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<のりちゃんさま
[近畿] 2003/12/15(Mon) 19:37>
>「ほ、弾正忠は早(はや)」
この「ほ、」というのがイメージですね(#^.^#)
国盗りの中の家康は、「おっとり」という面はあまり強調されてなかったように思います。
それよりも、「静かで人情に厚く、信用を重んじる」という人柄を全面に出していたようでした。
光秀が領地を没収されるきっかけとなる、
「私も苦労したが」
というセリフがありました。
(どこかの戦に勝った後の)信長の宴で、光秀と家康が話しをしてるんですね。
感慨深げに、光秀が、
「いろいろ私も苦労したが、このような日が来るとは・・・」
と家康に話すんです。
家康は、途中から、「これは信長に聞かれたらまずい」と感じ、「光秀殿・・・」と制止しようとするのですが、時遅く、そのセリフは信長の耳に入っちゃってるんです。
信長は烈火のごとく怒り(この光秀の表情が、多分こたつさんのおっしゃる、むちゃくちゃ悔しそうな顔なんでしょう)、光秀の頭をガンガン地面に押し付けるんですが、その時の家康は、むやみに気の毒そうな顔をするではなく、眉をひそめるでなく、恐怖するでなく、ごくごくひっそりとした表情の変化しかないのです。
「今何が起きてるのか?」
と考えるみたいに。
それがなんとも、印象的でした。
<こたつ城主 [関東]
2003/12/16(Tue) 18:24>
>のりちゃん様
そそそ(^^)。「ほ、」がつくだけで人柄を匂わせますよね(笑)。
で、ちょっと見てみた所、このセリフが出て来るのは「国盗り物語」の方でした。
(撤退戦の詳しい描写は「尻喰らえ孫市」の方がちょっと多い)
「国盗り」では、「ほ、弾正忠はもはやおられぬか」。となってます。「弾正忠は早(はや)」は他の小説で読んだか、文献記録(「信長公記」あたりか)だったかもしれません。
あと、のりちゃんの言ってた「放っておけない」と殿軍に荷担するのは「国盗り」の方で、「孫市」では、秀吉たちの前を悠々と退却して行きます(笑)。
このようにブレが出るのは、家康の陣が退却に不利な場所にあった記録がある(のだろう)事、家康の律儀な性格、とは言っても身分は秀吉の方が格段に低い、といういろんな含みがあるからでしょう。
光秀が信長に苛められたというのは、殆ど江戸以降の創作(?)がベースのようで、「苦労した」と言ったら「お前が何を苦労したっ」とか怒鳴られるのも、そうした一連のお話の一つと思われます。
が、そこで気を廻す家康というのは面白いですね(笑)。
で、私の言う「光秀の苦悩」は、この場面だけに限りません(笑)。
ついに「何をしでかすつもりか」と恐ろしくなるほど、あの光秀はドンドン、何の事はない「近藤正臣」一色に染まっていくのですよ(^^;)。
「あれ? 今日は何も苛められてないよね?」と思う回でも……(汗)。
<のりちゃんさま [近畿]
2003/12/16(Tue) 19:25>
孫市は、「国盗り」では、林隆三さんが演じてましたね。
人情に厚いところもあり、豪放でもあり、気持ちのいい男、を、好演されてました・・・って、このドラマは、皆好演ですね(笑)
八咫烏の紋を持つ武将がいたというのを、初めて知りました。
八咫烏を掲げるってことは、修験者なのでしょうか?
「尻喰らえ孫市」も、機会があったら読んでみたいです。
光秀が信長にいじめられたというのは、「創作」がベースなんですね。
としたら、「本能寺」の原因は、「いじめ(笑)」以外が大きかった・・・としたら、やはり、光秀も、野望家だったということでしょうか。
戦国の武将ならば、誰でも、天下取りを夢見て不思議はないですよね。
・・・「国盗り」の話ばかりで申し訳ないのですが、黒田如水を演じた江守徹も印象的でした。
信長の死の知らせを聞いて泣きじゃくる秀吉に対して、
「殿、チャンスでございます」
って言うじゃないですか。
このセリフって、信長を慕う秀吉に下手に言ったら、
「この、非人情者!」
と怒鳴られそうなんですが、江守叙水は説得力というか、言葉に力があって、思わず、
「あ・・・うん」
って言ってしまいそうな雰囲気だったんです。
ああ、本当に、いろいろ語りたい(#^.^#)
リアルタイムで毎回わくわくしながら、見たかったです〜〜〜。
<こたつ城主 [関東]
2003/12/17(Wed) 18:36>
>のりちゃん様
そう(^^)。孫市は林隆三さんでしたね。原作でもすごく可愛い男で、政治家を目指す秀吉にとって、自分の立場を揺るがす存在でありながら、どこか羨ましく憎めない(笑)。
修験者だからというより、雑賀衆にとって八咫烏は、自分たちのシンボルという感じに原作を読みましたが、地元のお札など見せて頂くにつれ、ますます密着度を感じました。
私の記憶では、光秀が細川氏に出した手紙に、「信長に面目を失わされた」という文言があったと思います。これがいわゆる「怨恨説」の根拠かと想像します。
が、人に応援を頼むにしては、自分でも「大義に不足する」と感じ、「個人的に不当な扱いを受けたから」なら、正当防衛論(ヤラレる前にやった)にしやすかったのかもしれません。
つまりこの手紙は、「アナタ(幽斎&忠興)のことわる理由はもっともだが」から始まり、その前に応援を突っぱねられた経緯が伺えます。
細川幽斎……外交上手な奴(爆)。
黒田如水の助言は逆に「野望ナシ」と私は見ます。軍師ならば、咄嗟に士気を落とさない配慮をするのは当然です。
が、同時に「失言」でもあったとは思います。恐らく信長の死に、秀吉も如水も相当うろたえたと思います(殆ど自分たち大勢の死に直結しますから)。
が、秀吉が後年如水を遠ざけた根拠に、この助言が後になって引っ掛かった、と見られるフシは無くも無いです(笑)。
江守徹さんは、3年連続で大河出演ということで、当時のNHKの出版物に載ってた覚えがありますよ(^^)。 |
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