<掲示板・議事録>

三河と尾張、3

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/12/05(Thu) 08:53>

>こたつさま

頼朝のサイト紹介有難う。
紹介のサイト少し気になる点がありましたので、まずはそれから

>義朝は源氏の氏神様みたいな八幡太郎義家の直系の曽孫
>である。つまり義家の長男の長男の長男である。つまり源氏
>の嫡流で最も家柄がよいのである。源氏の一門にとっては
>それだけで仰ぎ見られる存在である。

義家の長男は、義宗で、長男義宗が夭逝したため、二男の義親が嫡子となります。
この義親は、前にも書きましたが、人民を殺害したり、公物を横領したりで廃嫡となります。そして、義親の六男で、義忠(義親の弟)の嗣子となっていた為義が嫡子となります。この為義の子が頼朝の父・義朝です。したがって、義朝は、義家の二男の六男の長男になります。
結果として、頼朝が覇者となり、幕府を開いたことから源氏直系(棟梁)といわれるようになっただけで、木曽義仲が幕府を開いていれば、木曽義仲こそが源義仲となり、頼朝は、おそらく、伊豆頼朝とでも言われていたと考えられます。
頼朝挙兵の当初、北条氏などわずかな者しか従っていなかったことからも、源氏の一門から仰ぎ見られた存在であったわけではなかったのです。

>頼朝の母は、日本一の「武」の神社の大宮司の娘で正妻である。

頼朝の母は、藤原李範の娘なわけですが、この熱田大宮司家は、李範の父・藤原李兼(南家)が養子に入ったわけで、元々熱田大宮司家は、尾張氏を名乗っており、尾張国造の直系だったわけです。
この尾張国造家が、壬申の乱の際の吉野方の勝利に大きく寄与するわけで、熱田大神は、神体草薙の剣の依代とされていますから、剣に象徴される武神といえます。
上述のように、結果として、頼朝が覇者となったため、男系の視点から源氏の棟梁となるわけですが、当然熱田大宮司家が裏で大きく動いていたと考えられます。
また、頼朝の父・義朝は、知多半島の野間で最期を遂げるのですが、このとき木刀一本あればの言葉を残し、丸腰で殺害されています。
義朝が、尾張の地・野間で安心しきっていたところを襲われたわけですから尾張の地と頼朝の父・義朝の関係も深いものがあったと考えられます。このことからも頼朝挙兵に際し、尾張が動いたということの傍証になるのではないかと思います。

>明智定明に嫁いだのは、定継定直兄弟の姉妹か、定継の孫
>の定利の姉らしいのですが、後者の方が時代的に合うかもし
>れません。

明智定明というと、明智城主・明智頼明の子でしょうか。この人物は、生年不明、没年天文21(1552)年ということになります。定明の子の土岐定政(1551〜1597)の母は、菅沼定仙の娘とされていました。

>すいません。布里・雨山の戦いは出て来ました(^_^;)。物凄い
>骨肉の争いですね(汗)。こうですか(汗)。

パチパチパチ そのとおりです。もう少し周辺の状況を書くと、二連木城主(豊橋市仁連木町)戸田宣光、伊奈城主(宝飯郡小坂井町伊奈)本多忠俊も今側方についています。

>おふうを「信昌の前妻」とするのは、わりと出典関係がいい加
>減な本(と個人的には思うので、あえて著作名は出しません)です(笑)。

思い出しましたが、これ、個人的に確かな出典と思う本にも書いてあったような気がします。昨年、90幾つかで亡くなった新城の大原紋三郎(三原屋という江戸時代から続く薬屋で大原紋三郎は、世襲名)さんの著作に書いてあったように思います。大原先生は、真面目な方で、伝承も裏付を取って検証される方でしたから、大原先生の著作に書いてあったとすれば、かなり確率高いですよ。
一度、確認して見ます。



<こたつ城主 [関東] 2002/12/05(Thu) 19:36>

>ピンクのトカゲさま

私の持ってる系図でも、
http://www.page.sannet.ne.jp/kotatu/hyo/itiran/genji.txt(手前ミソであります(^_^;))
の通りでして、これを見る限り、あたかも義朝は直系の長男のごとくに「見え」はします。

が、こうした日本史年表の系図というのは、まま割愛があるものでして(全部書いたらキリがないし不明な家系も多いので(^_^;))、夭折した長男などはヌキになってても仕方ないと思います。

ただ、この年表以上の事に詳しくない私が言うのも僭越ではありますが、提示したサイトの著者は数々の著作もある著名人ですので、そういう立場の人が「長男の長男の長男である」とハッキリ断言しきると、例えば私だったら「そうなのか〜」と思ってしまいそうです(^_^;)。

義経も義仲も、一度は京で認められた経緯がありますよね。
前回私が書いた、悪源太義平から九郎義経までの兄弟の順番も、必ずしも合ってるか疑問とも聞いた事があります。
当時から頼朝だけがハッキリと認められた嫡流だった、と言うよりも、やはりトカゲ様の仰る通り、結果的に幕府の長となったから、それ以後、血筋や順番へのこだわりが芽生えたのではないかと私も思いますし、その基盤を支えた功労がそれほどに大きかったからこそ、その後北条氏の権勢が強くなったようには思えますね(^_^;)。

頼朝の母の家系ですが、壬申の乱に貢献した武勲の家系、という事であれば、どこぞの地元の豪族とは違い、ともに朝廷を支えあう家柄同志の結婚という意味合いはあったのでしょうね。頼朝は平家を倒したかったわけですから、平氏が朝廷に仇なす家系と決め付ける上では、この血筋は物を言った(言わせた)のでしょうねぇ(笑)。

義朝の最期は、明確に覚えてます。『新・平家物語』で見ました。「風呂に入ってる丸腰の武将を殺害」というケースをドラマで見た一番最初でした。
これが尾張での事だったから、汚名をそそぐために頼朝の挙兵に尾張が応援した、という意味でしょうか? その逆?

>明智定明というと、明智城主・明智頼明の子でしょうか。

一応その家系で考えてます(きっと諸説あるのでしょう(^_^;))。

>定明の子の土岐定政(1551〜1597)の母は、菅沼定仙の娘

これがですね〜(苦笑)。前述の『山家三方衆』では、定仙の姉になってるんです(^_^;)。それで定継の姉妹、なんちゅう説が出て来ます。
一方、定利の姉妹とするのは、『明智物語』に「菅沼小大膳利貞(定利)の姉」と出て来るそうです。
定政自身は家康の近侍となり取り立てられますから(井代菅沼氏ですね)、これ以後は明確なのでしょうが。

おふうが「信昌の前妻」というのは、まんざら眉唾でもないんですね(笑)。
もしかしたら、山岡荘八さんの『徳川家康』あたりもこれを採用してるかも。家康側から書くには、「妻を見殺しにしてまで自分についてくれた男意気に感じ入り、長女を与えた家康」は、それなりエライですからねぇ(笑)。
そして例えば、結婚に反対した築山殿と仲が悪くなるには、絶好のチャンス(爆)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/12/05(Thu) 20:14>

>こたつさま

>提示したサイトの著者は数々の著作もある著名人ですので、
>そういう立場の人が「長男の長男の長男である」とハッキリ
>断言しきると、例えば私だったら「そうなのか〜」と思ってしま
>いそうです(^_^;)。

そうですね。読んだことないですが、名前は書店などで何度も目にしてますから
それと、義親が廃嫡されて、一旦は、義国が家督を相続するんです。あとで、朝廷がこれを覆すんですが、
そうしたことから、義親廃嫡っていうのは、後に義国を祖とする足利や新田は、正当だという根拠になるわけです。
義親が廃嫡になって、その六男の為義は、義国の弟の義忠の嗣子になるわけですから、義国に朝廷の横槍が入らなければ、義国こそ源氏の棟梁であったわけです。
森乱丸の家系も義国の弟が祖でしたよね。

>義経も義仲も、一度は京で認められた経緯がありますよね。
>その基盤を支えた功労がそれほどに大きかったからこそ、その後北条氏の権勢が強くなったようには思えますね(^_^;)。

義経は、戦争は強いですが、政治的センスはゼロですからあり得ないことですが、仮に義経が幕府を立てていれば、奥州藤原氏が執権の座についていたかもしれませんね。
歴史に「もし」は、禁言ですが、奥州藤原氏は、大陸とも貿易をしていましたから、元寇の折にも違う対処ができたかもしれません。

>頼朝の母の家系ですが、壬申の乱に貢献した武勲の家系、と
>いう事であれば、どこぞの地元の豪族とは違い、ともに朝廷を
>支えあう家柄同志の結婚という意味合いはあったのでしょうね。
>頼朝は平家を倒したかったわけですから、平氏が朝廷に仇なす
>家系と決め付ける上では、この血筋は物を言った(言わせた)
>のでしょうねぇ(笑)。

平安時代は、まだ関が原以東は、東国ですから、その東国の中でも都に一番近い尾張が味方についたことは大きいと思います。また、尾張氏は、元々、火明命を祖とする海人ですから、水軍を要する平家妥当には、必要な氏族だったのではと思います。

>義朝の最期は、明確に覚えてます。『新・平家物語』で見ました。
>「風呂に入ってる丸腰の武将を殺害」というケースをドラマで見た
>一番最初でした。

このときの風呂は、まだ湯に浸かるものじゃなくて、蒸し風呂でした。

>これが尾張での事だったから、汚名をそそぐために頼朝の挙兵
>に尾張が応援した、という意味でしょうか? その逆?

平家平定後、義朝を討った人物(名前失念)は、鋸引きか何かにされたんじゃなかったですか。

>これがですね〜(苦笑)。前述の『山家三方衆』では、定仙の姉に
>なってるんです(^_^;)。それで定継の姉妹、なんちゅう説が出て来ます。

時代的には、その方が合うような気もします。

>定政自身は家康の近侍となり取り立てられますから(井代菅沼
>氏ですね)、これ以後は明確なのでしょうが。

井代というと、豊川の支流・宇連川(長篠城のところで、豊川は、寒狭川と宇連川に分かれる)沿いの湯谷温泉(南設楽郡鳳来町)より少し東にあります。

>おふうが「信昌の前妻」というのは、まんざら眉唾でもないんですね(笑)。

大原先生の本で確認しておきます。これは宿題ですね。



<こたつ城主 [関東] 2002/12/06(Fri) 21:34>

>ピンクのトカゲさま

前もお聞きしましたね。一度は新田&足利に到る義国が家督を相続した話。
一度廃嫡になった義親の長男以下は、それぞれ然るべき家の養子にでもなってたのでしょうかね。六男の為義だけが残ってたのかしら。朝廷の関与というのも意味深ですね。

>森乱丸の家系も義国の弟が祖でしたよね。

そうなんですよね。新田&足利系の煌びやかな家系図に押され、ズズッと下に行ってますが、この家系から将軍家への野望でも出ればどうなってたのでしょうね(笑)。

義朝を討った人の鋸引きは知らないですが、『国盗り物語』にあった話で、中仙道の美濃と近江の国境の「山中」に、いつも同じ場所に座っている乞食がいて、信長が上洛の行き来に通りかかって仔細を聞くと、その先祖が常盤御前を殺した(ホントは殺されてないけど(^_^;))因果応報で代々足萎えが生まれ、家も建てて貰えないと聞き、信長は次に通りかかった時、反物を二十反じかに渡し、村人に小屋を建ててやるよう命令した、という話でした。

ホントにあった逸話としても、常盤御前に繋がる家系とは到底思えない(^^;)。しかし公然と使われるほど、義朝にまつわる悲劇は地元に密着してるのか、と驚いた覚えのみあります。
関東では、頼朝の決起にまつわる逸話は有名ですが、その前段階は物語の世界なので。

同じように義経の話も、奥州藤原氏に絡んで、東北には数々あるでしょうね。とうぜん目論見あって義経を匿ってたと思います(笑)。

おふうについて、何かわかったら又教えて下さいませ(^^)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/12/09(Mon) 22:05>

>こたつさま

>前もお聞きしましたね。一度は新田&足利に到る義国が
>家督を相続した話。一度廃嫡になった義親の長男以下は、
>それぞれ然るべき家の養子にでもなってたのでしょうかね。
>六男の為義だけが残ってたのかしら。朝廷の関与という
>のも意味深ですね。

為義が義親の六男と書いてあるのは、たしか新田(世良田)系図だと記憶しております。為義のほかで、名がわかっているのは、義信しかいないと思います。

>そうなんですよね。新田&足利系の煌びやかな家系図に押さ
>れ、ズズッと下に行ってますが、この家系から将軍家への野
>望でも出ればどうなってたのでしょうね(笑)。

義家の子も義家、義宗、義忠、義国、義時、それに乱丸の祖・義隆、増珍、信実の九男がいるんですよね。面白いところでは、琉球王朝の祖が、系図上は、鎮西八郎為朝(頼朝叔父)の子としているんですよね。

>義朝を討った人の鋸引きは知らないですが、『国盗り物語』に
>あった話で、中仙道の美濃と近江の国境の「山中」に、いつも
>同じ場所に座っている乞食がいて、信長が上洛の行き来に
>通りかかって仔細を聞くと、その先祖が常盤御前を殺した(ホン
>トは殺されてないけど(^_^;))因果応報で代々足萎えが生まれ、
>家も建てて貰えないと聞き、信長は次に通りかかった時、反物
>を二十反じかに渡し、村人に小屋を建ててやるよう命令した、
>という話でした。

義朝を討ったのは、長田忠致でした。義朝は、長だの館に安心して止まって風呂に入っているところを襲われたのですから義朝は、尾張は安全だと思っていたと思われます。 鋸引きは勘違いでした。が、事実上関東を掌握した頼朝の下に長田親子が来たとき、罪を許し、西国遠征軍に加わり、軍功を上げたが、征夷大将軍になった後、かなり残虐な殺し方(土磔にかけて、なぶり殺しにした)をしたようです。

>同じように義経の話も、奥州藤原氏に絡んで、東北には数々あ
>るでしょうね。とうぜん目論見あって義経を匿ってたと思います(笑)。

自分とこのこたつさんのレスで光明子と鳳来寺の伝説について書きましたが、鳳来寺は、義経と浄瑠璃姫の悲恋の舞台でもあります。家康も鳳来寺の薬師一二神将の一つダラニ神将の生まれ変わりといわれていますし、鳳来寺も面白いですよ。

>おふうについて、何かわかったら又教えて下さいませ(^^)。

手元の大原先生の著作には、ないようですから、今度図書館で見てきますね。



<KUBOさま [北海道] 2002/12/09(Mon) 22:42>

>ピンクのトカゲさん
> 為義のほかで、名がわかっているのは、義信しかいないと思います。

 ちょっと引っ越しのため『尊卑分脈』をしまってしまったので、ほかの資料で確認 しましたが、長男・源義信、次男・対馬義俊、三男・対馬義泰、四男・武曽宗清、五 男・竹向義行だそうです。(『清和源氏の全家系』より) 『姓氏家系大辞典』にも同 様に出ていましたから間違いないと思います。ただ、彼らやその子孫がどのような境 遇にあったのかは判然としないようです。
 
     



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