<掲示板・議事録>

島根、出雲大社・尼子氏、7

     
  <こたつ城主 [関東] 2004/03/26(Fri) 19:14>

鳴門の渦潮で海戦があったか探したら、「阿波鳴門之介」という人が見付かってしまいました(笑)。
佐々木家臣団列伝「阿波鳴門之介」:
http://members.at.infoseek.co.jp/jinbou/sassa/kashin-a.htm
(越中戦国史:http://members.at.infoseek.co.jp/jinbou/index.htmより)

竹中半兵衛→豊臣秀次→佐々成政→小西行長と転職。
肥後国人一揆で頭脳戦のあげく先陣争いに見事成功。なぜか「尼子十勇士」にも仲間入り?(笑)

阿波の攻略と、その前段階の毛利勢力とのぶつかり合いでは、若干海域が違うかもしれませんね。ただ大抵伝承の類になると、あれこれゴチャ混ぜになる事もあるかな(^^ゞ。
何しろ上記の人物からして、なぜか「尼子十勇士」ですからね(笑)。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/03/26(Fri) 20:19>

あ・・・、また尼子氏だ。
これは、何か尼子氏について調べろという啓示かしら(^^ゞ

しかし、「鳴門は越えるに超えられないから」ってんで、名前にしちゃうってのがすごいですね(#^.^#)



<こたつ城主 [関東] 2004/03/27(Sat) 22:28>

>のりちゃん様

阿波鳴門之介は竹中氏の家臣時代、秀吉の中国遠征とともに対毛利戦に活躍したのかもしれませんね(笑)。

尼子十勇士には、とんでもない名が多いです。
書物によっても違うのでしょうが、山中鹿之介、五月(植田)早苗(早稲)之介、早川鮎之介、藪中茨之介、までがだいたい共通してるかな。
尤道理之介、横道兵庫之介、寺元生死之介、辺りもわりと言われますか。
あとは、深田泥之介、小倉鼠之介、井筒女之介、川岸柳之介、破骨障子之介、高橋渡之助、荒波碇之助なんて、殆ど冗談みたいな名ばっかですね(笑)。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/03/29(Mon) 17:31>

尼子十勇士。
山中鹿之助も、そうだったんですね。

この方、単体の名前だけみてもなんとも思いませんでしたが、他の面々と並べてみると、
「山の中に鹿がいる」ということか?
と、始めて気づいたり(笑)

「吾に艱難辛苦を与えたまえ」といった人が名前で笑わしちゃいけません・・・ようなきがします(笑)



<こたつ城主 [関東] 2004/03/30(Tue) 17:31>

>のりちゃん様

尼子十勇士というのは、恐らくそもそも「山中鹿之助」という「実在の面白い名」に由来したのでしょうね。
十勇士が活躍するのは、尼子が滅亡(つーか少なくても月山富田城から去って)から始めるんですが、その前に、「品川狼之助」ちゅうのが出て来るんですわ(^^;)。
鹿之助と戦うために自ら「狼之助」と称したというんですが、何しろこの二人が富田城の麓の川で一騎討ちをした、という伝承が地元に残ってます。
こういうのがあるので、ますます「姓と名の掛け合い」みたいな空想が次々と生まれたのでしょうし、実際に当時もあったのかもしれませんね(笑)。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/03/30(Tue) 18:17>

尼子十勇士の中で、実在がはっきりしてるのは、鹿之助さんだけですか。

山中鹿之助が、山陰にご縁が深いというのは、伺いましたが、記紀を読むと、播磨あたりに、鹿の逸話が多いことに、昨日気づきました(笑)
(加古川という地名は鹿子川だったという話しもあります)
以前、牡鹿が自分に雪が積もる夢を見て・・・という話しをしたように思うのですが、それも、播磨あたりですし。

播磨とも関係あったりします?



<こたつ城主 [関東] 2004/03/31(Wed) 23:29>

>のりちゃん様

山中鹿之助ですが、尼子氏のいた月山富田城は出雲の国ですし、鹿之助の山中氏は尼子の家臣でした。
鹿之助は次男にして武勇に秀で、尼子氏に将来を嘱望されて、尼子の親族衆に連なる亀井氏(家老格)が娘しか居なかったことを理由に、亀井氏に養子入りを求められた武将です。
が、長男が病弱で鹿之助に摘系を譲って隠遁したため、山中氏を自身が継ぐしかなく、亀井氏から得た娘と鹿之助の間に生まれた娘の婿が、ようやく亀井姓を起こして、因幡の大名となりました。

というわけで、鹿之助は純然たる出雲人です。(阿国の方が遥かに怪しいかも(^^;))

播磨との関わりについてですが、鹿之助より前となると判りません。
が、鹿之助の子孫が鴻池家初代新六で、この世で初めて清酒を作る事に成功したという逸話ならば、よく聞きます。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/01(Thu) 07:11>

>鹿之助の子孫が鴻池家初代新六

鴻池氏って、鹿之助の子孫なんですか!
それは面白いかもしれません。
鹿の子孫がこうのとりかぁ・・・。

あと、出雲→播磨という流れも。
こないだ播磨の神社に参拝したとき、「あ、ここは、大和よりも、出雲の影響の方が強いみたい」と思ったんですよ。

というより、出雲の文化が大和へやってくる途中、播磨はルートに入ってたというだけかもしれませんが。
それには地形も関係してくるんでしょうね。
ここからここへ行くには、これが最短ルートだが、こう行くと一番早くいける、とか。

その地形ってのを具体的にイメージするのがど〜も、苦手で(^^ゞ



<こたつ城主 [関東] 2004/04/01(Thu) 23:37>

>のりちゃん様

>鴻池氏って、鹿之助の子孫なんですか!

「清酒の発祥地と鴻池家」:http://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/seishu.htm
(清酒発祥の地、兵庫県伊丹市:http://www2.osk.3web.ne.jp/%7Earanishi/index.htmより)
この真中あたりに書いてありますよ。

丹念に探せば他で出て来るかもしれませんが、私が聞いた逸話は、濁り酒(しか昔は無かった)に間違って灰を混ぜてしまったのが清酒の発端、という話でした。

この鴻池の一派が、出雲→播磨の影響に全て及ぶかは、もちろん自信がありません(^^ゞ。
が、鹿之助(や鴻池)のように、毛利から秀吉側に移行した尼子の勢力、という筋もあったでしょうし、関が原以後、毛利は大縮小せざるを得ず、毛利の家来は大量に商人や農民に下ったそうです。
となれば、一度毛利に吸収された尼子の旧臣などは、どっちかと言うとリストラ組でしょう(^^;)。地元に農地を得てやってく土壌にも乏しかったでしょうから、農民よりは商人に流れたかもしれません。
こういう影響と考えれば、出雲→播磨という線も、そう不思議はないかもしれませんね。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/02(Fri) 07:03>

鴻池氏のサイト紹介ありがとうございます。
子孫って書いてありますね。

私が、清酒についてのエピソードを聞いたのは、母親からだと思います。
「水戸黄門」で、清酒を作らなくてはいけない鴻池さんが、悩んでるんです。
そこで、ご隠居さんがアドバイスをしようとしているところ、母親が、「私知ってるで!」と(^^ゞ
ドラマの中では、確か、番頭か誰かが、何かいたずら心に近い悪意を持って酒に灰をいれ、見事清酒が出来上がるという話しになってたと思いますが・・・。

しかし、灰といえばなんでもいいわけじゃあないんでしょうね。
今は、「濾す」ことによって清酒ができるようです。

で、出雲→播磨への流れ。
当時の事情ってのもやっぱりありますよね。
地形ってのも大事な要素だとはおもうけれど、リストラされた武士が、商人になって、播磨までやってきた、という考え方も、私には目からウロコです。
メモっとこっとφ(..)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/04(Sun) 01:54>

>のりちゃん様

濁り酒に灰=清酒の逸話ですが、思えば水戸黄門に素晴らしく合ってますよね(笑)。
しかしさすがに「ご隠居様の入れ知恵」ではなく、偶然という元の味そのままなんですね。そりゃそうですねよ(^^ゞ。そこまで黄門さまの手柄では、鴻池氏に怒られそうです。
現在は灰を使う手法は聞きませんよね。今に残る功績があるとしたら、「清酒」が出来る(飲める)事を世に知らしめた事でしょうね。

そういやこないだ、のりちゃん所で、北条氏の旧領で大六天が信仰されたという話が出ましたが、滅ぼした側がやがて徳川幕府に統制される(尼子は毛利にやられ、北条は豊臣にやられ、毛利と豊臣は徳川にやられる)という意味では、尼子氏は、関東の北条氏にちょっと事情が近いかも?
信仰方面でしか根を張れなかった、とまで言うと、言い過ぎかもしれませんが(^^ゞ。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2004/04/04(Sun) 09:27>

尼子氏については、自分を滅ぼした毛利が徳川にさらにやられる・・・という事情は、なんとなく興味深いような気がします。
尼子氏の信仰というと、住吉とかの海の神様になるんだろうなぁ・・・。



<こたつ城主 [関東] 2004/04/05(Mon) 16:11>

>のりちゃん様

>尼子氏の信仰というと、住吉とかの海の神様になるんだろうなぁ・・・。

尼子と海ですか……(汗)。
奈佐水軍というのがありますね。これは播磨ではなく但馬です。これを味方につけたので鹿之助も頑強に奮闘しぬいた、という感じです。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/05(Mon) 18:48>

尼子氏なんですが、すいません、勘違いしてました(^^ゞ
「尼子氏」は、宇多源氏を出自としてるんですよね。

私が勘違いしてたのは、「宗像氏」です(^^ゞ
天武天皇の皇子である、武市皇子の母親が、宗像氏尼子娘なんですよ。
んで、宗像氏は海の信仰を持つので・・・。
おもっきり勘違いしてました〜〜(~_~)



<こたつ城主 [関東] 2004/04/06(Tue) 17:31>

>のりちゃん様

尼子の海信仰は宗像氏でしたか。
そういや、高市皇子の生母が宗像尼子氏といいましたね。これはあの宗像大社(だっけ)の宗像氏なのかな。



<のりちゃんさま [近畿] 2004/04/06(Tue) 19:01>

武市皇子の母親、宗像尼子娘ですが、多分、宗像大社の宗像と同じ流れだと考えて間違いないと思います。

天武天皇の時代には、「皇子が、皇太子になれない」くらいの、あまりいい家柄ではない・・・ということになっていましたが、九州では、かなりいい家柄だったんじゃないかしらん、と思います。

ただ、宗像三女神は、記紀ではスサノオの娘となってますが、宗像大社の由緒では、天照大神の娘となってると聞きました。
とすると、こちらも皇室と源流は一緒なんですよね(^^ゞ



<こたつ城主 [関東] 2004/04/07(Wed) 18:26>

>のりちゃん様

高市皇子は、壬申の乱の前、馬だったかの歌に例えられて、弘文天皇よか本筋みたく言われたんじゃなかったけ(^_^;)。
聖徳太子のマネをしたのか、聖徳太子のモデルになったのか、そこら辺は判りませんけど(笑)、摂政で実権を握ってた人だと思いますけどね。

宗像大社では、三女神は天照の娘になっとるのですか(゚.゚)。スサノオなら少しは大蛇に近く思えてましたけど。
箱根の九頭龍神社は、明治に、三女神の一人、市杵嶋に統合されたために弁天が元みたくなっちゃったけど、ホンマは龍が元でっせ、と言ってます(笑)。
本元の宗像大社がスサノオを否定してるから、こう言いたくなるんでしょうかね。
 
     



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