<掲示板・議事録>


     
  箱根神社、節分豆まき、2


<東方賓従者さま [関東] 2003/02/08(Sat) 22:45>

こんばんは。
いよいよ連休突入ですね。今日はさすがにいつもよりも国道1号線や伏線が混んでいました。
こたつ城主ご夫婦はどちらかお出かけになるのですか?

>その後の成り行きを聞く限り、プレゼントしちゃった屋敷に、今川
>方の兵(でなくても、せめて使用人)など全然入れてなかった感
>じに思えるのですが(汗)。

私もそう思います(笑)。大使館じゃないんだからねぇ(笑)。
しかし、その前に思ったのですが、駿府から那古屋は遠すぎるでしょう!数少ない兄弟(あとは殺し・・いや、若死にするか出家しちゃってるし・・)を養子に送ったって事は、次世代の家督争いを避ける為だったのかな・・・。
当時の駿府はかなり栄えてたと思いますよ。西の大内・東の今川と(京の比較できる文化として)か言われてたようですし。武田氏や北条氏の中央文化も今川氏を仲介にしてるものが大分多いと思います。



<QUBOさま [関東] 2003/02/09(Sun) 23:12>

こんばんわ。はじめまして
のりちゃんちから、まぎれこんできました。よろしく。

ちょっと前に話題になっていた「今川義元」について。
輿に乗って進軍したけど、@京都の貴族の真似をしたかった。
A足が短すぎて、馬に乗ると落馬するので輿にした。
こんな話を聞いたことがあります。なにかご存知だったら教えて下さい。



<こたつ城主 [関東] 2003/02/10(Mon) 08:32>

>東方賓従者さま

そうそう(^^;)。明日も休みだったんですね(←トロイ奴)。そうか。国道混んでますか。世間を知らずに生きてたなぁ(笑)。
明日は出掛けるように思います。昨日は買出し(笑)。明日も似たり寄ったりだと思いますが。

>しかし、その前に思ったのですが、駿府から那古屋は遠すぎるでしょう!

いや、私もなぜ那古屋が出て来るのかな、と思ったんですが(^^;)、その後で織田信秀が那古野に進出した話が出て来たんで、何となく納得しちゃったです(笑)。
まあでも、義元自身がさんざん揉めた後に出て来た人なので、家督争いを避ける風潮は強かったでしょうね。

>西の大内・東の今川

こういった描写が、確か「北条早雲」にも出て来ました。比べれば朝倉氏というのは新興だったんでしょうかね(山があるしね)。



<こたつ城主 [関東] 2003/02/10(Mon) 08:34>

>QUBOさま

こんにちは。のりちゃん所でお見掛けしております。こちらこそ宜しくです。

今川義元が輿に乗って進軍……ドラマでもよく見かけますよね(^^;)。いや〜、私は知りません。出典は信長公記あたりかなぁ。
真似と言いますか、当時の今川氏は公家より余程豪勢に暮らしてたでしょうから、「したかった」と言うより、「やれば出来た」って事でしょうね。
まあ馬に乗らなくても大将は務まりますが、後年は肥満気味だったのかもしれませんね。



<QUBOさま [関東] 2003/02/10(Mon) 15:28>

>こたつ城主様
今川義元さんへの早速のお返事、有り難うございました。
まあ、鉄漿(おはぐろ)もしてたって云うので、公家のまねかなあ?



<北畠具顕さま [東海] 2003/02/11(Tue) 11:20>

義元の馬に載らない話。
「太りすぎ」と言うのは他の人でもよく聞きます。北畠具房、豊臣秀頼・・・・。
しかし秀頼は最後は馬に乗りましたしねぇ。

結局貴族趣味だったのではと思いますが。
 
     

     
  <こたつ城主 [関東] 2003/02/12(Wed) 06:57>

>QUBOさま

鉄漿(おはぐろ)は平安時代に貴族に、室町記ごろは武家に浸透したようです。このルートを見ても公家の真似でしょうね(^_^;)。
鎌倉武士は「貴族の真似なんか武士が廃る」と突っ張った時もあったでしょうが、南北朝以降「そんなの古いぜっ」となったのかも?(笑)



<こたつ城主 [関東] 2003/02/12(Wed) 07:03>

>北畠具顕さま

北畠具房も肥満だったのですか(^^;)。
そもそもこの時代の肥満に関する人物描写って、悪口なのか誉め言葉なのかにもよりそうですね(笑)。
秀頼は肥満もあったかもしれないけど、巨体だったようですね。当時の馬は小さかったので、大きな体の人は馬に乗りにくかった(乗馬が出来ないと言うより、絵にならないから人前で見せるのを憚った)という事は考えられそうです。



<北畠具顕さま [東海] 2003/02/13(Thu) 11:05>

>秀頼は肥満もあったかもしれないけど、巨体だったようですね。
ドラマではお坊ちゃまがやりますがねぇ。(笑)
あと、二条城会見の時牛を見て驚いたそうですよ。見たことなくて。



<こたつ城主 [関東] 2003/02/13(Thu) 13:51>

>北畠具顕さま

秀頼。お坊ちゃんはお坊ちゃんじゃないかなっ(^^;)。
牛見て驚いた話、どっかで見ましたね!
ドラマでは食い物を珍しがって、家康と馴染むんですよね〜(笑)。
 
     

     
  世良田東照宮と三河、1


<三河武士さま [東海] 2003/02/08(Sat) 16:30>

初めまして、三河武士と言います。
いきなりで大変申し訳ありませんが…
群馬県に、世良田東照宮と言う徳川家発祥の地と称す所が存在するそうですが、当家三河松平家とは、委細関わりがありませんので勘違いなされない方がよろしいかと存じます。



<こたつ城主 [関東] 2003/02/08(Sat) 20:28>

>三河武士さま

はじめまして。
スイマセン(^^;)。どの辺りをご覧になられて仰ってます?
思うに「戦国商品を作ろう」の、議事録「103〜104」辺りかと推測しますが。



<三河武士さま [東海] 2003/02/09(Sun) 13:41>

こたつ城主様、戦国旅行編 議事録103.104.115の件です。(古い話で申し訳ありませんが…)

>この親氏がそもそも結婚した娘(三河国加茂郡松平郷出身
>の小豪族、松平太郎左衛門の娘)の松平氏ってのがどっか
>ら始まったのか、私もわからないんです(^_^;)。もしかして兄
>の政親が「世良田」で、弟の親季から「松平」が興ったので
>しょうかね。

松平親氏と名乗ったのが家康の先祖であるという記述は、「三河物語」大久保忠教(彦左衛門)が書き記した書や、「徳川実記」にも確かに記述があります。
これは、家康公の源氏正当性を主張するために創作されたと書物である可能性が高いのです。
世良田村については、仁安三年(1168年)六月二十日付の新田義重の書状に、領土を与える際に世良田郷の名ありますが、得川郷(旧名)の名は一切ありません。
また、承久三年(1221年)義季は長楽寺を建て、文永九年(1272年)十一月十八日付の長楽寺住職の書状に、「世良田地頭御建立長楽寺」とあることから、義季は世良田郷を本拠としたことが分かります。
得川という姓に繋がる記述は無いため、「世良田義季」が正しく、義季は得川姓を使わなかったと言えます。
世良田義季はその後、得川郷(開墾して)を息子「得川頼有」に与えます。
得川郷を領有していたのなら得川姓だったという後世の推論ですので、徳川姓はありえません。ましてや、頼氏が「得川」を名乗るのはおかしな話です。
従って、「得川頼有」も「世良田頼有」と呼ぶべきが正当なのかもしれません。
頼有は、娘の子岩松政経に得川郷、横瀬郷、下江田村を与えています。
その後は、世良田の地の実権も世良田から岩松へ移っていきます。
歴史の中で、世良田氏の姓は翻弄され姿を消していきます。(別に消された分けではありません。)
魔矢様>三河松平氏は新田一門の出であるということが確定的な事実としてまかり通っております。
世良田ではそのよなことを…(疑問)
余談ですが、世良田親氏が松平との関わりを否定するひとつの理由として、享和二年二月(1802)に武蔵国多摩府中の称名寺の竹林の中から、世良田親氏の碑が見つかった際、幕府が封印したことからも怪しいです。
全ては、家康公が征夷大将軍となるのに、源氏の正当性を主張するために作られた話を家臣達が協力し書物に残した。
更に、三代将軍家光公が世良田の地に東照宮を移築したことにより、正当性を主張したとも考えらますね。

長々と書きまして大変申し訳ありません。別に体はありませんが、少し私が思っていたことを書かせて頂きました。ありがとうございます。



<こたつ城主 [関東] 2003/02/10(Mon) 08:32>

>三河武士さま

やっぱその辺りでしたか。いや、話題が古くても、その後何かわかったという事も無いんですよ(笑)。議事録に出て来る「消された一族」もまだ読んでませんし。

>>兄の政親が「世良田」で、弟の親季から「松平」が興ったのでしょうかね。

これは、弟の家系から後に起こったという想像をしてるんですが、つまり「親氏が松平と名乗った」あたりから、「三河物語」や「徳川実記」の創作(この辺りからして家康の命令?)って事でしょうか。
すると家康自身が「父祖からの言い伝えを信じてた」って形跡は無いんですかね。正直この辺りがよぉ判らんのですよ(^^;)。
ちなみに、三河も実記も私は読んでません。引用ていどに出て来る本で見たぐらいしか。

その後に続いた話の、特に世良田と得川の枝分かれについてですが、前にネット上で探した系図を取っておいて、系図の話がワケわからなくなると参考に見てる物なので、トップから行ける所にリンク貼ってないのですが(よって元のURLも今は不明(^^;))、見てる人に判りにくい話なので、ちょっと出しましょうか。↓
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/tokugawa/tokugawa.txt

まず、これで合ってるかという問題があると思うのですが、これによると「得川」が出るのは義季から数代下ってから……という感じで、得川の流れ(?)はこっちに行っちゃったと思っていいですかね(^^;)。お話にある、頼有の娘の子が入ってませんが。

議事録の話題に出て来た、群馬の人が徳川家発祥の地と思ってる話は私もちょっと意外でした(^^;)。これは江戸期もそうだったって事でしょうかね。その流れが今も土地に受け継がれてるのだとしたら、それはそれで立派な伝統になっちゃってたり……(^^;)。

>更に、三代将軍家光公が世良田の地に東照宮を移築したことにより、
>正当性を主張したとも考えらますね。

千姫にゆかりの寺(満徳寺)があるやに見掛けましたが(これも議事録にあります)、すると確信犯(スイマセン(^^;))と言えるのは、家光(あるいはこの頃の幕閣)あたりって事でしょうかね。
スイマセン。尊称略で書かせて頂いてます(^^;)。
 
     



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