<掲示板・議事録>

祟り神トーナメント(爆)〜平将門、3

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/09/18(Sat) 23:42>

>北畠具顕さま

むか〜しの大河「新平家物語」で、既に父帝に嫌われてもいた覚えもあるんですよ(^_^;)。でも、誰かの臨終の時に会わせて貰えない場面も確かあったんで、↓

>地獄の釜に投げ込んで

父鳥羽帝への慰霊の経文ですよね。じゃ呪ってる相手は、邪魔した後白河天皇なのかな?



<こたつ城主 [関東] 2004/09/18(Sat) 23:44>

>河内太夫判官さま

〇管直人
現職中の道義的怠慢って意味か……んん〜。やっぱ道真の子孫かなぁ。
家康なら「まことにもって、けしからん"役人"でござる」と摩り替えるだけで、絶対に当主の座を降りない(笑)。→10936参照

〇平将門と藤原純友
将門の伝記か……。逆に関東人のくせに、どうして私はこう知らなかったんだろ(^^ゞ。
で、橘遠保が楠木正成の先祖ですかっ(*o*)。おお〜! 橘か!
将門を倒した俵藤太が伸張したのと同じ事情ですかね。将門を倒したら貴族にしてやるって恩賞が、後に武士を台頭させる土台となったのですよね〜。
共謀説というのは当時すでに囁かれてた噂だとか。
ただ、こういう事というのは、後世の人の方が歴史を学んで意図する傾向の方が高いんでしょうね〜(^^ゞ。北畠親房は東北からやってきたのでしたっけ?

○関西祟り神トーナメント(笑)
実は早良親王が祟った、という話自体をあまり聞いた事がありません(^^ゞ。そうそう映画の「陰陽師」を見て「そういう記録があるのかな」と思っただけで。
伊予親王でしたっけ、もっと祟りの記録があった人が居たような……(この辺りは疎いけど)。

で、崇徳上皇は、道真と同じ感じじゃないかな? 落雷とか豪雨とか流行り病とか。
あと大きい意味合いとしては、この辺りを期に武家が政権を担う世の中になる点でしょうかね(^^ゞ。
それで孝明天皇や明治天皇は、崇徳上皇(の霊)と仲直りして、「武家の世が終わる」と世に示そうとしたって事かと。
その点、後醍醐天皇への歴史的な(?)解釈はどうなってるんでしょうね(^^ゞ。

>ええ。太平記って、一面ホラー小説ですから(笑)。

そうなのっ?!(≧▽≦)
淳仁天皇や後鳥羽上皇は、どんな様子(妖怪?)になって出て来るんでしょ(笑)。

>告げ口されたらかないません(笑)。

では、将門公にお執り成しして差し上げましょうか?(笑)



<北畠具顕さま [東海] 2004/09/19(Sun) 22:23>

>崇徳院
なにせ「叔父子」ですから(笑)親父に嫌われるのは無理ありません。
なんにしても白河院は罪な人ですよ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/20(Mon) 13:14>

>北畠具顕さま

>叔父子
確か前にトカゲ様に教わりました。「祖父の子(本当は自分の叔父にあたる)」という意味でしたっけ(^^ゞ。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/09/21(Tue) 07:29>

>本当に祟る気なら、そこの石に噛み付いてみよ

あ、これは、ハーンの「かけひき」と題される小文の話しです。
「死んだら化けて出てやる」
と言った罪人に対して、肝の据わったお奉行様が、
「もし、本当に化けて出るというなら、首をはねた後、そこの石にかじりついてみよ」
というわけです。
果たして首は、ころころと転がって石にかじりついちゃったもんで、周りのものは、恐れます。
が、お代官様は、
「大丈夫。あの者は、死ぬとき、石にかじりつくことだけを考えて死んだはず。化けて出ることは忘れてるだろう」
と。

祟られちゃった人たちは、このお代官様ほど肝が据わってなかったんでしょうね(笑)

で、崇徳天皇陵について。
讃岐にある御陵の方は知りませんが、京都にある「分陵(というのかどうかは知りませんが)」は、神社になってまして、そこは有名な「縁切り神社」だったりします(笑)
「縁切り」ってのは微妙な感じですけど(笑)
「天神さん」みたいに、おおげさに祀られてはないんですよね。

>「御霊神社」に祀られている神様

メンバーは、神社によって多少入れ替わりがあるのですが、
崇徳上皇
崇道天皇
井上内親王&他戸親王の親子
藤原吉子&伊予親王
橘逸勢
吉備真備
という顔ぶれでしょうか。
で、多分、これらの人々を陥れたのは、ほとんど藤原氏じゃなかったか、と(^^ゞ
つまり、藤原氏以外は、多分、祟られることないですので、安心してていいかも(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/09/21(Tue) 16:33>

>のりちゃん様

>ハーンの「かけひき」

ご紹介、ありがとうございました(^^)。
この話って、元は単に代官と罪人の意地の張り合いだったんじゃないかと思うんですけど(笑)、日本では代官の「頓知」として面白がられるんでしょうねっ。
でもその題名に「かけひき」とつける所が、西洋に日本を紹介する八雲のエキスが入ってる感じがします。
今は「東の国から」も「心」も全作品読み終わり、「日本瞥見記」を読んでるのですが、全体的に「死人を認める不思議」について書かれていて、つまり死んだ人との密接な交流をよく紹介してる事に気付きます。
私達は代官の「祟りの克服手法」に感心するんですが、西洋では「化けて出る」なんて呪いの言葉(が現実のものとなる事)を本気にする日本人に驚嘆するんですね(笑)。

だから、この後に続いた「縁切り」や「御霊神社」に祀る怨霊の数々についても、これは「日本人ならではの話題」という事になりますが(笑)、京の崇徳天皇陵に「縁切り」を祈るのは、「和解を迫られてるようだが、縁を切ってもう1回祟れ」と言ってるように思えます(笑)。

〇「御霊神社」の怨霊メンバー(爆)
「橘逸勢」ってのを知らない(爆)。「日本三筆の一人」と検索で出て来ましたが。
「吉備真備」って祟ったんですか(゚.゚)。

>これらの人々を陥れたのは、ほとんど藤原氏じゃなかったか、と(^^ゞ
>つまり、藤原氏以外は、多分、祟られることないですので、安心してていいかも(笑)

しかし日本最大の子孫の多さとも言うので、どっかで混ざってないとも言い切れなかったり(汗)。。
 
     

     
  <ヒロ男爵さま [関東] 2004/09/21(Tue) 19:37>

こたつ城主さん>
 リンクの件ありがとうございました。こちらも早速リンク貼り付けました。
 これからもマニアックなネタで攻めていきたいと思います(笑)
 話題にもなってましたが、平将門と藤原純友も結構魅かれますね。
 大塩平八郎の乱とか由比正雪の乱とかも調べていきたいです。(あえてマイナー路線を探してみた。笑)



<河内太夫判官さま [北陸] 2004/09/21(Tue) 21:34>

○七福神
ほほぅ、福禄寿崇拝には足利義満が関わっておったのですか。と云うことは七福神信仰は室町時代にできたのでしょうかね。この時代あたり、妙に「七」と云う数字にこだわってるんですよねぇ(・・;)。

〇平将門と藤原純友
>北畠親房は東北からやってきたのでしたっけ?
いえいえ、むしろ吉野に帰ってから京都奪回作戦を練るのに参考にしたんじゃないかと。この頃、九州で南朝方が強くなりつつあって、それと畿内南軍との京都挟撃を考えてゐた節があります。

○関西祟り神トーナメント(笑)
コンテンツとして、「祟り一覧表」なんて作ってみるのも面白そうですな(笑)。ヒマなときにやってみよう(^^ゞ。

>この辺りを期に武家が政権を担う世の中になる
そう、これが「皇を取って民となし」と云うわけでしょうね。このセリフ、結末を知ってるから出てきたということですな。

>後醍醐天皇への歴史的な(?)解釈
うーん、やはり明治期〜戦中では「天皇親政を現出した聖帝」、戦後では「自分がすべて、オレ様・ザ・ナンバーワン(略してオレ様(笑))」ではないでしょうか(^o^;。

>淳仁天皇や後鳥羽上皇は、どんな様子
えーっと、崇徳院が大きな金鵄、その右隣に鎮西八郎為朝、左に天皇の装束を着て金の笏を持っているのがずらりと並んでおられるそうです(・・;)。まぁ普通ですな(笑)。

>将門公にお執り成し
そういやぁ太平記の怨霊軍団に将門がゐなかたような(・・;)。やはり関東の怨霊ということで、関東出自の足利氏に味方してゐると考えられたのでしょうか。あるいは朝敵扱い……。



<たみいさま [東海] 2004/09/22(Wed) 09:48>

昨夜の「その時・・」じゃ無くて、「プロジェクトX」。
藤原三代のDNA鑑定が行われた理由を初めて知りました。
画面上でとは言え、棺の中のミイラ化しているお顔を見た時は震えが来ましたよ。今、お彼岸だしねぇ・・。

棺が漆塗りだった事が、800年の長きに耐えられたのですね。
漆って凄い、日本の職人て凄い。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/22(Wed) 19:27>

>ヒロ男爵さま

リンクありがとうございました。「道灌教」の入信者は増えてますか?(笑)
東京近辺では、平将門、源頼朝、太田道灌はよく見掛けるのですが、道灌はなぜかマイナーですよね(この人も祟っていい気がする(^_^;))。増してや長尾景春じゃ尚更かな(爆)。 由比正雪は12時間ドラマぐらいかな、出て来るのは。


>河内太夫判官さま

〇「城主のたわごと」
読んで下さってありがとうございます。
「七福神」という言葉や概念は室町後期に成立したそうですが、信仰として広めたのは、どうやら天海僧正あたりのようですよ(笑)。「七」は経典からという事ですが、狂言や御伽噺の流行とも関係あるんでしょうかね。

〇南北朝
この頃、筑後川さんトコで勉強させて頂いたのですが、足利尊氏は鎌倉→京→九州と流転するんですね。この九州に落ちる前に、南北から挟撃されたんですね。北からが北畠のようで。

〇「祟り一覧表」
↑ですかっ(笑)。雷対策はくれぐれも入念に(爆)。出来たら見に行きたいので、ぜひぜひお知らせ下さいね〜〜!

〇「皇を取って民となし」(崇徳・後醍醐・源為朝・平将門)
日本では「呪い」と「予言」は殆ど同じ意味なんですが、この時代あたりからの風潮ですかね(^_^;)。

で、後醍醐天皇ですが、やはり「親政の再現」という点がポイントなんでしょうね。日本の近代化に尊皇は下地でもあったので、そう白黒つけにくいのが現状なのでしょう。
太平記の怨霊面々ですが、鎮西八郎為朝が崇徳院の補佐って感じですかね。これはそう間違った解釈でもないんじゃないでしょうか。ただ、平将門は……(笑)。

祟った裏づけに「裏切った奴」の逸話なんかあるにはあるんですが、どこか嘘っぽいんですよね(笑)。そもそも「祟る理屈」として変ですよね(^_^;)。
「反乱するまで追い詰められた原因の全て」にまで遡るも無理があるし、例えば「実はどっかの帝の落胤」と前提したとして(これもだいぶ無理があるが:笑)、後継者ではなく「新皇」を名乗った時点で「祟る権利」は無効ですし、「道真の祟りに相乗り」の効能も消えたと思うんです。

ただこの人自身、そんなにメチャクチャ低い身分でもなかった事を考えると、反乱が私利私欲のためとはどうしても思えないんですね。
そうした人に対する、ありがたい、すがりたい、という気持ちは最も核に近い信仰心であって、本当は「神」として祀りたいのに、祀る理由として罷り通らないから、「祟った」という事にされてるだけではないかと(^^ゞ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/22(Wed) 19:30>

>たみい様

プロジェクトXですか。う〜む見なかった(^_^;)。
DNA鑑定の話だったのですか?
奥州の藤原氏のミイラを公開したんですね(゚.゚)。
この時代って言ったら凄く古い感じがするけど、漆塗りだったんですか〜〜。
案外な物が古くからあるんですよねぇ。(確か文献にも古くから漆ってあった覚えが……)
 
     



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