^^;)。。湊川の戦いの史跡巡りなどで、新田義貞の名など出そうものなら、現地でどんな目に遭うか(^^;;;;;)。。。

仰せの滝口寺の首塚というのは、それより後の、義貞の首のようですね。私も今検索にて知りました。
私は南北朝や太平記には長年疎く、勾当内侍の名を、その色香に溺れて義貞が戦機を逸した悪女か「傾城の美女」的にイメージしてた時期がありまして、大河「太平記」を見て「そんな悪い女じゃなさそうジャン(゚.゚)?」と思ったのを、よく覚えております。

その大河「太平記」も、義貞死後の勾当内侍は描かなかったですが、ドラマの勾当内侍は、仰せの嵯峨野や今堅田の伝説に近いヒロイン像だったように思いますので、そうした伝説を踏まえて演出されていたのかもしれませんね。良いお話をお伺い致しました(^^)。

関東も新田の郷でしか語れないと踏んで、今回は私も猛勉強致しまして……
〃〃〃〃〃φ(。。)m<シュタタタタタッッッ
源氏・新田・徳川の事を調べて書きました。自分でも文に書いておかないと、後になる程忘れそうな気がするからです(爆爆爆)。
きっと後日、自分でも自分の書いた物を読んで「おおっ!そうであったか!」と思うのでありましょう(大笑)。



<こたつ城主 2013/03/25(Mon) 23:13>

>Syoさま、2(続き)

何しろ「徳川の祖が怪しい」ゲな話は、耳にタコってぐらい各種に渡って聞いてますが(^_^A)、肝心カナメの平安期から室町期までの「得川氏」の事は、これまでちゃんと調べてみようとすらした事はありませんでしたから(=^m^=)

>「お江戸みたけりゃ世良田へござれ」
いや、もう世良田東照宮は、行ってみて「ふぅ〜ん(゚.゚)」と思いました!
子供の頃から関東人の私も、関東にはもう長く住んでる亭主も、二人して「こんなトコがあったんだねー!」の連続でした。
江戸から遠い、幾つも山を隔てた上野国に、忽然とあの江戸情緒は、何とも不思議です(笑)。

>>家康の最初の墓標として建てられた多宝塔も、先ほど話した通り、
>>本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年まで豪華な姿をとどめていた。
>
>現存していたら素晴らしいでしょうに、残念至極ですね。
これは本当にそう思います! 実は買った本には「復元図」というのが載ってるで、スキャンしてレポに載せたいぐらいですが、著作権もありましょうし……再建は出来ないのかと思います(>_<)。。

>鎌倉は、平氏と源氏そして後白河法皇
>室町は、足利と新田、楠木そして後醍醐天皇
今回、同じような事を私も考えました。きっと南北朝時代の人は多かれ少なかれ、源平合戦の頃の登場人物をイメージしたと思います。以仁王と護良親王とか。

>結局武力だけでなく、智力など政治力も兼ね備えたものが天下を制しては
これも、そう強くイメージすればこそ、二頭政治やら観応の擾乱への確執を生んだのかもしれませんしね。。

新田義貞の墓所については、今ちょうど次のレポ製作で格闘中です(笑)!
今回(2月号)の最後で、「利根川流域で、伝承の墓とされる場所があるっぽいのを見付けはしたけど」と書きましたが、どうもこれは「新田義重(七代前)」のようでした(^_^;)ゞ
長レポ最後までお読み頂いて、ありがとうございます(;_;)。。

はいはい、スゴイ風の時がありますよ!そんな中をお越し感謝致します!
今年はナント、近畿より関東の方が桜がう〜んと早いようです。
東京は飛び抜けて開花が早かったようで、その近辺がついで早まってますが、桜の間は強風は勘弁願いたいですね(^。^)。
 
     



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