<掲示板・議事録>


     
  高田屋嘉兵衛


<たみいさま [東海] 2005/08/25(Thu) 07:56>

昨夜の、「歴うご」、は高田屋かへい(漢字で書けない)でしたね。この度、めでたく、紀伊国屋ぶんざえもん、大黒屋こうだゆう、との区別が明確になりました。(爆)(恥)。

それにしても、カムチャッカに連行されて、強制労働中に、僅か2ヶ月ほどでロシア語を覚え、ロシア政府の文書まで理解出来たとは・・ウソとしか思えない。
語学留学でもこうは行くまい。
印象に残ったのは、その事だけでした。(^^;)。



<こたつ城主 [関東] 2005/08/25(Thu) 20:20>

>たみい様

昨日は「歴うご」つけながら、やっと「たわごと」の写真と格闘開始しました。
そうそう、ちょっと涼しくなりましたかね。PCも動きがやや軽快になりました(^^ゞ。
なもんで、残念ながら殆ど見てません〜〜〜。
しかし大黒屋だったかな。ロシアに連れて行かれてロシア語を覚えてしまった、という話は、何やら有名な話なのか、私もやっぱNHKで前に見た事あった気がします。
語学か〜〜〜歯医者とどっちが苦手かなぁ(それどーゆー比較?(^^;))。
 
     

     
  天正伊賀の乱、1


<山城甚伍さま [近畿] 2005/08/26(Fri) 14:00>

こたつさん、歯痛は辛いですね、早く治して下さい。
旅行はプランを練るのが楽しいのですよね。

私の専門(?)はハンドル名の如く、「山城専門」なのです。
伊賀の城は丘城や平山城が多くて、専門領域を外れてしまうのです。
で、信長公記、伊乱記、勢洲軍記などの古い文献の記述に妄想をたくましくして、実際に訪れた城砦レポをからませて「天正伊賀の乱」というくくりで迫れたらと思うのですが、何時になることやら・。

私の好きな、良くできているHPです↓
http://www.e-net.or.jp/user/taimatsu/iganoran/index.html

しかし、「乱」なんて勝った方の見方で、侵略戦争なんですけどね。
アメリカとイラクみたいなもんです。
 双方言い分がありますが、「勝ちゃあ良いのかよゥ」と、敗者、弱者は言います。

三重県の城や歴史など、大阪府立図書館の蔵書検索でヒットしない本が、伊賀市や名張市の図書館蔵書検索で数多くヒットするのです。
さすがに地元です、城巡りと併せて行ってみます。



<こたつ城主 [関東] 2005/08/27(Sat) 07:58>

>山城甚伍さま

歯は今の所、覚悟してた程ヒドイ事にならず、少しホッとしてます(^^ゞ。
ご心配ありがとうございます。

言われてみれば、伊賀に「堅牢なる天然の要塞」みたいな城を聞きませんね。写真だと、発掘や整備の手が入ってないだけで放置されてるのか、小さいのか平山城なのか、ちょっと見抜きにくいですけどね(^_^;)。。
でも平城が多いんですね。そういう所から「体技に優れていた」という想像も編み出されるのかな。

>信長公記、伊乱記、勢洲軍記などの古い文献の記述に妄想をたく
>ましくして、実際に訪れた城砦レポをからませて「天正伊賀の乱」
>というくくりで迫れたらと思うのですが、何時になることやら・。

是非(^^)。
城砦レポだけだと、想像するに、わりと「ボソボソした感じ」になるかな〜なんて(^^ゞ。
だから物語風の括りを期待しております。

お薦めのURL、ありがとうございました。
「天正伊賀の乱」を悲しいほど知らないです(^_^;)。北畠信雄や滝川三郎兵衛の名に通じていたのは、こちらに来て下さる北畠具顕さまからたまにお聞きするからなんです。

地名に疎いので、一次と二次の違いが判りませんが、一次から二次に移る途中で攻め口が違ってるのかしら。
と言うのは、二次に「甲賀口」とあって、地図を見ると近江瀬田城からの攻軍に「多羅尾」という名が見えますが、この名は甲賀53家にあったような……。「玉滝口」というのも甲賀からのルートのようで。



<北畠具顕さま [関東] 2005/08/30(Tue) 23:53>

久々にこれたら名前が出てたので(笑)

「天正伊賀の乱」について。
第一次は伊賀併呑を狙う北畠信雄が滝川三郎兵衛を派遣して丸山城(具教卿が伊賀を治めるために作ったといわれてますが)を修復。それに刺激された伊賀衆に攻められ落城。報復に出た信雄(信長に無断で)は伊賀衆に大敗。信長に「勘当じゃぁ」といわれたものです。

第2次は信長が六路から伊賀に攻め込み、伊賀衆を虐殺、征服します。
伊勢や伊賀では明智光秀を「日向様」と呼んで称えるようになった原因の一つですね。



<山城甚伍さま [近畿] 2005/08/31(Wed) 18:53>

こたつさん、こんにちは。

>「伊賀の城郭巡り@物語風レポ」はホント期待してますのでっ(笑)。

ボカァ、ええ仕事するんですが(ウソです)、凝り性なので完成は何時になるやら・・。
しばらく忘れて下さいな。
出来あがり次第、ご一報入れますので。(冷汗)

まだ、取材していない城砦や再訪したい所も多々あるので・・。さわりだけ、ちょこっと・・

           天正伊賀の乱
 伊賀の国は、「高山峨々として四方に畳み重なりて青巌の形を創り流水清く浅くして碧潭の色を染む」。地侍たちが己の土地を領有し、あたかも小さな共和国連合を形成していた。この、一見平和な国中を天下賦武の名のもとに嵐が吹き荒れる。保身と裏切り、侵略に一族郎党立ち奮い、炎と血で染めた戦いがあった。平和な今日、人はこの戦いを「伊賀の乱」と呼ぶ。彼らが戦った城砦を訪ねて、この戦いの足跡をたどってみたいと想う。

           【プロローグ】
名家・伊勢国国司北畠家は、詰めの山城・霧山城の麓、多芸御所(現北畠神社・三重県一志郡美杉村上多気)の地に一大城下町を形成する。
 八代当主・具教は塚原卜伝に剣を学んだ剣豪で、信長の伊勢侵攻に際し、山奥の多芸御所から大河内城(三重県松阪市大河内町城山)に入り、永禄12年(1569)8月、五万の大軍を相手に二ヶ月近く籠城戦をする。手を焼いた信長は、二男の茶箋丸(織田信雄)を北畠家の養子にするということで和議が成る。
もちろん、強力な側近団を送り込み、信長の武威で北畠の家督を継ぐことが前提である。
元亀元年(1570)、北畠具教は出家し大河内城を住まいとしていたが、翌年には具教の娘・雪姫と信雄が婚姻し、元亀3年(1572)11月、信雄は大河内城に移って元服し北畠三介具豊と名乗る・・

★北畠具顕さん
 はじめまして、お名前だけは存知あげておりました。
北畠具親の関係する山城を追いかけているのですが、なかなか・・です。
文献も少ないし、現地体験主義なので時間がかかります。
今度、伊賀神戸の我山城に登ってきます。



<こたつ城主 [関東] 2005/09/01(Thu) 08:31>

題名:伊賀(三重県)

↑ざっとだけど(すんげぇ小さい地図しか持ってないだ(^^;))、

●北・北西=近江(甲賀)
● 北東・東・南東・南=伊勢
● 南西・西=大和
● 北西の一部=山城

↑こうだと思うんですが、


>北畠具顕さま
>山城甚伍さま

第一次(1578)は、これで言うと伊勢から信雄チャンがドヤドヤ入ってって、伊賀の地侍連中に「してヤラレた」って事ですかね(^_^;)。
第二次(1581)は、山城さまに教えて頂いたサイトの地図で見る限り、北方面から入って行った事が伺えるので、てっきり「一次では伊勢方面からのみ進撃したのかな」と思ったんですが、記述としては「一次は北と南から」、「二次になると、さらに西からも含め全包囲態勢で攻め入った」という感じですね(^^ゞ。

信長自身が出陣するまでの三年の間に、前は無かった包囲態勢が出来てた、という事ですかね?
いや別に信雄ちゃんを庇う気はないけど(笑)、やっぱ総統自身が出てってコケたら、せがれを叱った手前だいぶ恥ずかしいだろ、とも思ったもんで(^^ゞ。

あと……甲賀ってどっから伊賀攻めに協力したんでしょ(^^;)。
(追記:安土築城開始=1575年、完成=1579年)

↑お答えはどっちゃでも(^^ゞ。

にしても……これまであまり伊賀攻めに関心を払って来なかったんですが、考えてみればかなり信長の死の間際なんだなぁ〜。



<こたつ城主 [関東] 2005/09/01(Thu) 08:32>

>北畠具顕さま

呼びました(爆)。 *イケシャアシャア* ヽ(^^;)

第一次。
丸山城って具教が伊賀攻めのために作った、とも言われてるんですかっ!
となると伊勢ですよね(だいたい丸山城がどこにあるのか判ってないんだわ(^^;))。

第二次。
その「六路」ってのは、周囲の六方の道から入って行った、って事のようですね(^^ゞ。これはちょっとアチコチ覗いて理解しました。

>伊勢や伊賀では明智光秀を「日向様」と呼んで称えるようになった

これはどんなエピソードが?(゚.゚)


>山城甚伍さま

スイマセン! メール出しておきながら、頂いたお返事の返事が遅くなります。
ご容赦の程。m(__)m

>しばらく忘れて下さいな。

じゃ2〜3日忘れます(^^ゞ。 *2〜3日かよっ!( ̄∇ ̄;)*

とか何とか仰って、既にプロローグが出来てるではありませんかっ(笑)。
本作成の際には、ぜひ地図を入れて下さいまし〜〜。
もう1個、多芸とか松坂とかの場所がね〜(^_^;)。。
しかし話は天正伊賀の乱より前、伊勢攻略から始まるんですね(゚.゚)。
おおおお、北畠具顕さまと話が合いそうだ、こりゃ(笑)。

>文献も少ないし、現地体験主義なので時間がかかります。

あ、やっぱ文献が(^^ゞ。
それなら尚、現地体験主義というのは、私のように住所の遠い者には助かります。
神戸の我山城というのも構成に関わって来るのでしょうか。
行かれた感想を又お聞かせ下さいませ。

YORI様の所で拝聴した事と重なって恐縮ですが、昨日こんな所を見付けました。
http://www.parkcity.ne.jp/~igarappa/page036.html
(「乱破心象」:http://www.parkcity.ne.jp/~igarappa/より)
下山甲斐について書かれてますね(^^ゞ。
 
     

     
  <北畠具顕さま [関東] 2005/09/01(Thu) 23:38>

えーと伊賀の乱ですね。
>甲賀ってどっから伊賀攻めに協力したんでしょ(^^;)。
第2次では参加してたんではないでしょうか。
第一次は信長に無断ですから甲賀衆は参戦してないかと。

>丸山城って具教が伊賀攻めのために作った、とも言われてるんですかっ!
伊賀です(爆)
天正3年ですから、違うでしょうが。(この年に信雄、家督継承)
具教卿がかんでいるならもっと早い段階でしょうから。天文3年の間違いかもしれませんし。
伊賀は北が六角、南が北畠の影響が強いので城を作っていた可能性はあります。
大体伊勢の歴史なんて適当ですからねえ。五ヶ所愛州氏の滅亡も天正4年説と永禄初年説がありますし。

>>伊勢や伊賀では明智光秀を「日向様」と呼んで称えるようになった

>これはどんなエピソードが?(゚.゚)
特には無いんですが伊勢伊賀に関していえば伊賀は一国丸ごと焼き払われ、伊勢は長嶋の虐殺、国司家滅亡ときて本当に信長嫌いなのです。
全部「火」がからんでるんですよね。長嶋=焼殺し、伊賀=焦土作戦、国司滅亡=多芸攻めで火をかける(このとき城に登れないように竹の皮をひいていたのだがかえってその油に乗って火が移ったらしい。昔の多芸の人は本当に「縁起が悪い」といって竹の皮を使わなかったそうな)
ですので明治ころまでは古老が、信長を焼き殺した明智光秀を「日向様」と呼んで称えていたらしいです。



<こたつ城主 [関東] 2005/09/02(Fri) 15:33>

>北畠具顕さま

>第一次は信長に無断ですから甲賀衆は参戦してないかと。

これこれ! 時期は前後しても仕方ないとして、信雄の持てる機動態勢は近江を含んでますかね(^^ゞ。
あと安土城。確か信雄が焼いてますよね(明智勢が焼いたって文献もあった気が……:笑)。

>>丸山城
>伊賀です(爆)

伊賀かよっ!( ̄∇ ̄;)
伊賀への伊勢国司の影響力というのは、権限(公)なのかな、勢力(私)なのかな。
でもなるほど、やっぱ城跡って残しとくもんですね(それだけ燃やされれば文献が残ってないのも道理(^^;))。

で、愛洲重明(^^;)! 牛鬼伝説でも「南北朝から戦国時代にかけて」と曖昧で困っちゃう。。何となく天正4年って事は無いような気もするんですが……。
ちょっと整理のため時代順に羅列してみると……。

天文3年(1534):丸山城(北畠具教?)
永禄初年(1558):五ヶ所愛洲滅亡?
天正3年(1575):丸山城(北畠具教?)・信雄家督(織田関係は確定:笑)
天正4年(1576):五ヶ所愛洲滅亡?

↑こうですか。
長島が73年として……m(。。)m。76年もアリかな〜。。(二度あったり:笑)。

>昔の多芸の人は本当に「縁起が悪い」といって竹の皮を使わなかったそうな
>明治ころまでは古老が、信長を焼き殺した明智光秀を「日向様」と呼んで

初めて知りました。伝承にせよ精緻が取れてて後付とばかり思えないですね。
実際は江戸時代に起きた火災への警告を含んでたとしても、国を滅ぼされた時を都度思い起こす点、信長の死因を焼死に限定して受け取った点など特に。
「竹の皮」ってのが又リアルですね。信長は鉄が好きだからな〜(地球に優しくない奴(^^;))。



<山城甚伍さま [近畿] 2005/09/14(Wed) 18:52>

 伊賀通いが続いて、長谷寺や室生寺の傍を通るR165では
つまらないので、今日は筒井順慶が天正伊賀の乱時に通っ
た笠間峠(伊賀七口のひとつ)を見物して伊賀の国・名張に
入ります。

東国の方には馴染みが薄い武将と思いますので、筒井順慶
のウンチクを少々。

 中世の大和は有力荘園主・東大寺と興福寺が覇を競って
いたが、興福寺は藤原氏の氏寺で、同じ藤原氏の氏神であ
る春日社と同一体となり、大和国中の寺社を傘下に収め絶
大なる権勢を築く。

興福寺一乗院衆徒(僧兵=僧徒を束ねる頭領、法体の武士)
の筒井氏はその頂点にあった。

松永久秀との抗争を経て、天正4年に筒井順慶が大和守護
になる。
本能寺の変の後、明智光秀との「洞ヶ峠」の逸話は有名。
光秀が味方に引き入れたかった「細川藤孝」や「筒井順慶」は光秀の与力(組下大名)だったんです。

また、順慶の父が順昭で、病に伏せた順昭は未だ幼い嫡子
や家の存続を考え、順昭は思案の末、盲目の法師・黙阿弥
を影武者に仕立て、「死後3年間は自分の死を隠し、外敵
の侵略を防ぐのだぞゥ」

似たような話が武田信玄にもありますよね。

嫡子・順慶が元服し、お殿さんだった黙阿弥はご褒美をも
らい、盲目の法師に戻ります。
これを「元の黙阿弥」として今も語り継がれています。

 筒井氏は、大和から伊賀の国に国替えになり、伊賀上野
城を築城。
跡継ぎ無き為お家断絶になりますが、後に、筒井氏の家老
だった藤堂高虎が伊勢・伊賀を拝領して明治維新まで続くのも縁です。

 R25名阪国道・針ICから室生村に入り、上笠間から「柘植
名張線」を進みます。
人影の少ない田舎道を道標に従い進み、峠に至りますが「
何かスッキリとしません」。

地の方に尋ねると、「そうよう、ここらが峠よう」。
う〜ん、もう一人の方に尋ねます。「この道は戦後の道で、昔の笠間峠は違うよ」。
 今でも「東大寺二月堂の修二会(お水取り・お松明)で使う松明を、名張から笠間峠を越えて持ってくる」とのこと。

お茶屋もあったと言う細い道の傍に「笠間峠の石碑」があ
りました。

念願を果たし、名張・下比奈知の「下山甲斐城」に登ります。
ここは再訪ですが、先日、奈垣の「下山甲斐守城」を訪ね
てイメージ図を描き上げたので、ここも描いてやれと思い
再訪しました。

 登城自体は楽なのですが、遺構観察は倒木やブッシュも
あり少し難儀な城です。



<こたつ城主 [関東] 2005/09/15(Thu) 20:21>

>山城甚伍さま

伊賀には変わらず通っておられますか(^^)。
筒井順慶も伊賀の乱には参加しましたか。
順慶……何か大阪方面の方から必ず出る名ですが、はい仰せの如く、我々にはあまりにも馴染みが無いです(笑)。ありがとうございました。

東大寺は見掛けませんが、興福寺と延暦寺と園城寺は、何だか始終騒乱を起こしてる時期がありますよね(^_^;)。。殆ど100年近く。

ところで、「元の黙阿弥」って順慶&影武者がらみの逸話だったんですね!
迂闊にして存じませんでした(^^ゞ。
むか〜し謂れを聞いた覚えが(ウッスラ)あるにはあるのですが。
しかし「影武者、徳川家康」風に、実は才気ある人物で、代替わりしたがために上手く行かなかった、という話に仕立てれば、まさに「元の黙阿弥」って題名で行けそうですね!(笑)

なぜ順慶が出て来るのかな、と少し戸惑いましたが、なるほど(^^)、伊賀に国替えになるからなんですね。伊賀上野城は藤堂高虎の名で覚えてしまいますからね。

地理に疎いので、峠のお話がちょっと判りません。
むかし峠と呼ばれた所が今は判らなくなってしまった、という事でしょうか?
また「下山甲斐城」は幾つもあるのでしょうか(゚.゚)。
イメージ図というのはスケッチ?
お話の構想を作り上げているという意味かしら?
何か大胆な発想が必要かもしれません。思い切った「筋道」をつけられる事を祈っております(^^)。
 
     



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