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<三河武士さま
[関東] 2003/02/11(Tue) 01:27>
こたつ城主様、丁寧なご説明誠にありがとうございます。
当初、表から入ってなかった事、大変申し訳ありませんでした…。
>議事録に出て来る「消された一族」
この本、私も読んでいないので、何とも言えませんが、世良田氏は南朝方付き足利尊氏に抵抗した為、親季の代で地頭職も失い没落しているようです。
>すると家康自身が「父祖からの言い伝えを信じてた」って形跡は無いんですかね。
その件で言うなら、家康公の祖父の松平清康公の代に、岡崎市鴨田町にある松平家・徳川家の菩提寺(大樹寺)に清康が建立した逆修供養塔の棟礼に世良田二郎三郎清康と書かれていることや、世良田清康と書かれた文書も残っていることから考えると、二代前から(若しくは家康公の陰謀?)作られていたのかもしれませんね。
>系図
系図ありがとうございます。よろしいと存じますよ。
それでは、義季よりも前を参考に紹介しておきます。(正しく表示されるか不安です。)
清和天皇…源義家__源義国__足利義康…足利尊氏
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| |_新田義重__里見義俊
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|_源義親・・・源頼朝 |_山名義範
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|_新田義兼… 新田義貞
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|_世良田義季
>得川の流れ(?)はこっちに行っちゃったと思っていいですかね(^^;)。
得川姓を名乗るなら、領地を持っていた頼有が正当だと考えてよろしいと思います。
>それはそれで立派な伝統
確かに、私は家康公を地元の名士としても尊敬しておりますので、敢えて火種になることを申すのも吝かではありません。
ただ、世良田村(現尾島町)の方々が、家康公が世良田親氏を家系図の中に入れ、源氏正当性を目論んだ(近年では可能性が高い)ことを知っているのか、疑問もありましたので…(知っておいて下さればと思います。)
なお、得川(徳川)発祥の地は間違えないことを、私も認識しております。
系図の疑惑を抱かせる要因としては、家康公が吉良家から得た系図をもとに、新田義国以来の系図を整えていた事実があるようです。
源氏姓にこだわったのには、家康公の威厳を高める為に必要だったかもしれませんね。
>千姫にゆかりの寺(満徳寺)があるやに見掛けましたが
縁切寺満徳寺ですね。義季の娘浄念尼の開山による尼寺で、千姫も豊臣家と縁を切り本多家へ再嫁するため、満徳寺に入寺したと伝えられています。
また、長々書いてしまい申し訳ありませんでした。
感謝申し上げます。
<灰色蜥蜴さま [東海]
2003/02/11(Tue) 08:47>
三河武士さん
はじめまして、牧野氏ゆかりの牛久保在住です。
「消された一族」は、でた当初に読みました。
家康については、手筒煙火に関する書付や弓の(携帯)許可状(一応、雪荷派の継承者で免許所持者です)などから考えると「史疑」などに書かれているように松平氏との関係は、疑わしいといえると思います。
「史疑」に書かれている松平元康と徳川家康の合戦の話、あれは、豊川流域左岸(旧八名郡)の被差別部落の近くの話で、実際、あそこからは戦国時代の鏃が沢山出ています。因みに合戦があったとの旨は、その被差別部落の伝承で残っているだけで、資料等には、記載されていません。
弾家も実際は、牧野氏に従って上胡から江戸に入ったという説もありますし
車善七についても佐竹氏家老・車丹波守云々以前の由緒書では三河渥美の出とあります。
田原に車神社がありますし、八名郡にも車神社があります。
<三河武士さま [東海]
2003/02/11(Tue) 14:36>
初めまして、灰色蜥蜴様
お話ありがとうございます。
「史疑」→「史疑徳川家康事蹟」村上素一郎氏著、幻の家康論ですか…明治35年に刊行されるや絶版になった問題本ですね。
全文読んだことがありませんので、私が知っている範囲では、徳川家康は松平広忠の嫡男ではなく、願人坊主の血を引く○○○者であるということが言いたいのでしょうか?
ともあれ、家康影武者説よりも、松平元康と徳川家康が別人説を唱えていることは注目ですね。
灰色蜥蜴様が言われる根拠は、豊川流域左岸の話のようですが、灰色蜥蜴様は実際に聞かれたことがあるのでしょうか…(疑問)
「史疑徳川家康事蹟」は、あまりにも飛躍しているため研究の余地はありそうですが、歴史学者の間ではその正当性は低いと存じます。
灰色蜥蜴様の話、(家康公や車善七氏のことなど奥が深そうです)もう少し聞いてみないと分かりませんが、私自身、史実を絶対とは思っていません。
歴史をいろいろな角度から見ることも必要だと考えます。
しかし、あまりにも逸脱した話は、余程の歴史的根拠がない限り、逸話や民話の域と変わらないと思いますね。
<灰色蜥蜴さま [東海]
2003/02/11(Tue) 15:34>
三河武士さん
豊川在住ですから実際に聞いております。
子供の頃、鏃を拾った覚えもあります。
この話は、祖父(私の家は、曾祖父の代まで代々三河の香具師の元締めをしていました)からも聞いておりますし、その豊川流域の左岸の部落の知人からも聞いています。
それと、弓の許可状は、西三河、家康の本拠とされる岡崎にないのが、非常に気になる点です。
手筒煙火についても家康が火薬研究のためという言い伝えや書状が残っているところがあります。
こうした言い伝えがあること自体、後に幕府が言論統制を敷いたことを割り引いて考えても何かあるのではと考えられます。
<三河武士さま [東海]
2003/02/11(Tue) 20:30>
灰色蜥蜴様
>家康の本拠とされる岡崎にないのが、非常に気になる点です。
うむ、三河岡崎が家康の本当の出身地なら、徳川家の直轄にするのが本来であり、家臣の水野五万石にする筈がありませんね
「三河物語」の著者、大久保忠教(彦左衛門)や天海大僧正(惟任日向説)などは当然事実は承知の人物であると考えられます。
「三河物語」も捏造の可能性が高い書物であるというのには、「森山崩れ」(信玄の、「家康、元康別人知悉説」)の真実?家康二人説や世良田二郎三郎の件なども伏している可能性もありますね。
水平社運動など、日本では幾多の問題を乗り越え今日があります。
歴史の中で消していくのではなく、真実を見つけて行く事が大切です。
余談ですが、八切止夫氏の著書にもいくつかの仮説本があります。
既にお読みになっているかもしれませんが、いろいろな仮説楽しめると思います。
<ピンクのトカゲさま
[東海] 2003/02/11(Tue) 22:15>
三河武士さん
高校時代にワルやってた時分の仲間が、三河時代の弾家と関係があったという「その筋」じゃなかなかのやつなんです。
で、菅江真澄の出自や銅鐸と被差別部落の関係などの話をしているうちに、家康の話題になって、聞いたんです。
彼らの間では、ある種の常識です。
家も香具師でしたから、それなりの伝承聞いてるんですが、八切のは眉唾です。
あれは、ある程度、直接情報得た人間からしたら孫引き以下の情報を基にしています。 |
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