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「城主のたわごと」2007-06〜07(松戸城址編)、2
<蒼庚斎さま 2007/07/19(Thu)
23:04>
小田原周辺で出ている障子堀の障子(畝の部分)は、小田原城大外郭のような超大型の例外をのぞいて、多くは頂点がシャープなものだと思います。山中城の障子も公園化にあたって芝土がカバーしていますが、同様だったかと。
山中城の障子堀が代表的に認知されるようになったことから、堀内障子(障壁)イコール防戦用と捉えられがちですが、かなりケースバイケースだと思いますよ。
堀に使用されている粘土層というのは、赤土(ローム)ですよね。硬くしまることから、版築土塁や堀の法面に使用されていたようです。中国の黄土と似た使われ方でしょうかね(笑)。
ともかく、大谷口城は一度実見して色々想像をめぐらせてみたいものです。
守屋相馬氏、そういえば自分の母方実家のお寺に小田原藩の相馬家のお墓が幾つかありますよ。細かい事は調べてませんが、確か守屋からの流れだったような。
今では殆ど墓参にも来ていないような感じですが。
<こたつ城主 2007/07/20(Fri)
21:02>
>蒼庚斎さま2
>多くは頂点がシャープなもの
この「頂点」は出っ張り部分(∧)ですか底(∨)ですか(^_^;)。
山中城では確かに芝生を被ってました。ああしてあると土の綻びを根が食い止めて、形が崩れにくいようには思いました。
大谷口では保存されてる箇所がほんの一部ですし、残ってる物でも、幅は山中城みたいに畝を二段構えに造る程にはありません(^^ゞ。一段として見ても狭い感じがしますので、箱型には出来なかったかもしれませんが。
粘土層は、一般に言う関東ローム層の事じゃないかな〜と思ってますが、それの出て来る深さが、地域によって違うのかなぁ。根木内城ではそれをさらに掘り込んで∨字型の深い濠があり(今は埋め立てられ通行路が出来てますが)、いかにも侵入者への嫌がらせっぽく感じます(^_^;)。。
>小田原相馬氏
というのもあるんですね(^^ゞ。ハッキリ認識したのは初めてですが(笑)。
まず東北に行った一族とは早く(鎌倉期)に分かれ、残った側(一応こっちが本家だそうで(^^ゞ)は、ウチの近く増尾城から北へ北へ居城を移したようです。
増尾城→たわごと2005-10:http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2005/tawagoto-10.htm
で、柏とか我孫子を越え利根川を超えた先に守谷。もう茨城県ですが、その途中途中に相馬の城と言われる痕跡が点在してたらしいです。
守谷に行った後は安定的に地盤を保ち代を重ねたようですが、戦国期、北条氏の勢力が来て、第二次国府台合戦の後、1560年代後半ごろ、北条領となってお払い箱となり(笑)、時の当主治胤に弟の胤永という人がいて、小田原藩の祖となったようです(^^ゞ。
小田原ですから、大久保忠隣あたりと交流があったのではないかと……。
<蒼庚斎さま 2007/07/22(Sun)
19:29>
>この「頂点」は出っ張り部分(∧)ですか底(∨)ですか
スイマセン、出っ張りの方です。
ところで、大谷口の遺跡では薬研底の空堀からも障子(障壁畝)が出土しているのでしょうか?
障子を使用している箇所が限定されているのなら、それも考察の手がかりになるかもしれないですね。
小田原の相馬氏は恐らく古河公方領が北条氏に併呑される過程で縁を持ったのでしょうかね。
ちょうど先週読んでいた本で、伊達房実に関する内容の文章があったのですが、この人の夫人が相馬氏でした。
房実はもと駿河伊達氏の一族で、徳川家康の娘が北条氏直に嫁ぐときに北条氏に従った人物で、後に岩槻城主の北条氏房の付家老になったとされています。
彼が相馬氏を妻にしているのは当然、北条家臣になってからでしょうし、相馬家を相手に選んでいるのも政治的意図が働いているのでしょうから、相馬家との接点が深まった一時期ではないでしょうかね。
小田原藩の相馬家は客分扱いだったそうですが、確かに前期大久保氏の時から小田原入りしていたと思いますよ。
忠隣とも交流があったでしょうね。
ちなみに、相馬家の屋敷跡は、ここです。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.9.42.4N35.14.59.3&ZM=11
邸内に将門神社があったそうですが、今はありません。
<こたつ城主 2007/07/23(Mon)
16:59>
>蒼庚斎さま2
>薬研底の空堀
↑は大谷口城ではなく根木内城です(^^ゞ。深いV字谷ですが、障子堀や畝堀はなく、堀の深さと土塁の高さによって、施す必要が無いのだろうと思います。
根木内城の公園内部には畝堀は見られませんが、外部には、宅地か整地の前でしょう、調査によって畝堀が発見されたそうです。去年いった展示会には発掘当時の写真パネルがあったと思います。
>小田原の相馬氏は恐らく古河公方領が北条氏に併呑される過程で縁を
だいたいそういう事かと(^^ゞ。北条支配下になると、それまで荒廃を重ねながらもあった上下の組織関係などが、北条氏の下で一律化し、高城氏のような出自不明な領主も、同郷の他の領主と肩を並べてる様子が、軍役とかの資料から伺えるそうです(笑)。
伊達房実。検索しましたが……出自不明(^_^;)。伊達氏を勝手に名乗れませんから、もちろん繋がりはあるでしょうが。家康の娘の輿入れ……決裂の際に外交的な役割をしたのかな。相馬氏との関係は知りませんでした。やはり小田原落城以降て気がします。
大久保忠隣は本多正信・正純親子と対立して失脚と言われますが、両家は江戸を挟んで、小田原と……宇都宮でしたっけ、その北と南の勢力を二分してたと思います。
徳川も没落した家の再興とか配置とかを頼まれる……両頭とでも言いますか(^_^;)、派閥のドンですか。華麗なる人脈って感じでしょうか。あちこちから引っ張りダコだったと思ってます(笑)。
ご存知の通り、里見氏も大久保氏の失脚に絡んで安房を追い出され、倉吉(鳥取)に配流されましたので、千葉方面担当だったのかな。
<蒼庚斎さま 2007/08/08(Wed)
22:19>
>大谷口城ではなく根木内城・・
失礼致しました(苦笑)。
宅地造成で失われた方の畝堀はどんな形状だったのか、興味ありますね。またいつか行った折にでも図書館等で報告書を見ようかと思います。
伊達房実は確かに出自は不明のようなのですが、駿河伊達氏は南北朝時代から存在していた今川家臣です。
後に美作津山藩士になった同家の系図によれば、奥州伊達氏の庶家で、足利尊氏の命により今川氏の援軍に送られたのがそのはじめだとか。
戦国期の駿河伊達氏(後の津山藩伊達氏の祖)では、遠州高天神城の小笠原氏の下にいた伊達宗綱という人がいますが、同城が徳川から武田勝頼に落城後は武田に属し、後に北条氏規>結城秀康と仕えております。
この人の通称が与兵衛なのですが、先の伊達房実(房成)も与兵衛を称しているのですよ。
『寛政重修諸家譜』では、祖父・政充が北条氏康に仕え、父・宗春が徳川家臣で高天神城将の小笠原長忠に、そして父子で北条氏に(督姫輿入れの際に)従った、とあります。
小田原合戦の後は、旧主・氏房とともに高野山に入山しますが、その折、徳川家康に妻子の居住の自由を安堵されたとあり、後に徳川家臣となっています。
徳川家の下での知行は、最初、武蔵足立郡に250石、後に常陸鹿島郡に200石加増とあり、子孫は旗本となっているようです。
上の宗綱と房実の関係は明らかではありませんが、通称と高天神城に在城していた二点で共通しておりますので、同じ一族であった可能性はあると思います。
長くなりましたが、上の内容は先日読んだ『戦国大名駿河今川氏の研究』(長倉智恵雄・著)所収「漂白の戦国武士二人の伊達与兵衛」によるもので、当方が実際に調べた訳ではありません(笑)。
同文の初出は1983年の『地方史静岡』なので、もしかしたら新しい発表がすでになされているかもしれません。
長くなってスイマセン。
<こたつ城主 2007/08/13(Mon)
17:50>
>蒼庚斎さま
>根木内
>宅地造成で失われた方の畝堀はどんな形状だったのか、
江戸期に宿場に要する道が出来たとか、川の氾濫とかになると、長い時代の積み重ねがあったと思いますが、宅地に関しては激化したのもほんの最近なので(^_^;)、発掘調査(したものは)時の記録はわりと残ってると思います。
>伊達房実
これに絡んで、その前に、
>>やはり小田原落城以降て気がします。
と言いましたが、ごめんなさい(^_^;)、「北条氏の支配を受けた後(1560年代後半)」が正しい言い方ですよね。
この地域は北条との戦いと、その後の北条×豊臣の戦いと、二度大きな転機を迎えてるので、思わずゴッチャに喋ってました(笑)。
で、伊達家は南北朝ですか。あ〜なるほど足利尊氏の命令で。ありがちですね。 |
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