<掲示板・議事録>

「城主のたわごと」2007-05(会津〜米沢編)

     
  <林六郎光明さま 2007/05/21(Mon) 21:35>

たわごと、拝見しました。ガマの油、ちょっと欲しいですね(笑)
大昔、小学生の頃に学校の前に胡散臭いおじさんが来て、怪しげな手品をいくつかやっていたのをワクワクしながら見ていた記憶があります。
その人はガマの油を売ってはいませんでしたが、なんか、妙に通じるものがあるような気が…(笑)
もちろん、ちゃんとした商品なんでしょうが、そんな記憶を思い出しながら、欲しいなあ、と(笑)
いつか絶対買おうと思いました。

「豊木入日子」、日本書紀の「豊城入彦命」ですね。
崇神天皇が皇子たちに夢占いをさせたところ、兄の豊城入彦命が大和御諸山に登り、東に向かって槍を8回突き、刀を8回振るった夢を見た。
弟の活目命も大和御諸山に登って粟を食べる雀を追い払う夢を見た。
豊城入彦命は東方に向かっていたので東国を治めさせ、活目命は四方に臨んでいたために皇位を継がせたというお話。
この大和御諸山というのは、神の山である三輪山のことです。

この豊城入彦命、ヤマトタケルに先立つ東国平定の始祖みたいな人物ですね。



<こたつ城主 2007/05/22(Tue) 17:36>

>林六郎光明さま

「城主のたわごと」ありがとうございます(^O^)。

>胡散臭いおじさんが来て、怪しげな手品を
それですっ、素晴らしく近い物があります(≧▽≦)!
「サアサアお立会い」って程の古文調になると、私も最後は川中島古戦場で見た限りかなぁ。そこまで古いスタイルだと、今は「伝統芸能」の粋かも(^^;)。
けど、包丁を売る人とかだと今でも居るかなぁ(^^ゞ。
で、私の場合も、出会いはやはり「学校の正門前」でした(爆)。ネバネバした人形とか、砂絵とか、万華鏡っぽい「仕掛け鏡」とか売ってたような。
「ああいう仕事をしたい」とか言って、親に唖然とされた覚えも(^^;)。。

>日本書紀の「豊城入彦命」ですね
そうです。その字の方が検索ではヒット率が高いですね(^^ゞ。あ〜三輪山。なるほど。
これまでも、この人物の名に出会った事はあるのですが、ヤマトタケルと対というのは何か初めてな感じも……。
で、ヤマトタケルの東征は筑波が北限だと思いますが、実は豊城入彦がどこに到達したのかを知りません(わかります(^_^;)?)。
筑波では「たわごと」に書いた通り、筑波に先に来て、後に(民に請われて)宇都宮に移動と伝えてます。
この辺り、地域によって伝承に差があってもおかしくない気がしますので、あまり断定的な事も自論も述べませんでしたが(^^ゞ。

>この豊城入彦命、ヤマトタケルに先立つ東国平定の始祖みたいな人物ですね。
という事なんですね(^^ゞ。つまりいわゆる「毛野族」と言われる人達は、記紀で言えば相当古い時代から居たか、私の持ってる古事記には書かれてないので、日本書紀から出て来たのか……。
古事記とするサイトも出て来ますので、単に私の持ってる本に載ってないだけかな?(^^ゞ



<林六郎光明さま 2007/05/22(Tue) 21:30>

>豊城入彦がどこに到達したのか
えっと、『国史大辞典』によりますと、崇神天皇に東国を任された豊城入彦命の、孫の彦狭嶋王が東山道十五ヶ国の都督に任ぜられて、それが途中で亡くなると、さらにその子の御諸別王に東国統治が命ぜられたと日本書紀の景行天皇紀にあるそうです。
それでその子孫が上毛野氏・下毛野氏だそうです。

要は豊城入彦命の子孫が東国を司ったということで、彼はその一族の始祖とされているようですね。
『国史大辞典』には、続けて群馬県の古墳の多さと東日本最大の太田市天神山古墳について記述があり、毛野国伝説を裏打ちしていると書かれてあります。



<こたつ城主 2007/05/23(Wed) 18:15>

>林六郎光明さま

お調べ頂いてありがとうございました。m(__)m
やっぱ日本書紀ですよね(^^ゞ。どこと限定せず「東国」しか私も判らなかったですが、代々の系譜は知らなかったので助かります〜♪

>上毛野氏・下毛野氏
上野国・下野国の発祥とも言われる氏族ですよね。

>太田市天神山古墳
これも調べてる間に注目しました。かなりデカイ古代王国で、その後の分派も(付会・詐称・隠匿も含め)膨大に及ぶ感じがします(^_^;)。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/kantou_kofun2.htm
が、仰せにより改めてまた見てみた所、これも男体山と女体山なんですね〜(^_^;)。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~amada/yama-tenjinyamaota.html
日光の戦場ヶ原の伝説(後世の付会とも聞きますが)には、男体山と赤城の神獣戦が描かれますが、実はここにもいきなり「鹿島の神」ってのが登場するんです(笑)。
たわごと2005-04http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2005/tawagoto-04.htm#a
たわごと2005-04http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2005/tawagoto-04.htm#b
同じ茨城の霞ヶ浦から、鹿島は東、筑波は西という近さで、筑波あたりには小田氏という宇都宮氏の同族(いわゆる毛野族)の城跡もあるので、それでかな〜と取り合えず思ってみたんですが(^^ゞ。



<林六郎光明さま 2007/05/27(Sun) 16:31>

>男体山と女体山
陰陽ではないですが、この「対」という発想は似てますね。
あと、ちょっと違うかもしれませんが、関東の場合、対となる国名が「上下」となっているのも面白いですね。
「上総」「下総」と「上野」「下野」です。
我がコシの国は「越前」「越中」「越後」、吉備の国も「備前」「備中」「備後」、筑紫の国の「筑前」「筑後」とか、おそらく歴史的な背景があるのでしょうね。



<たみいさま 2007/05/27(Sun) 22:07>

感想、第3段、(だったかな?)。

>真里谷城は、この地図で言うと右端の下あたり、「少年自然の家」
>という所にあるらしい。これはネット情報でも、わりとアチコチで出て来る(^^ゞ。

はい、全く別の件で検索していたところ、関連が出て来ました。
「上部(北)が武田氏、右(東)の丘陵部が里見氏〜近世の城郭、左下(西)が近世の三の丸・外郭・水濠である。」、と言う具合にね。

地理、地図は苦手なので、見ても分かりませんでしたけど、(^_^;)。
又々、偶然にも、奇しくも、禅秀の乱の短編を読んで、その辺りの事を、「おさらい」、したばかりでした。

武田は、信玄、信虎、以前の方がドラマチックな気がします。
武田信重の姉か妹が禅秀夫人だったのですね。。
禅秀は勿論の事、この信重、信長兄弟や、足利持氏が出るドラマを見たい気になりますね。 持氏役にはウンと憎たらしい俳優を、(^_^;)。

これで、こたつ様は、武田信重の墓も、信興の墓にも参られた訳で、まことに宜しゅう御座いました、お羨ましい。
 
     

     
  <こたつ城主 2007/05/28(Mon) 16:34>

>林六郎光明さま

国名については、よく「都(京)に近いか遠いかで決まる」と言うけど、「じゃなぜ"上下"と"前後"の違いがあるの? 二つだと上下で、三つだと前後(゚.゚)?」と思ってました。(笑)

今回の「男体山と女体山」とくっつけて考えてませんでしたが(^^ゞ、国名の起こりは、字で綴られた物が残ってる時代より起源が古い気がするので、もし「男女の山」みたいな信仰(というのか)や地名が、後世の付会でなく本当にかなり古い物であったとするなら、陰陽とは関係があるかもしれませんね。

陰陽の二大要素は「男女」で(三大要素なら「天中地」)、立ち上る「気」を男性に、降りる「気」を女性に見立て、気が合わさる事をもって有益と見るので、「上下」という概念は核になる部分だと思います。
これは「易」に現れますが、易の起源がまた古いですからね〜(^^ゞ。


>たみい様

「城主のたわごと」第三段ありがとうございます(^O^)。

>「上部(北)が武田氏、右(東)の丘陵部が里見氏〜近世の城郭、
>左下(西)が近世の三の丸・外郭・水濠である。」、と言う具合にね。

φ(。。)mメモメモ。ありがとうございます〜。
行ってみて、これは私より亭主の方が言ってたんですけど、千葉県のど真ん中にこんな山岳地域があったのか?という印象で、亭主は真里谷城に行けなかった事を残念がって、その後もリベンジに燃えてます(笑)。

千葉県では千葉氏(平氏)の本流・支流の勢力が全域に及び、わずかに安房に里見氏が入り込んだものの、上総武田氏が基盤を作る余地はなかったので手をつけられてない山城の開発で根を張った、と書かれる物も見掛けます(同じようなので、他に酒井氏というのもあるにはあるんですが(^^ゞ)。

>禅秀の乱
関東ではやはり、この辺りが乱の初端なんですよね(^^ゞ。
ただ、その後の乱の中ではポツンと飛んで前の時代で、例えば大河ドラマで描くとなると、主人公が死ぬ頃ようやく楽しくなって来そう(笑)なので、「父の時代にこんな事があった」と主役に話させる登場のさせ方がいいかな〜と。

>武田信重の姉か妹が禅秀夫人だったのですね。。
そうです。全史的に見れば「(信重と信長の父)信満の娘」と書かれ、それで正しく、充分なんですが、千葉県に来た系譜と伝わる物の中には、信重の系譜か信長の系譜かハッキリしない物もあるんです(^_^;)。

だからそこを「信満の系譜」としてしまうと「要するにみんな同族」で終わってしまうので(笑)、私はなるべく「信重」からコトを書こうと気を付けてしまいます。

あと禅秀について言えば、実は禅秀の娘が千葉胤直に嫁いでるようです。
この千葉胤直というのは、馬加氏が千葉氏を襲った時に自刃した人です。その子の胤宣も父とともに自刃してますが、もしかしたら胤宣は禅秀の娘の子(禅秀の孫)なのかもしれません。

武田信玄の時代になると、親である信虎の基盤を引き継いだだけですから、「そこからドンドン領土を広げる」といった面白さ(?)はあるのかもしれませんが、判りきってる事をこねくり廻す以外にドラマはないですね(笑)。



<たみいさま 2007/05/28(Mon) 20:45>

>あと禅秀について言えば、実は禅秀の娘が千葉胤直に嫁いでるようです。

禅秀って、子沢山だったのね。その短編によれば、
末娘が足利持継、(四代義持の異腹の弟)、に嫁いで居て、嫡男を上げていた。これが又、禅秀には一つの動機となったと。。

義継:親がこの子をメチャ可愛がって、兄弟の相克が生じた、
よくある事だよねぇ。
義満も親、禅秀も親。。

>判りきってる事をこねくり廻す以外にドラマはないですね(笑)。

ええ、風林火山、ここ2〜3回、くどいです、(^_^;)。



<こたつ城主 2007/05/29(Tue) 18:21>

>たみい様

禅秀の犬懸上杉氏になると、残念ながら系図を知りません(^_^;)。
前回述べた「千葉胤直の妻」も、「胤直の父、兼胤の妻」とする記述も見掛けました。どっちかが誤りか、父子ともに娘を嫁がせたのか、変化球で「父子で同じ女を……」という想像まで交えると、それだけでドラマです(笑)。

>末娘が足利持継、(四代義持の異腹の弟)、に嫁いで居て、
>嫡男を上げていた。これが又、禅秀には一つの動機となったと。。
いや〜初耳です。まず4代義持の弟は、6代義教しか知らないです。「一つの動機」というのは鎌倉公方家に擁立とか?(^_^;)

>義継:親がこの子をメチャ可愛がって、兄弟の相克が生じた、
スイマセン。この「義継」というのはどこから出て来たんでしょう(^_^;)。。誰と誰が相克なのか、ちょっとお話が見えなかったのですが。

>ええ、風林火山、ここ2〜3回、くどいです、(^_^;)。
7週離され3週まで追い付きましたが、その時点で充分にくどいと言いますか……。
毎回作戦が決まってから、勘助が人を騙すために虚言……という事かと思うんですが、元々複雑な話なら楽しめるんですが、なるようにしかならない話を無意味に複雑にしてる感じがします(^_^;)。。
あれはむしろ主要人物をじっくり描くべき話でしょうに、肝心の人間描写については、人が言葉で説明して片付けるって遣り方も(汗)。。



<たみいさま 2007/05/29(Tue) 23:17>

すいません、脳内混線、(断線)、してるもんで、人に分かる書き方が出来なくなってますわ・・(ーー;)。

犬懸上杉氏の始まりは、多分、禅秀の祖父、(or、祖父の代の者)、だったろうと思われます(年代的に)。
その者が、最初の関東管領である足利基氏、(尊氏の子)、の執事に就任しました。
山内上杉氏は、この傍系だと思います、(思うだけ)、(^_^;)。

異腹弟:
>いや〜初耳です。まず4代義持の弟は、6代義教しか知らないです。

義継、←間違い、義嗣でした。<(_ _)>。
義満には、10人近い息子が居たように思います。

アンチ足利持氏は、禅秀だけじゃ無かったわけで、北畠、六角モロモロ、あとは良く分からない、(^_^;)、禅秀が腰を上げるのを期待しておった、と言う事でしょうか。

>「一つの動機」というのは鎌倉公方家に擁立とか?(^_^;)

いえ、禅秀にしたら、娘ムコが、それこそ、足利宗家を継ぐ可能性もあったからでしょう。 
この時、鎌倉の、「執事揉め」、ばかりじゃなかったわけで、4代義持には既に5代目も生まれていたのに、大御所様は、お気に入りの義嗣を将軍にと思っていたフシがある。

相克は、つまり義持と義嗣です。義満は、後継者以外の息子は、全て寺に入れたんだけども、この子だけは寺から呼び戻して、手元に置いた。
しかし、大御所の死後、やっぱり義持に討たれました。

それから○年、6代義教は、鎌倉の持氏討伐に乗り出す、その総大将になったのが禅秀の3男だそうであります。



<こたつ城主 2007/05/30(Wed) 18:13>

>たみい様

>義継、←間違い、義嗣でした。<(_ _)>。
あ〜居ます居ます。ただ普通、系図と言うと、
「義満――義嗣」と書かれる所を、どういうわけがあるんでしょう、
「義満  義嗣」こうなってるんです(^_^;)。父子の間を繋ぐ線が無い。
他の兄弟(4代義持、6代義教)は義満と「――」で繋がってるのに「義嗣」だけがポツンと空き地に……単なる誤植か、何か疑問点(子ではなく弟とか)でもあるのか(^^;)。

>義満には、10人近い息子が居たように思います。
30人ぐらい居て不思議じゃない感じもします(爆)。イヤ何(^^ゞ印象で。
ただ思うに、子供が他に沢山いても、この人だけ系図に名が載ってるのは、やはり特別なんでしょう。

>後継者以外の息子は、全て寺に入れたんだけども、
>この子だけは寺から呼び戻して、手元に置いた。
なるほど、なるほど。義満が4代義持とソリが合わないか何かで、他の人を持ち出して……とかいう事件(?)があったのは知ってました(^^ゞ。
ただてっきり「義教(6代)」の事だと、いつの間にか取り替えてました(爆)。
一度廃立されて復活したのかと(とんだ勘違い)。
違いますね義教は籤で決まったんだ確か(笑)。という事は、

>禅秀にしたら、娘ムコが、それこそ、足利宗家を継ぐ可能性
という事ですね。折に触れて学習しておくと、後で重宝すると思うです。ありがとうございました。あと、その短編の題名を教えて下さい。

で、検索してみましたが、天皇に就けようとされた人なんですね。
(それでかなぁ、空白にされちゃってるワケは(^^;))

>山内上杉氏は、この傍系だと思います、(思うだけ)、(^_^;)。
そう大きく違ってないんじゃないでしょうか(^^ゞ。
 
     



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