<掲示板・議事録>

島根、出雲大社・尼子氏、8

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/04/08(Thu) 08:20>

高市皇子と弘文天皇については知りませんでした。
でも、高市皇子は、かなりの有力者だったということはうかがえますよね。
あまり表には出ないけど、影ではしっかり。みたいな。
あと、彼の場合は、十市皇女との悲恋の噂がまた、弘文天皇と比較して・・・ってことになりがちなのかもしれませんね。
十市皇女の葬儀の時に彼が詠んだ歌なんて、血の涙がにじんでる感じがしますもの(^^ゞ
「三諸の 神の神杉 夢のみに 見えつつ共に 寝ねぬ夜ぞ多き」
とか。

で、弁天様と素盞鳴命ですが、私は宗像大社に参拝したことがないので、よくわからないのですが、結局、宗像三女神は、素盞鳴命と天照大神の二人の間にできた子供だ、という話しもありまして。
一概に素盞鳴命を否定してるとは限らないんですけどね。
そこらへんは、かなり、複雑な事情があるんではないかと(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/08(Thu) 19:47>

>のりちゃん様

すいません。「高市皇子と弘文天皇」てより、「大海人皇子(天武天皇)と弘文天皇」だと思います。皇太子の地位にあったのは大海人皇子なので(^^ゞ。
で、高市皇子の背景が有力者というより、長男てのがポイント高いんじゃないでしょうか。順番より年長って事で。この時に取り沙汰される多くの皇子達の中ではね。
当時の経緯は、大海人皇子が病気を理由に引退して吉野に籠ったので、弘文天皇が立ったのでしょうが、後になって、弘文天皇が母の身分がどうこうだから廃した、と経緯を正当化したのなら、高市皇子も皇太子にはなれなかったのではないかと(^^ゞ。
だから当時いくら「押しも押されもせぬ地位」を保持してても、だから天皇に……にはなりにくかっただろう、と思ってます。

で、前に聞きましたね、スサノオと天照の間の子、という話。これが宗像三女神のことでしたか(^^ゞ。やっと繋がりました(笑)。
まあ箱根の話は、明治時代に市杵嶋を祭神とさせられた経緯についてで、それだと女神信仰に主体が行ってしまうが、ウチは龍神(とセットで弁天も)を祀ってるのだと、こういう事でしたけどね(^^ゞ。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/08(Thu) 20:42>

弘文天皇については、確か、即位はしてないですよね(日本書紀では)。
そこらへん、天武天皇に都合よく描かれてるかもしれませんから、実際はどうだったかわからないけど、実際はかな〜りドロドロしてたんでしょうね(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/09(Fri) 21:10>

>のりちゃん様

弘文天皇を正式に(?)認めたのは、それこそ水戸黄門からではなかったっけ(^^ゞ。
まあそれまでも、全く歴史上無視されたって程でもなかったのでしょうけど。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/09(Fri) 22:16>

弘文天皇については、彼に最後まで付き従った、物部なんちゃらという老武将がいまして、彼は、朝廷で、確かその後、急昇進したんですよね。
だから、天武新朝廷も、前帝の皇子のことは、無視できなかったんだろうなぁ、と思います。
ただ、なんというか・・・。
十市皇女を挟んでの、高市皇子との比較を考えると、なんとなく、「フラレ男」の哀愁がただよってくるんですよね。
それで、な〜んとなく、あまりかっこよいイメージもてなかったり(笑)



<北畠具顕さま [関東] 2004/04/09(Fri) 22:58>

>弘文天皇を正式に(?)認めたのは、それこそ水戸黄門からで
>はなかったっけ(^^ゞ。
>まあそれまでも、全く歴史上無視されたって程でもなかったの
>でしょうけど。

そうですねぇ。淳仁天皇や仲恭天皇よりはまともな扱いされてたんじゃ。なにせ「廃帝」とか「半帝」とか呼ばれるよりはなにも称号がなかったほうがましな気がします(笑)。
そういえば長慶天皇は明治以降に存在が確認されましたね。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/04/10(Sat) 23:40>

>のりちゃん様

弘文天皇の最期を看取ったというと、物部麻呂の事かな。弘文天皇の首を届けたのでしたっけ。そういや、この人の昇進理由って何でしょうね(^^;)。戦前から天武側に通じてた功績とかでしょうか、やっぱ(汗)。
で、十市皇女ですが、弘文天皇をふって高市皇子を選んだ、という意味でしょうか。
まあ敗戦側と勝利側には分けられるとは思いますがね(^^ゞ。



<こたつ城主 [関東] 2004/04/10(Sat) 23:41>

>北畠具顕さま

淳仁天皇と仲恭天皇!
……知りませんです(^^;)。ただ「廃帝」「半帝」は聞いた事がありますね。承久の乱でしたっけ。どっちがどっちだろ(どっちも違ったりして:汗)。
後世になってから認定された天皇て、結構いるとは聞きますね(笑)。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/11(Sun) 08:50>

物部麻呂ですが、「最後まで主人に忠実だった」ということで、昇進した、と、梅原猛さんは書いてたと思います。
・・・が、実はスパイだったのかなぁ(^^ゞ

で、この時代の恋愛模様ってのは、記紀には載ってません。
んじゃ、どこでそういうことを知るかというと、もっぱら万葉集に載ってる歌ってことになりますね。

ただ、十市皇女については、一首も歌が残ってないんですよ。
でも、例えば、平安時代には、「十市皇女は、弘文天皇を裏切って、父に暗号文を送ってた」なんてことがまことしやかにささやかれてたりしますから、なんか、こう、彼女が弘文天皇を愛してなかったというイメージは強いんでしょうね。



<こたつ城主 [関東] 2004/04/12(Mon) 17:30>

>のりちゃん様

物部麻呂ですが、他の武将はみな逃げてしまったから、という具合でしたっけ。
にせよ、敵兵自ら大将首を携えて投降して来る(気はなく、使者に立ったとしても、結果的には投降に近いかと(^_^;))というケースは、あまり聞かないですね。

十市皇女が暗号文を送ったというのは、魚を届けるフリをして、そのはらわたに詰めたとかいう奴でしたっけ。
歌は、伊勢に詣でた時、侍女が「いつまでも清らかでいて欲しい」と皇女のことを詠んだ、という事でしたね。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/12(Mon) 20:32>

十市皇女に関する歌で一番有名なのは、彼女が亡くなった時、高市皇子が詠んだ
山振の 立ち儀ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく
という挽歌だと思います。
この「山振の清水」てのは、死者を蘇生させる力があると信じられていたようで、
「自分にできるならば、生き返らせたい」
という高市皇子の切実な気持ちが伝わってきますよね(#^.^#)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/13(Tue) 18:01>

>のりちゃん様

十市皇女については、侍女の歌が、
「川の辺のゆつ岩群に草むさず、常にもがもな常処女にて」
高市皇子のは、のりちゃんのあげた他には、
「三諸の神の神杉、夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き」
「三輪山の山辺真麻木綿(やまべまそゆう)短木綿(みじかゆう)かくのみゆえに長しと思いき」
最後のも「もっと長く生きて欲しかった」という思いが偲ばれますね〜。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/04/13(Tue) 19:16>

十市皇女については、彼女は、歌の名手である額田大王の娘ですから、母親にも歌を習っただろうし、下手ではなかったと思うんですよね。
いや、母親が歌の名手なだけに、プレッシャーで、歌が嫌いだったのかもしれないですけど(爆)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/14(Wed) 18:52>

>のりちゃん様

万葉集というのも、当時の裏の主張めいていて面白いですよね。よく残ったな、という歌もある感じがするので、十市皇女の歌だけが何らかの政治的思惑で抹殺されたとは思えないですが、父の天武はともかく(子供多いし(^^;))、母の額田女王すら一人娘の死に何も詠まなかったのでしょうかね。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/14(Wed) 19:37>

そういえば、十市皇女の葬儀において、額田大王の歌って知りませんね。
もしかしたら、あまりの駄作だったんで、載ってないだけ、とか??
まさかね(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/15(Thu) 21:24>

>のりちゃん様

額田女王も、さすがに一人娘の死となると平静に歌を詠まなかったのかもしれませんし、大和和紀さんなんかは、額田を巫女として、世俗と縁を切ったような具合に捉えてましたね(^_^;)。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/04/15(Thu) 22:11>

額田大王については、大海人皇子から、天智天皇に譲られた・・・という事件で、「悲劇の女性」みたいな描かれ
方をしがちですが、彼女については、語学や歌が堪能で、海外のお客様をお迎えするときに、むちゃくちゃ有能な秘書だったという面もあるみたいですね。



<こたつ城主 [関東] 2004/04/16(Fri) 23:00>

>のりちゃん様

額田女王が海外のお客の接待に起用された、というのは初耳でした(゚.゚)。
でも歌は、漢詩を意識した上で万葉仮名を使用、と見れば、語学が堪能だったという見方も自然かもしれませんね。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/17(Sat) 08:19>

額田大王については、いろんな話しがある・・・というか、この時代の女性については、彼女に限らず、ちゃんとした記録が残ってないようなのですが、実は、彼女は、日本人ではなかったという説もあったと思います。
でもそれが本当かどうか、は、わからないです(^^ゞ



<こたつ城主 [関東] 2004/04/19(Mon) 14:55>

>のりちゃん様

額田女王が日本人でなくても、不思議じゃないかもしれませんね(^^)。この頃には「明確に日本人」である必要なんかなかった気もしますし(笑)。
 
     



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