<掲示板・議事録>

祟り神トーナメント(爆)〜平将門、2

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/09/14(Tue) 11:07>

>たみい様

道真の左遷を急いだ理由は、なるほど、なるほど。醍醐天皇の弟に道真の孫が生まれると厄介だからなんですね。。
藤原時平はちょくちょく聞くのですが、菅原氏が消えた時の藤原氏の人ぐらいの認識でした(^^ゞ。どんな画策したんでしょ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/14(Tue) 11:09>

>河内太夫判官さま

○後醍醐天皇と醍醐天皇
平安時代は恐ろしく長いので、その中でも復古調って時代はあったんでしょうね(^^ゞ。
ふと思ったんですが、「延喜の治」って表現は、もしかしたら後醍醐天皇あたりから始まったなんて事は無いでしょうか。
中流の公家を引き上げたというのは、能力主義って事になるんですかね。

〇清涼殿の落雷
はいはい! 門を開けなかった人が落雷で死んだ話は知ってます! ただ経緯がよく判ってなかった。……宇多天皇の訪問を妨げたんですね(^^;)。。
地震や津波と違って、落雷はいかにも的を絞って直撃するから、祟り(人為的)と言われるのは判る気がします。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/14(Tue) 11:14>

>河内判官太夫さま、2

〇平将門祭祀の西限
比叡山とか高野山とかには何でもありそうだけど(笑)、大垣ってのは、何があるんですか(゚.゚)。
で、京都の神田神宮のサイト、ありがとうございました!
京には何か痕跡の一つもあって良さそうと思ってましたが、すごく慎ましやかでこれまた驚きです(汗)。臭い物に蓋、っちゅう露骨な感じ……。。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/09/14(Tue) 17:20>

道真公左遷後の、都でのいざこざについては、詳しく知りませんが、なにしろ、大宰府についてから二年で憤死。その後、怒涛の如く天変地異やら落雷やら(判官殿が書いてくださってるように、因縁たっぷりの雷だし)。
ってことで、いざこざしてる暇はあんまりなかったかと思われます(笑)

んで、道真公の係累が下総にいたかどうか、という話はよく知らないんですが、天神信仰の流行からか、菅原道真に関する伝説は、怖いの(亡霊・雷)・キレイなの(梅の伝承とか)様々に、むちゃくちゃたくさん作られたようなんですよね。

だから、その当時ならば、「こうだ」と言い切っちゃえば、伝承として認められる素地は十分あったか、と。

で、タタリなんですが。
確かに、将門公について、関東よりは言われないかもしれません。
そんじゃ、関西で「タタリ神」と言ったら誰か、というと、ビッグネームはいないような気がします(^^ゞ

菅公は、もう、「学問の神様」として有名になっちゃって、「祟り神でした」って言っても、「そうだったの?」という感じですし。

入鹿の首塚は、祟るという伝説もあるけど、そんなこと知らない人の方が多いですしね。

考えたら、関東の方が、「お岩さん」とか有名な亡霊が多いですよね???
いいな〜(か?(^^ゞ)



<河内太夫判官さま [甲信越] 2004/09/14(Tue) 21:02>

○後醍醐天皇と醍醐天皇
>「延喜の治」って表現
うーむ、確かに誰が云い出したんでしょうかなぁ。どうも「大日本史」あたりがくさい(^o^;。太平記には「延喜の帝」とか言う表現になってますね。イイ時代だという認識はあったようです。

>能力主義って事になるんですかね。
のつもりだったらしいです。現実に日野資朝・日野俊基あたりが引き上げられて、天皇に生命まで捧げることになりました。鎌倉幕府を倒すまでは、けっこう柔軟かつ現実的な思考を持ってはったんですけどねぇ(・・;)。

〇平将門祭祀の西限
>高野山とかには
高野山には位牌があるそうな。ここが最西端でしょうか。

>大垣ってのは、何があるんですか(゚.゚)。
御首神社といって、どうやら関東に帰る将門の御首が射落とされ、そこに創建された神社のようです。……大手町の首塚はいったい(^o^;。
http://www.mikubi.or.jp/yuisho_gosinntoku.htm

>京都の神田神宮
まぁ首は飛び去っていったのですから、大仰にお祀りすることもないでしょう(^^ゞ。京都はいっぱい怨霊さんがごわしゃりますし(苦笑)。

○のりちゃん
>関西で「タタリ神」と言ったら誰か、
非業の死を遂げたのが多すぎますもんねぇ(^o^;。怨霊同士が縄張りを争って祟るどころではないかもしれませんな(笑)。さしあたって判官は、「後醍醐天皇」を挙げておきましょう。本当に祟りますから……。



<北畠具顕さま [東海] 2004/09/14(Tue) 21:26>

のりちゃん
純友って祟ってるんでしょうかねぇ。いつも謎。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/09/15(Wed) 16:00>

>のりちゃん様

道真は大宰府で二年しか存命しなかったんですね〜。どうもその無茶加減からして、助命嘆願があったから今度は毒殺、なんて事もありそうですね(^_^;)。

しかし菅原道真がかつて祟った話は、私の感触としては、よく知られている事だと思い込んでました(^^ゞ。確か日本史でも習いましたし、当時の祟りを示す絵巻物を(これは古典だったかもしれないけど)一緒に見せられました。
に比べると将門は「地方で反乱を起こした代表例の一つ」ぐらいに習ってて……。

でも道真が「学問の神様」というのは、関東でも多いにそうですよ(^^)。
対して将門は、どっちかと言うと「商売繁盛の神様」って感じがしますね(^^ゞ。特に東京では。
神田明神が秋葉原の近くにある影響もありそうだけど(笑)。

>考えたら、関東の方が、「お岩さん」とか有名な亡霊が多いですよね???

かは判らないけど、前に「日本の妖怪」の全国版みたいな本を買ったら、近畿は鬼とか祟りとかが多くて、具体的な幽霊の名はあまりなかったかな〜(^^;)?
「日本の面影」でも、山陰は怪談が少ないから東京のをしようって話はありましたね。その時代にもよるんでしょうけど……。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/15(Wed) 16:06>

>河内太夫判官さま

○ 「延喜の治」
微妙ですね(笑)。でも確かに「延喜の治」と「延喜の帝」では語彙が違いますよね。
藤原氏でなく、天皇の在位が長く執政に携われば喜ばしいのは当然ですし。
しかしそう考えると、菅原道真の祟り云々の災害は、バベルの塔の崩壊みたいに感じたでしょうね。

〇後醍醐天皇
>鎌倉幕府を倒すまでは、けっこう柔軟かつ現実的な思考を持って
>はったんですけどねぇ(・・;)。
これも醍醐天皇に似てるんでしょうかね(^^ゞ。

〇平将門
えっとですね。確か大手町の首塚は首の最終地点(祀る所)で、飛んで行く途中でどっかに落ちた、という話は聞いた事があります(^^ゞ。……大垣で矢を射たんですね(゚.゚)。

>京都はいっぱい怨霊さんがごわしゃりますし(苦笑)。
あと当時の地方における反乱者ってのも、凄く多かったんでしょうね(^^;)。。

○ 祟り神@関西代表(笑)
後醍醐天皇ですか。崇徳上皇ってのはそちらではどうでしょう?
ただトーナメントで消耗して、決勝戦までに退場者や怪我人が続出してしまうのは残念ですね。。。(←何か違わないかっ?!)



<こたつ城主 [関東] 2004/09/15(Wed) 16:07>

>北畠具顕さま

そうそう、藤原純友ね。私もちょっと聞こうかと思いました。



<たみいさま [東海] 2004/09/15(Wed) 22:08>

祟り神代表は、崇徳天皇を上げたい気持ちが致します。
いえ、もっと祟っても良かったのでは無いかと言う気持ちです。

道真の場合の時平の画策とは、
細かくは忘れてしまいました、(^^;)。
横領、収賄の濡れ衣と言うのもあったように思います。
道真と言う人は無防備過ぎたってトコもあります。

都に残った息子だと思うけど、父親の復権が成って、長じて役所に入り、それなりの地位には達しています。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/16(Thu) 17:56>

>たみい様

幕末維新の天皇は「崇徳上皇の祟りで幕府に政権を取られた家系」と自ら認めたそうですよ(^_^;)。
白峰神社:http://www.ne.jp/asahi/meitei/pedantry/field/rakuchu/siramine.html
(「京都冥所図会」:http://www.ne.jp/asahi/meitei/pedantry/field/frame.htmlより)
崇徳上皇:http://www.pandaemonium.net/menu/devil/sutoku.html
(「Dictionary of Pandaemonium」:http://www.pandaemonium.netより)

道真自身のことはホンット知らないのですが(^^ゞ、道真の子孫は南朝とか、戦国期も赤松・尼子・宇喜多といった負け組についたり、降伏せず討死した子孫が多かったり、天神サマの子孫として、汚れた振る舞いは出来なかったのかも、と思いました。
 
     

     
  <河内太夫判官さま [外国] 2004/09/16(Thu) 20:47>

○延喜の治
>天神サマの子孫
そう云えば、四国お遍路で有名(笑)になった「菅直人」もそうですね。もっとも、彼の場合はちゃちな汚れた振る舞いをしてしまいましたが(^o^;。

〇後醍醐天皇
>これも醍醐天皇に似てるんでしょうかね(^^ゞ。
むしろ後醍醐天皇が、醍醐天皇に自らを似せようとしてゐたのでしょうな。ただ、醍醐天皇より覇気を感じます。

〇平将門
>飛んで行く途中でどっかに落ちた
大垣で落ちて封印されたはずなのに、また脱け出してしまったんですな(^o^;。さすがです。判官が最初に好きになった人物なことはあります(笑)。

>当時の地方における反乱者
具顕御所のおっしゃるように、藤原純友は何してたんでしょうね(^o^;。祟りはしたのでしょうけど、やっぱり将門の派手さに覆い隠されてしまったのでしょうか。

○ 祟り神@関西代表(笑)
>崇徳上皇
確かに太平記でも後醍醐天皇の上座に座ってゐておっとろしいには違いないんですが、何せ讃岐におられるでしょう。今ひとつ実感がわかないんですよねぇ。それに崇徳院の宿願である「皇を取って民となし民を皇となさん」は、昭和天皇の人間宣言で実現されたようにも思えます。今も怒りが静まってゐないのが後醍醐天皇です(・・;)。

>トーナメント
「怨霊勝ち抜き選手権」か……。おもしろそうヾ(^o^;こらこら。一回戦から屈指の好カード、崇徳院vs早良親王!

……どうか罰が当たりませんように<(_ _;)>



<のりちゃんさま [近畿] 2004/09/17(Fri) 07:04>

道真公の祟りは、結構有名ですか?
私は結構最近まで知らなかったと思うんですが、日本史の授業をとってなかったからかも。
で、二年で死んだところに、「憤死」の凄まじさを当時の人は感じたところもあると思うんですよね〜。
左遷されてから、10年も20年も平和にその地を統治しちゃってたら、怒りも分散されちゃうじゃないですか。

2年で亡くなっちゃったから、もう怒りビンビンの時に霊になったわけで(笑)
その時代に、ハーンがいて、その本(かけひき)が出版されてたら、醍醐天皇が太宰府へ行って、
「本当に祟る気なら、そこの石に噛み付いてみよ」
とか言えたんでしょうけどね(笑)

で、判官殿やたみぃ様も書いておられる通り、
崇道天皇とか、崇徳上皇とかも、かなりな祟り神ですよね??
なのに、今、崇道天皇陵の祟り、とか、崇徳上皇の分陵の祟りとか聞かないのは、考えてみたら、不思議ですよね〜。

将門公は、近所のオフィスの机の位置まで気にさせる元気ぶりなのに。

やっぱ、「祟りトーナメント」で、本番になるまでに、力使いすぎちゃうんでしょうか(^^ゞ

いわゆる「御霊神社」に祀られている神様はすべて、祟ったことのある神様ばかりですが、最低でも八柱おられますからね。

そういえば、関係ありませんが、坂本竜馬と中岡慎太郎のお墓(?)は、「霊山護国寺」っていうお寺にあったような。
「霊山」と「御霊」は関係ないのかしら?



<こたつ城主 [関東] 2004/09/17(Fri) 20:13>

>河内太夫判官さま

菅直人の年金払い漏れって、役所のミスではないのかな(^^;)?

〇平将門(と藤原純友)
判官さまは将門ファンだったのですね(^^ゞ。
地元の私が「平清盛の前にもいた平氏らしい、どっかで戦死したらしい」ぐらいしか知らない時期が長かったのに(爆)。
将門の首は、大垣で一度封印されたのですね。どっかでバウンドしたのかと思ってました(^_^;)。

で、純友については、こんな所を発見。
藤原純友:http://www.tsukudo.jp/hito-sumitomo.html
(築土神社HP:http://www.tsukudo.jp/より)
兼続と三成みたいな、東西挟み撃ち計画の噂があったんですね。住友財閥の家祖が子孫ってのがスゴイ。

○関西祟り神トーナメント(笑)
早良親王あたりの怨霊は、だいたい安倍晴明が片付けたんじゃないですかね(^^ゞ。
で……そうそう(^^;)、崇徳上皇は太平記にも出て来るらしいですね。
金の翼をして? 淳仁天皇や後鳥羽上皇と天下を乱す相談をした???
こういう「天狗の親分」みたいな所が、幕末に動乱の統領と目された点なんでしょうかね(笑)。
流されたのは讃岐でも、祟ったのは京のようで……でも皇室が崇徳帝の慰霊を京に戻して和解したそうなので(それまで放置してたんですね(^^;))、そろそろ後醍醐天皇の時代ですか(笑)。

>「皇を取って民となし民を皇となさん」

これ意味よく判らなかったんですが、天皇家から天皇を引き摺り下ろして、他の人を天皇にする、という意味ですか?
崇徳上皇の時代が先だったら、将門も道真よりコレを利用したかもな〜。

>……どうか罰が当たりませんように<(_ _;)>

トーナメントで忙しい上に、罰当たりなカキコも見付けなきゃならん、と(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/17(Fri) 20:16>

>のりちゃん様

道真は「祟りだけが有名」という感じでもないです(^^ゞ。
崇徳上皇のように「祟ってやるから、みんな待っててね〜(^O^)/」とシッカリ意思表明したわけでもないから(汗)。っていうか逆に、9年も呪い続けて死んだって所が、何となく恐かったり(^^;)。。

が、「左遷の悲劇」は少なくても有名です。
左遷から僅か二年で死亡、というのは知らなかったのですが、源氏物語が語られる時、必ず菅原道真が例にあげられるので。
流刑も初代は悲劇だったと思います。が、二代三代と行くと土地に馴染むというのはありそうですね〜。

>ハーンがいて、その本(かけひき)が出版されてたら、醍醐天皇が太宰府へ行って、
>「本当に祟る気なら、そこの石に噛み付いてみよ」

お(゚.゚)。これはどういう話ですか?

で、私はてっきり、早良親王陵や崇徳上皇陵を気遣ってる(机の位置まで変えるかは置いといて:笑)のだと思い込んでました(^^ゞ。
その点、将門は……そう、どうしてでしょうね(笑)。ただ、これは個人差があって当然ですが、神田明神はホントに望みをよく適えてくれるんですよ(^^ゞ。

>「祟りトーナメント」で、本番になるまでに、力使いすぎちゃうんでしょうか(^^ゞ

各派閥の調整が難しい地区になりますかねぇ。小選挙区制の限界ですか。(何の話だっ(^^;))

>いわゆる「御霊神社」に祀られている神様

お、どういう面々なのでしょうか♪
「霊山護国寺」かな。そう、幕末の志士の墓が集まるお寺があると聞いた事はあるんですが、京だと最近まで知らなかったり(^^ゞ。



<北畠具顕さま [東海] 2004/09/17(Fri) 22:45>

>「皇を取って民となし民を皇となさん」
崇徳天皇が血で書いた供養の経文を京都が受け取ってくれなかったからこんな呪いを賭けられるのですよ(笑)
確か「功徳のために書いたこの経文を地獄の釜に投げ込んで・・・」見たいな恨み言いったような気がします。



<河内太夫判官さま [外国] 2004/09/18(Sat) 22:31>

>菅直人の年金払い漏れって、役所のミス
社会保険庁の管轄官庁って厚生省で、菅直人は厚生大臣でしたから……(・・;)。

〇平将門(と藤原純友)
>判官さまは将門ファンだったのですね(^^ゞ。
はい(o^-^o)。関西人のくせに、なぜか将門には好感を抱いてゐます。小学校低学年の時に読んだ将門の伝記がよっぽど気に入ったらしい(笑)。

>で、純友については、こんな所を発見。
をを〜、ありがとうございます(^^ゞ。橘遠保が純友討伐の功により河内に所領をもらい、そして土着して、のちに楠木正成が出てくるってことになります。

しかし共謀説はどうでしょうかねぇ(^o^;。将門の叛乱は成り行きっぽいような気もしますけどね。親房が共謀説か……。これにヒントを得て、南朝勢力の一斉蜂起計画なんて立案したのかもしれませんな。

○関西祟り神トーナメント(笑)
>安倍晴明が片付けた
……映画やん(爆)。ってか、早良親王ってどんな祟りしてましたっけ(^o^;。単に桓武天皇が気に病んでただけだと云う気がしてきました。

>崇徳上皇は太平記にも出て来るらしいですね。
ええ。太平記って、一面ホラー小説ですから(笑)。たくさん怨霊が出てきます。ほかに後鳥羽院、淡路廃帝(淳仁天皇)。太平記読んだらトーナメント組むのは楽かもしれません(^o^;。

>流されたのは讃岐でも、祟ったのは京のようで……
よくよく考えたら崇徳院もどんな祟りをしはりましたっけ(^^ゞ?「呪ってやるぞ」とは云ってましたが、実際には何が起こりましたっけ。

>そろそろ後醍醐天皇の時代ですか(笑)。
この間の地震の恐怖が(苦笑)。ってか、明治新政府はなぜ後醍醐天皇を京都に戻さなかったんでしょう。天龍寺で事足りると思っておったんでしょうか。

>罰当たりなカキコも見付けなきゃならん、と(笑)。
ネットって誰が見てるか判らないですから。告げ口されたらかないません(笑)。
 
     



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