<掲示板・議事録>

南北朝総覧、3

     
  <河内太夫判官さま [東北] 2004/09/05(Sun) 15:22>

○南北朝のお話(^^ゞ
>楠木氏が運送業を支配
水運業というのが有力になりつつあります。有名な菊水紋にも水が描かれていることや、水の神様を祀る神社を大切にしてゐたことから。それに昔の河内は船がなければ生活しにくかったでしょうし。

>直冬は実父の尊氏より育ての親の直義についた
そうです、そうです。この辺は、結城秀康を連想するとわかりやすいかと思います。秀康も、東西手切れとなれば大坂城に入ると公言してましたね。いつの世にも似たような構図がありますな(^o^;。

>確か直冬の方が義詮より年上なんですよね?
直冬は1327年生れだそうです。義詮は1330年生れ。……正儀と同じ(・・;)!

>叔父の正儀と甥の正行の子の間に何か確執があったって事かな?
はい、詳しくいえば、正行が戦死したとき、その妻は正行の子を妊娠してました。しかしその妻の父は北朝方についてしまいました。なので正儀が怒ってその妻を送り返してしまい、自身が楠木の惣領となったと。

一方返された妻は摂津の豪族・池田教依に再嫁し、教依は生まれた子を教正と名づけて養子としたのです。これが摂津池田氏の祖となります。後に北朝方として南朝方の叔父貴正儀と合戦してます(^o^;。

>「吉野朝太平記」を読めば、南北朝合一あたりまでの経過が
あ、吉野朝太平記は尊氏が死ぬところで終わってゐます。そこから先は、紫さまの文献リストにもあった「南北朝太平記−楠木正儀の闘い−」の方がいいかも……。ってか、聞いてくださったほうが早いかも(^^ゞ。ひと通りのことはつかんでます。

>他の子孫連中が犯行続行してたという事?
はい(^o^;。ってか、正儀自身も後にまた南朝に帰ってます。それが長慶天皇が退位した時期に合致します。仲悪すぎ(笑)。

>二代義詮というのがまた……まるで印象が薄くて(^^ゞ。
薄いというか……ない(爆)?

>北畠親房
>幕末よりは純粋だよね?(爆)
うーん、親房は北畠家の地位を藤原氏よりも上げるのが本音だったので、けっこう不純かもしれません(^o^;。幕末とは少し違いますかね。

>私が次々質問するからだよね(爆)。
それにまた長々と答えてしまう判官でした(^^ゞ。



<北畠具顕さま [東海] 2004/09/05(Sun) 21:16>

北畠准后は王道実現のために覇道を歩まれたのです!!!!!(笑)
まぁなんにしても吉野にいながら北朝の公家と美味い事やってますから(笑)
しかし村上源氏、ほとんど北朝だねぇ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/06(Mon) 09:53>

>河内判官太夫さま、2

○ 楠木氏と水運・菊水紋
菊紋で調べると、楠木氏の「菊水」が代表格として出て来る事が多い気がします。
菊そのものについては、皇室が古代の中国皇帝から賜った、とかいう説を前は見た感じがするのですが(今ではあまり見掛けなくなりましたが(^^;))、「水」をあしらう部分は、確かに楠木氏ならではの要素が絡んでるのかもしれませんね。
あ、そういや昔、明石の「菊水」という店でアナゴ寿司を食ったな(爆)。

〇足利尊氏の子供(直冬・義詮・基氏)
なるほど、例えばドラマで、直冬と義詮の兄弟に確執があるように描く事があっても、それは後の伏線であって(笑)、この兄弟は別れて暮らしていた事、直冬は叔父に養子に出された事、何よりも史実的には、尊氏と直義の兄弟喧嘩が先である事をおさえて見なければならないのですね。

ところで私が気になるのは、まだ話に出ない基氏ですが、これの母親は義詮と一緒?
足利基氏と鎌倉府:http://windbird.hp.infoseek.co.jp/rekisi/nanboku/motouji.html
(「四海改造計画」:http://windbird.hp.infoseek.co.jp/honkan.htmより)
こちらに、基氏(鎌倉府の祖)について、叔父直義の強い影響を裏付ける資料が見られ、私は直義が鎌倉に支配権を強めていた事など知らなかったので、それなり驚きました(^^ゞ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/06(Mon) 09:56>

>河内判官太夫さま、3

〇楠木正行・正儀、その子ら
楠木正儀は二代将軍、足利義詮と同い年ですか(^^ゞ。何か最初の話を、けっこう年のいった世代の一人と当て推量して聞いてました。
で、楠木氏の外戚関係というのも、これまた複雑なんですね(その方が面白いけど:爆)。 正行の妻というのは何氏ですか?(←また質問してるよ:笑)

池田教正の生年は確実ですか? 池田恒興(信輝)は信長と異母兄弟(信長の乳母だった恒興の母が、信長の父、信秀の手つき)とも言われるようで、この辺り何かふと、楠木氏の嫡流とか信長の異母弟と言い出す背景に、秀吉(か家康?)を牽制する意図は無かったかな?というのが気になりました。

>ってか、聞いてくださったほうが早いかも(^^ゞ。

たぶん聞いちゃう(爆)。宜しくお願いします。m(__)m



<こたつ城主 [関東] 2004/09/06(Mon) 09:57>

>北畠具顕さま

「北畠准后」を検索したら、北畠親房の事だと出て来ました(^^ゞ。

>しかし村上源氏、ほとんど北朝だねぇ。

北畠氏って北朝だったんですか(゚.゚)?
北畠親房が、喧嘩してた足利尊氏・直義兄弟ごと南朝におびき寄せた、と説明頂いた所なので、頭がグチャグチャです。
 
     

     
  <河内太夫判官さま [北海道] 2004/09/07(Tue) 01:39>

○ 楠木氏と水運・菊水紋
>菊そのものについては、
そう云えば皇室はいつから菊紋なのか、うかつにも知りませんでしたので、検索してみました。すると後鳥羽上皇が好んで用いたのが定着したと書いてありました。

そうすると、やっぱり後醍醐天皇が菊をくれたのを畏れ多いとして水をあしらったって方が筋は通りますな……(・・;)。

>明石の「菊水」という店でアナゴ寿司を食ったな(爆)。
「菊水」って名前の店はけっこう多いですな。"菊慈童"の連想からでしょうか。料理屋に縁起がよさそうです。
http://www.geocities.jp/tomcolumn/kikujidou.html

〇足利尊氏の子供(直冬・義詮・基氏)
>尊氏と直義の兄弟喧嘩が先
そうです(o^-^o)。厳密に云えば「師直×直義」だったのが、師直が死んで「尊氏×直義」になったと。つくづく源氏は兄弟仲が悪い(^o^;。

>基氏ですが、これの母親は義詮と一緒?
はい、そうです。赤橋(北条)登子です。

>直義が鎌倉に支配権を強めていた事
うん、これは尊直げんかのずっと以前のお話、建武新政さなかのことです。後醍醐天皇には「四道将軍」構想があって、自分の皇子を各地に派遣しました。すなはち、奥州には義良親王(のち、後村上天皇)に北畠顕家・親房をつけて。それから2ヵ月後には成良親王に足利直義をつけて関東の押さえとして鎌倉に派遣しました。これにより、直義は鎌倉を中心として関東に支配権を確立することになったのです。

さらに、後に関東管領として幅を利かす上杉氏は無二の直義派でした。その影響もあるのかもしれません。

この基氏と義詮の関係は、仲は悪くはなかったといわれてるんですが、さあどうだったのでしょうねぇ。基氏の子孫である関東公方はしょっちゅう京都に叛逆してました。判官は基氏が何らかの遺言を残したためじゃないかと疑ってます(・・;)。曰く「京都の将軍はバカだから、おまえらとって代われ!」とか(笑)。鎌倉で死んだ直義の怨念を受継してるのかなぁ……。

〇楠木正行・正儀、その子ら
>楠木氏の外戚関係というのも、これまた複雑
楠木氏ってのは、婚姻で結ばれた地元勢力の大連合って感じがします。でも謎な部分が多くて……(^^ゞ。

>正行の妻というのは何氏ですか?
質問大歓迎(o^o^o)。池田市の北側に「能勢」って、大阪府では最果て(笑)といわれる地域があるのですが、そこにゐた「内藤満行」の娘です。ちょっと楠木の本拠地からは遠いんですわ。

>池田教正の生年は確実ですか?
これは判断つきかねますが、同時代なことは確かなようですね。ただあくまでも伝承扱いで、池田市のパンフには載せられてゐません(つД`;)。

>秀吉(か家康?)を牽制する意図は無かったかな?
うーん、牽制になりますかね(^o^;?牽制になるとしたら、本家筋の摂津池田氏が大いに宣伝したでしょうな。しかし消えていってしまいました。



<北畠具顕さま [東海] 2004/09/07(Tue) 16:27>

>北畠氏って北朝だったんですか(゚.゚)?
まさか(爆)北畠氏は立派な尊王派ですぞ(笑)
北畠氏は分家の分家なのでかって気ままに出来るのですが
本家筋に近いものたち(久我や中院、土御門等)はバリバリの北朝ですねぇ。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/07(Tue) 17:38>

>河内判官太夫さま、2

○ 菊紋
検索したら自分の所のも出て来ました( ̄∇ ̄;)。←忘れてる(笑)
http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/shohin/tour/siseki/202.htm
ここでは私も「後鳥羽上皇の頃から」と言ってますが、その頃はその頃で「我が家に古くから伝わる」とは言ってたのでしょう。中国から伝わったのは仁徳天皇の頃、という説もあるようで。
そういや前に、楠木氏はむかし橘紋を貰ったのに、「楠木の方が強いから」と楠木に変えたと、判官さまの所で読みましたね。懐かしい。

>http://www.geocities.jp/tomcolumn/kikujidou.html
ありがとうございました。私は……やっぱ楠木正成の影響かなと思ったんですが(^^ゞ。

〇「四道将軍」構想
基氏の母の件、ありがとうございました。
話は「四道将軍」構想に移りますが、私この字面、何度か見た事があったのですが、内容をよく知りませんでした(^^ゞ。
古代(崇神天皇の頃かな?)にあった奴ですよね。後醍醐天皇は歴オタだったのかな。
で、後醍醐天皇の皇子は、尊良、恒良、義良(後村上)、護良、宗良、懐良の6人を系図で確認してますが、4人に割り振りしたのかしら?
で、直義が鎌倉に任じられた経緯は建武の新政に遡るんですね〜。

さらに、京と関東の「公方同志の仲の悪さ」ですが(笑)、関東においては、これこそ「戦国乱世の始まり」を告げる段階で初対面する、何度も何度も「異常な事態」です(^^;)。
何かこう……全体的に、関東公方(いろいろあるんで私も総称:笑)は、ミイラ盗りがミイラになってるようにしか思えないんですよね。。

〇楠木正行の子孫、池田氏
内藤氏か……φ(。。)mメモメモ。
池田氏については、詐称を疑うなら秀吉政権前後でしょうね。
が、逆に、伝統的に「認知されない子を引き取る律儀な家」つー見方も持ってていいと思います。織田時代については、どっちかと言うと、そういう信用のされかたが感じられますし。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/07(Tue) 17:39>

>北畠具顕さま

なるほど、なるほど。北畠も本家筋ってのが久我とかになっちゃいますからね(笑)。 まあ南と北に一家で分かれたトコなんかもあったようですし(^^ゞ。



<たみいさま [東海] 2004/09/07(Tue) 21:15>

菊は中国原産ですし、辞書によっては中近東となっています。
こたつ様も仰っていたように、紋章は朝鮮半島からメソポタミアまで遡ると言うのが真実っぽいです。
その昔の昔、それを家紋とした一族も渡来した事でしょう。



<こたつ城主 [関東] 2004/09/08(Wed) 22:20>

>たみい様

菊紋は、遡れば古代オリエントまで行くのは本当らしく、そのぶん、@どこが出所という点をボカせる、A中国の他の王族と一線を画せる、B日輪に似ている(誰もがシンボルと認める)などの効能はありそうに思えます。
 
     



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