<掲示板・議事録>


     
  「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話


<こたつ城主 2008/12/15(Mon) 16:45>

題名:「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話

↑アップしました〜。「作品の広場」に入ってます♪

「将門雑記(風と雲と虹と)」40〜46話・関連事項
「城主のたわごと10月」<筑波山中〜羽鳥(服織)〜湯袋(弓袋)>以降
(<石岡市「常陸国府跡」>より後の分は、次回「将門雑記」の時に又リンクします〜)

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11/22「城主のたわごと」2008年11月
11/15「作品の広場」の「将門雑記(風と雲と虹と)」34〜39話
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<林 光明さま 2008/12/23(Tue) 22:03>

どうも、お久しぶりです。「将門雑記」拝見しました。

>将門を離れて見ても、この後の武蔵国の出来事は、この当時、その前の状況と変わって、何が起こりつつあったかを知る手掛かりになるのだそうです。

これは私もそう思いました。何かが起こりつつある、そんな感じです。
坂東において、国司に権限が集中しつつあって、在地と遊離し始めたのかな、なんて思いました。

>「掌入八國且腰附萬民」

この部分は、お説の通り「万民を思い通りにするって意味」もあるかと思いますが、時の政府が万民を虐げているからこそ、自分が守ってやる、という意味にも取れるかと思うんですが、如何でしょうか?難しいところですが…

将門の乱の場合、前半と後半が全然性格が違っているような思いがありましたが、このあたり、当時の坂東の置かれた状況を考えると、その性格が違っているのもわかるような気がするんです。
ちょっと、読み取りすぎでしょうか(笑)



<こたつ城主 2008/12/24(Wed) 18:13>

>林 光明さま

「将門雑記」ありがとうございます!……今回は長文でした(爆)。
ドラマでは最終段がチョットなので、タカを括ってたら、やっぱこの辺りポイント多くて、スンゲェ長文になってしまい( ̄∇ ̄;)。。<スイマセン

将門のいた900年代は、その前と違って、史書編纂が途絶える時期……つまり史料的に「闇の時代」であるらしく(^_^;)、その後の流れへの最初の重要ポイントに「将門の乱」があるので、「将門記」後半への流れにも掛かる「武蔵国の紛争」には、地方史を超えて注目が集まるのかもしれません。

特に国司と郡司の立場に関わる制度変換が、その後の荘園制への転換期とも合致する見方があり、仰せの如く、在地との遊離……つまり権門へのパワー集中って事ですよね(^^ゞ。

>時の政府が万民を虐げているからこそ、自分が守ってやる

なるほど(゚.゚)、そういう文脈としてなら原文にも辿れます。そもそも叛逆に至った、まさに「藤原玄明を匿う段」においてなので、根拠としても充分に繋げうると思います。

原:将門素済侘人而述気顧無便者而託力
下:将門ハ素ヨリ侘人ヲ済ケテ気ヲ述ブ、便リ無キ者ヲ顧ミテ力ヲ託(ツ)ク

「素ヨリ」は「将門の元来の性格」みたく見るとして、「侘人」や「便リ無キ者」を、「当時の圧政による被害者」とまで言うには及ばないまでも、彼らに対して「(強きをくじき)弱きを助ける性格」って事には変わりないと思います。

また後の(主に弱い立場の)人達が将門を神格視した根拠も、思うにこの一文に寄る所が大きいのではないかと思います。
時の政府や権力を敵と見立てるまでは至らないまでも、「弱った自分を助けてくれる英雄」となれば、大勢が「助けて助けて」と祈りたくなるのも無理ありませんもの。。

ここを「頼られたら断れない性格」程度に留めず、踏み込んで「行動の全ての原理」を当てはめれば、叛逆にせよ、主体性・積極性に強く結び付くと思います。

>ちょっと、読み取りすぎでしょうか(笑)

いえ、助かりました。あまり文が長くなったので、いつとは無しに欠いてた部分でした(^^ゞ。後日、補足に加えたいと思います〜♪
 
     

     
  「城主のたわごと」2008-12(下総2手賀沼南岸1)、1


<こたつ城主 2008/12/26(Fri) 20:18>

題名:「城主のたわごと」2008年12月

↑アップしました〜宜しくお願いします(^^)。
明日と明後日どっちかおらぬやもしれませぬ〜。

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<北畠具顕さま 2009/01/01(Thu) 06:59>

謹賀新年。
本年もあい変わりませず。

たわごと読了。

蓮池・・・レンコン食べられるとは思いますが、ハスが見られなくなると思います。

それと森を見たら神社、丘を見たら城は日本人なら固有の認識だと思います(爆)
田園に森があると、つい神社かな?と言ってみますが大概里山です(笑)。

それはともかく上総氏って本当に頼朝にどやされたイメージしかないですね。
・・・・今回は兄弟デュオかと思いましたよ(笑)



<YORIさま 2009/01/01(Thu) 17:43>

こたつさん、新年明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になりました。
今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

年末近くからバタバタして、なかなかこちらに伺えず申し訳ありませんでした(^^ゞ
こたつさんの方はどんな年末年始を過ごされていますか?(^。^)
えっ?お雑煮の餅を食べ過ぎ?(笑)

城主のたわごとのアップ、お疲れ様でした(^^♪
『香取鳥見神社(天慶の乱・伝承地)』のレポにググッと引き寄せられました(笑)(^。^)

実は12月に佐原を訪ねた時、香取神社の近くに平将門の「天慶の乱」に関連する場所があるのを初めて知りました。
そして私の住んでいる隣町の摂津川西市が佐原の姉妹都市になっている事も初めて分かったのですが…
「天慶の乱」で敵方となった源満仲が陣を置いたのが、香取神宮の傍だったんですね。
この場所は、現在「光明院」がある場所らしいんですが、満仲はこの地が摂津国多田荘(川西市)に似ている事から、「多田」と名付けたそうです(^。^)
光明院には、満仲の死後、源氏一族の手で満仲の供養塔が建立されたそうです。

香取鳥見神社は、地図を拝見すると位置的には佐原とは少し離れているようですが、こたつさんのレポートを読ませてもらって、一度訪ねてみたくなりました(^^♪

私も最近(少しだけですが^_^;)、神社に興味を持つようになりました(笑)
今年は「城+神社」で、マイペースの旅をしてみたいと一人企んでいます(笑)

それでは今年もお互いに身体に気をつけて元気に頑張りましょうネ
ご主人様にもよろしくお伝え下さい(^.^)/~~~



<こたつ城主 2009/01/01(Thu) 19:46>

>北畠具顕さま

あいな! 明けましておめでとうございます!!
アンド「城主のたわごと12月」ありがとうございます〜(^O^)。

蓮はレンコン取っても余る量かもっ。マジ湖面じゅう広がりすぎで(^^;)。。
だから後は、アレが食えるかどうかだけかな〜(←本格検討:笑)。

>田園に森があると
だいたいどの辺りの事か判ったり(笑)。
将門神社からウナギ屋の辺り、ド〜ンと拓けて、遠くの小山の列が「城跡ではっ(≧▽≦)」と"激しく"感じさせるです!
印西の「阿夫利神社」も、どことなく遺構っぽくて(笑)、こういう地元民の妄想が「伝説」で済む内はいいですが、だいたいこの辺の城跡をざっと仕分けると……、

保存状態の良し悪しはあるが、城跡公園として市民の場になっている:3割
民間人や企業の敷地だったり、密林や湿地がヤバくて入れない:3割
開発・整地されて遺構のカケラも無い:3割
遺構の一部が残存放置されてるか、史料と照合できない謎の城跡:1割

↑最後のなんか、入り込んで「遺構」を作った人が居たかい?と疑ったり(笑)。

上総氏、意外と知ってる人が居るんですね(^^ゞ。(もうどこまでがローカル・ネタか、自分でも判らなくなってたり:笑)。
千葉常胤がひたすらケナゲな忠臣っぽく描かれるのと対照的に、頼朝に対して生意気な発言とか残ってはいて、「どやされたから従う気になった」というのも、どっか地方豪族の傲慢さっぽく見えなくはないんですが、上総氏は千葉氏と違って、義朝にくっついて平治の乱に出て一緒に負けてる気が(^_^;)。
それが来るのが遅かったってだけでどやされるんだから、ちょっと可愛そうな気も(笑)。



<こたつ城主 2009/01/01(Thu) 19:47>

>YORIさま

明けましておめでとうございます!!
こちらこそ今年も宜しくお願いします〜♪

例年通りなんですが(笑)、やっぱ年末は大ワラワでしたっ(>_<)。。
結局、年越して真夜中まで大掃除してたり(^^;)。。
今日は打って変わって、朝から(殆ど昼近かったが:爆)お雑煮とかお屠蘇とかやってます(笑)。これから夜も食べるんだぁ〜(#^.^#)。

「城主のたわごと12月」ありがとうございます(^O^)。
香取鳥見神社は、結構頑張って書いたので嬉しいです〜!!

香取神社の近くの「光明院」ですかっ。おお〜! じゃこたつも行ってみます!
その満仲の供養塔、発見できました?(行けば判るのかなぁ)

>香取鳥見神社は、地図を拝見すると位置的には佐原とは少し離れているようですが、

ちょっと入り組んだ話で恐縮ですが(^^ゞ、千葉県を利根川から北に越えると、今は茨城県に入りますが、昔は下総(西)と常陸(東)に分かれてるんです。 常陸はだいたい貞盛の勢力が張ってます。

一方の千葉県側ですが、「将門記」だと、その貞盛と連合軍を組んでた良兼が参戦する頃に、チョコッと「神崎から出航」と書かれてるだけなんですが(^_^;)、このルートは、その後の平忠常の乱でも取り沙汰されるルートかな〜と思うのと、将門を調伏したという成田山(新勝寺)も、どっちかと言うとそっちの勢力圏ではないかと。

良兼側の勢力も上総(東)から下総(西)を圧迫する立場なので、そこに何らか勢力をおびき寄せる事は(実際にあったかどうかはともかく(^^ゞ)、在ってもおかしくないと思います〜♪
それと、伝えられる生年の通りだと、満仲は天慶の乱の頃には充分に戦働きの出来る年齢ですものね。

満仲の子には有名な頼光(摂津流の祖)の他、頼親(大和流の祖)と頼信(河内流の祖)がいて、頼信の河内流から、後に八幡太郎義家や頼朝に繋がる流れが出ますが、この頼信が「平忠常の乱」の平定者であると同時に、平忠常の主人でもあった事が、その後の前九年・後三年の役や、義朝・頼朝に、千葉氏など良文流が臣従していく流れの一つとも言われています。

はい! 今年も頑張りましょう(^O^)!
亭主も「ワンワン!」と今、答えてます〜(笑)。
 
     



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