<掲示板・議事録>

修験・霊山「富士」「伊勢」詣で、2

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2003/07/16(Wed) 22:09>

修験者も本当は金脈探してたんだ、なんて話、聞いたことありますね。確かに。
なんにせよ、いくら「悪の秘密結社(笑)」でも、金銭的なおことは抜きにできないでしょうから、何か、こう、金づるはあるんでしょうね。
まぁ、水銀を使って金を湯水のように作り出せたら、すごいお金になりますけど・・・。いくらなんでもそれはないか(^^ゞ



<こたつ城主 [関東] 2003/07/17(Thu) 18:10>

>のりちゃん様

修験道のスポンサーですが、寺社だと聞きました(^_^;)。それがいつの時代の事かは判らない。時代によって事情がすごく違うだろうなとは思うのですが(笑)。
ただ、多少なりとも蓄えがあれば、何と言っても新聞もテレビもインターネットも無い時代のこと。次に欲しいのは、特に金鉱の事に限らず、諸国の情報ではあるだろうから、特に「悪」でも「秘密結社」でもある必要は無いですよね(笑)。



<のりちゃんさま [近畿] 2003/07/17(Thu) 21:59>

以前、こたつさんから、「修験者は関所をフリーパスだった」って教わりましたが、これってやっぱりすごく大きなことだったみたいですね。

私は昔の事情がピンときてなくて、今みたいに手軽に旅行できるような感覚でいたんですが、まず電車も飛行機もない上に、関所がある。

関所を簡単に通れるってのは本当に大きかったんですね。



<たまこさま [東海] 2003/07/18(Fri) 13:21>

>のりちゃん様
>以前、こたつさんから、「修験者は関所をフリーパスだった」って
>教わりましたが、これってやっぱりすごく大きなことだったみたい
>ですね。

私もそう思います。そういう人やジプシー?の人たちを台帳に載せて、定住を計ったり、課税するようになってから(ま、良い事なんだろうけど)息苦しくなったのかもね〜。

でも、今の方が、それを逃れてる人が多かったりして、(^^;)。



<こたつ城主 [関東] 2003/07/18(Fri) 20:48>

>のりちゃん様

昔と今の意識の違いで、「旅をする=困難」をあらわすのが、易の「火山旅」ですね。これは殆どの爻が、旅を「路頭に迷って四苦八苦する」事を前提に語られますよね。
しかし関所の警備が堅固であった江戸時代、庶民は逆に「旅」をとても楽しみなものと意識しはじめたようで(お伊勢参りなど(^^))、そう考えると、やはり治安の安定(関所の配備)は必須条件だったとも思いますけど。



<こたつ城主 [関東] 2003/07/18(Fri) 20:50>

>たまこ様

治安安定は戦国期の日本にとって課題ではあったと思うのですが、それも徹底していくと、息苦しさも齎したかもしれませんねぇ。
今は治安も安定した上、情報流通も盛んなのに、別の意味で息苦しいかもしれませんが(笑)。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2003/07/19(Sat) 08:57>

旅に関しては、いわゆるやじきた道中のイメージが強かったので、「昔から楽しいもの」と勘違いしてましたが(^^ゞ
あの話にも「関所」を通る話がでてきますもんね。

>たまこ様
台帳に載せたのって、いつくらいのことなんでしょう?
ここらへんの歴史感覚がむちゃくちゃ疎くって(^^ゞ

台帳に載せちゃった以降は、山伏さんといえども、自由に行き来できなかったんでしょうか?



<たまこさま [東海] 2003/07/19(Sat) 11:23>

>のりちゃん様、
>台帳に載せたのって、いつくらいのことなんでしょう?
>台帳に載せちゃった以降は、山伏さんといえども、自由に行き来
>できなかったんでしょうか?

私もチラッとそのような本を読んだ覚えしか無いのですが、(^^;)、国家が発達すると裏社会みたいなモノを認めなくなりますよね。

家康は修験道禁止令みたいなのを発布したと思います。系統的に分けで、神職などにつけて、一定地域内での活動だけ許可したと思います。



<こたつ城主 [関東] 2003/07/19(Sat) 20:28>

>のりちゃん様

やじきた道中で出て来る関所の場面って、どんなんですか? 子供の頃、最初の方だけ読んだんですけど、どっちがヤジさんだったかなぁ。。

台帳というのは戸籍の事かな? 全国単位で実質はじめて試みられたのは、やはり秀吉の太閤検地からじゃないでしょうかね。
きっと消費税導入の時のように反発もあったでしょう。そして家康の頃は、ちょうど消費税値上がりの頃のように、少しみんなが諦め始めた頃かな(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2003/07/19(Sat) 20:29>

>たまこ様

事実上、戸籍に全ての国民が載せられるようになったのは、明治以降なんでしょうね。 今でも国政調査なんか行われてますしね。

ウチの方は真言系の寺が多かったんですが、家康以降は、やはり国分寺単位で親寺小寺(支店制度ですね)に編成し直され、ブツブツと勢力を分断されたようです(笑)。
まあ、その前は、いかにデカイ勢力を誇ってたかの逆証明みたいなもんですが。



<石野真琴さま [関東] 2003/07/19(Sat) 20:57>

>のりちゃん様、たまこ様
 台帳というのは、人別帳の事でしょうか?戸籍で古跡台帳そのものが作られたのは明治でしょう、間違いなく・・・、国力を上げる為であり、正確な国力を知り、税金を集める必要がありましたから・・。
 江戸時代には人別帳という台帳がありました。もっともこの日本は、江戸幕府が天領を治め、大名家はその所領を治める完全な分治でしたから、その人別帳を作る方法は統一されてはいなかったと思います。
 それでもこの人別帳によって、幕末の人口はおおよそ三千万人前後と推測出来ますので、全く意味がなかったわけではないのです。
 さて、この人別帳ですが、江戸のような長屋住まいの多い都市では、大家さんが届け出る事が決まっていたらしいです。その借家に山伏のような人が泊まっている場合には、単に旅人と届け出ればそれで良かったらしいです。
 人別帳に名前が記載されている人は、その土地を所有している人や、長年に渡ってその土地で暮らしている人だけが届け出た、実にいい加減なものであったらしいです。その為、正確な人口の統計資料には成りませんでした。
 もっともこの時代、商人を含む町民には税金を納める義務も無かったので、正確な統計を取る必要はなかったのでしょう。



<たまこさま [東海] 2003/07/19(Sat) 22:35>

>こたつ城主さま、
>まあ、その前は、いかにデカイ勢力を誇ってたかの逆証明みたいなもんですが。

そう思います。何とかせねばならん勢力だったと思います。しかし信仰と言うのは中々潰す事が出来ない。。

>石野さま、

そういう分けで、修験者関係に限れば、明治になって、更なる禁止令が出たようです。勢力を把握し、連帯を絶とうとしたのでしょうか。
 
     

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2003/07/20(Sun) 09:41>

ありがとうございます!
秀吉の頃に、「戸籍」の叩き台のようなものができ、家康が本格的にし、そして、明治にすべての人が登録されるようになったんですね。

そして、家康公が、修験道も禁止したというのは、始めて知りました。
そうすると、江戸時代は修験者の移動もなかなか難しいものがあったのでしょうか?

今、ちらちらと江戸時代の関所事情(?)を探してみたら、どうも、男性の旅人はそれほど厳しくチェックされなかったのでしょうか?
としたら、修験者はむしろ、修験者の格好をするより普通の姿で関所を抜けるほうが楽だったかも(^^ゞ

>こたつ様
東海道中膝栗毛の中にでてくる関所のシーン。
探してみたら、
http://www.netbugs.ne.jp/~tokdo53/yj-01/hiza-03/31maisaka.html
がありましたが、子供の頃に読んだ「やじきた」では、確か、最初に通行手形をとるときに、ひと悶着あったんじゃなかったかと思います。

確か、「やじきた」って、衆道の人なんですよね?
(どっちかが、陰間茶屋で働いてたハズ)
でも、子供の本にはそんなことは、一切書いてありませんでした(笑)



<石野真琴さま [関東] 2003/07/20(Sun) 11:25>

>たまこ様
 明治時代に修験道の禁止令が出たとの事ですが、その辺の事は良く知りませんが、江戸末期の神仏混合と関係が無ければ、やはり、明治政府という集金システムにバグとして、修験者が残る事を恐れたのではないかと思います。近代国家の税金収集は広く薄くが原則で、戸籍というのは日本人である事を証明すると同時に、正確に税金を収集する為の名簿でもあるわけです。
 江戸時代、農民には税金が課せられましたが、町民と呼ばれる商人や職人にはほとんど税金がありませんでした。(商人に対しては運上金と言う税金が時々、臨時であった見たですが・・)

>のりちゃん様
 秀吉時代は「検地」ですが、これの原型は信長だと思います。秀吉の政策はそのほとんどが信長のものですから。
 江戸時代に「検地」はこの国を覆い尽くしました。税金徴収名簿みたいなものです。それとは別に人別帳が作られました、人別帳は戸籍名簿に近いものだと考えて良いと思います。
 明治時代に戸籍法が生まれます。戸籍法は日本人の登録、国際的な観点から見て、必要な処置であったとも言えるわけです。

>修験者の移動
 一般的に言えば江戸時代は、入鉄砲出女(鉄砲の江戸への持ち込み、武装蜂起を未然に防ぐ、各地の大名家の息女や妻は人質でしたので・・)と呼ばれるように、各関所ではこの二つは厳しく監視していたらしいですが、庶民に関してはそれほど厳しくなかったと言われます。道中手形は絶対に必要だったと思いますが・・・、道中手形と言うのは自分の家が所属している寺から、その宗教を確認した書類(キリシタンでない事の証明)と、住所を示す町内の顔役からの書類です。

 これが修験者や僧侶の場合は、本山からの身分証明があれば、自由に日本国内を移動出来たと言われます。それでも日本国内での人間の移動はそれほど多くなかったみたいです。足で歩くわけで旅行は大変だったので、それでも江戸時代には、伊勢参りや善光寺参り、富士講などの旅が流行ったみたいですね。(これにより旅籠という宿が生まれ、宿場町が発展)



<こたつ城主 [関東] 2003/07/21(Mon) 19:56>

>石野真琴さま

明治以後の戸籍については、元は西洋なみの国家体系を作るとした所に基準があったのでしょうから、相続や土地問題を法によって裁く制度に移行する目的もあったんでしょう。 でもまあ、納税における必要性が一番の目的でしょうね(笑)。

江戸期の人別帳って、藩によって(って事だよね)作成方法が違うんですね(゚.゚)。
江戸期には人口をかなり把握できてたようですよね。下手すると明治政府が始まった頃よりも、生産高と人口のバランスを図れてたかも。もっとも流通を幕府が仕切っていたわけですが(笑)。
江戸の長屋は、最初は大家さんの届け出だけで充分だったのでしょうが、江戸の人口が過密化した頃から、だんだんワケ判らなくなったのかもしれませんね(^^;)。

そう。修験道の禁止と聞いて、私もちょっと神仏混合の問題を思い浮かびはしたんですが(^_^;)、明治のいつ頃でしょうね。江戸期の財政破綻を受け継いだだけでも、そんなにゆとりのある時代とも思えないので、やっぱりそこは、すべからくこすっからく税金を取ろうとしたからだと私も思いますね(笑)。例外を認められる余裕が無かったからだと。

信長の検地というのは天正年間ごろですかね。さらに遡ると、もしかしたら信秀にもその原型があるかもしれませんね(道三なんかはどうだろう?)。
国許でやる分には大きな反発は招かないでしょうが、太閤検地のように全国単位になると、従わない勢力はあったのでしょうね。葛西一揆なんかがそれだったような(違ったかな)。。 江戸時代も「検地」の名が続行されたのでしたっけ。各藩の石高隠しと人別帳ってのは関連があるんだっけな。

あ、そうそう。入鉄砲出女ですね。関所と言えばこれを思い出します(笑)。
庶民については紹介状を村長(名主とかだっけな)などに書いて貰えばOKだったような……。一揆が頻発してるとか災害が多発してるとか、そういう特別な事情のない時期なら通った覚えがありますね(昨日、箱根行ってたんだから、関所に寄って確かめてくれば良かった(^^;))。

それと、ウチあたりでは勢力分断された〜ってな主張もされてはいますが(笑)、やはり寺の本支店制度(親寺・子寺)というのは、上に責任追及していけるシステムでもあって、責任所在を明確にする上では必要な制度だったとも思います。
まあ、この手合いの話というのは、どうしてもそこに「意図的な嫌がらせがあった」みたいな憶測がついて廻るものですが(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2003/07/21(Mon) 19:59>

>たまこ様

信仰と言いますか……まあ集団武装勢力には違いなかったでしょうね(^^;)。寺と見れば火をかけあった時代もあったと聞きます。
まあ宗教組織とは、血縁に関係なく集団化できる連携体ですから、村ができるといった長い時間をかけずに、短期で勢力を作りうるわけですね。


>のりちゃん様

まあ、そういう事ですかね。検地も戸籍も、納税計測が目的であった点は変わりないかと思います。
検地は、人口を把握するためと言うよりは、もっと直接的に「石高(生産性)」を調べるのが目的ですが、今だったら大型機械の導入や、肥料やら土壌やらで違いが出るものの、当時は生産と労働力(人口)はほぼ見合ってたでしょうから、そこで若干は人口把握も同時に出来たとは思います。

家康の修験道禁止というのは私もよく事情を知りません(^^;)。後に「入り鉄砲に出女」を関所で厳しく咎めた点から推測するに、人質が修験者になりすまして江戸を抜ける事への危惧でしょうかね?
と、この推測があたっているのなら、男性でも子供には厳しかったかもしれませんね。

やじきたのURLありがとうございました!
面白い! 特に竹光だから海に浮いちゃうあたり(笑)。通行手形の騒動も面白そうですね。
やじきたは衆道なんですか? 知らなかったです(^_^;)。子供の頃、子供向けの本でちょっと読んだ覚えがあるんですが、全部は読まなかったし、読んでも書かれてなかったかも。



<のりちゃんさま [近畿] 2003/07/21(Mon) 22:35>

やじきたの原作は読んだことが、私もないのでよくわかりませんが、子供向けのものを読んだ後、原作を読んだらびっくりすることってよくありますよね?

私は、大人になってから、「レ・ミゼラブル」を読んで、驚愕しました。
あれ、最初の1/5ほどは、ジャン・バルジャンに銀の燭台をあげた牧師さんの話なんですよね(^^ゞ

>石野真琴様・こたつ様・たまこ様(まとめちゃってすいません(^^ゞ)

関所事情・戸籍についてありがとうございます。
私は神社参拝してて、「蟻の熊野詣と呼ばれて、庶民の憧れだった」とか、「伊勢参りは庶民が一生に一度はと望んだ」などという文章によくぶち当たりましたが、これも、関所事情と大いに関係がありましたね。

そういう背景って、普段は意識しないけど、知っておくことは大事なことだなぁ・・・。

ありがとうございました〜〜m(__)m



<こたつ城主 [関東] 2003/07/22(Tue) 19:35>

>のりちゃん様

「レ・ミゼラブル」は、子供向けでも、わりとボリュームのある本で読みました。図書館で借りたのですが、題名はモロ「ああ、無情」で、「何がそんなに無情なんだ(^^;)」とオソルオソル手を出した覚えがあります(笑)。
銀の燭台って貰ったんでしたっけ(^_^;)。そこまでわりと長かった覚えもあるんですが、牧師さんの話じゃなかったなぁ。バルジャンが助けた女の子とかの覚えはウッスラと残ってますけど。

ああ、熊野詣もよく出て来ますよね。ウチの周囲は熊野神社もお札を貼ってる店とかもわりと見掛けるので、伊勢より熊野の方が人気があったかも?
江戸期の詣で旅行って、一種のツアーみたいなもんなんですかね(^^;)。わりと現在の旅行と気分が似てる感じしますけど、住地域で行く場所がセッティングされてたのかも(笑)。
 
     



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