<掲示板・議事録>

三河と尾張、2

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/11/28(Thu) 08:35>

>こたつさま

>ああ、静岡と愛知の県庁所在地は互いに離れてますよねぇ。……なるほど。

逆に、名古屋と岐阜は、他県でも近い。信長なんかも終わりから岐阜に進出していますし、美濃の「濃」と尾張の「尾」で濃尾平野なんですから、尾張と美濃が一つの文化圏ですね。 ですから、明治のときに、尾張と美濃が合併して、三河砥遠州が合併するべきだったと思います。
ついでに言えば、飛騨は、越中富山あたりと

>三河という地名も、元は西寄りから出て来たのですねぇ。
>東の穂国は、いわゆる山家三方衆のいた地域がそうなのですね。

西の矢作川とその支流の男側、それに、東の豊川の三つの河川から三河と呼ばれるようになったとする説がありますが、豊川流域は、大化の改新以前は、穂国ですし、そのころ矢作川流域は既に三河と呼ばれていたのですからこの説はから成り立ちません。
三河の「み」は、御吉野(みよしの)の「み」と同様、敬称と考えるべきで、大河といえるほどではありませんが、矢作川を御川と敬称をつけて読んだのを始まりと見るべきです。
一方、穂国は、大化の改新以後、穂郡(ほのこおり)となり、715年の好字二字令(地名を好い意味の二字に改めよという命令。これにより木国は、紀伊国と表記されるようになる)により宝飫郡(ほおのこおり)となります。宝飫がいつのまにか宝飯と表記されるようになり、これが今の宝飯(ほい)郡です。
山家三方衆は、設楽郡を本拠にしたわけですが、延喜式によれば、「延喜三年(九〇三)八月一三日に宝飯郡を割いて設楽郡を置く」と記載されていますから、山家三方衆も穂国を本拠にしたことになります。
山家三方衆の一つ奥平氏は、村上天皇を祖とし、上州甘楽郡司に任命された児玉氏が、上州下奥平に居を構えたことから奥平を名乗るようになったとされています。
奥平氏がいつ頃、設楽郡に来たかは定かではありませんが、天授年間(1375〜81)頃には、作手(つくで)に城を築いていたようです。
一方、菅沼氏の出自については、諸説あり、一説には、土岐氏が作手村菅沼に興ったことから菅沼を名乗ったとされます。嘉吉年間(1441〜44)には、作手から田峯に出て田峯城を築いたといわれます。

>私が奥平氏を知ったのは、信玄没後の武田家を舞台にした
>漫画が最初で(また漫画(^_^;))、漫画では、イキナリ武田家に
>出されてる人質ってのが出て来て、これと武田家の姫が恋に
>落ちるんですねぇ(笑)。

信玄が死んだことが知れると、それまで武田方の傘下にあった奥平貞能、信昌父子は、家康に与し、武田方に人質に出されていた信昌の弟・仙丸ら三人が処刑されています。この信昌が長篠―設楽原合戦時の長篠城主で戦後、家康の長女亀姫を室に迎えます。
漫画の人質って言うのは、このときの人質でしょうか?

>信玄の南下政策を知ったのはそれより後で、ああ、諏訪をおさ
>えたあの延長線上にあるんだなぁ、と思ったものです。長く交流
>のあったルートではあったのですね。

信玄が奥三河に侵攻するのが元亀元(1570)年です。信玄の南下のルートは伊那街道でこれは、現在の豊橋と飯田を結ぶ国道一五一の基になります。
諏訪湖から流れ出た天竜川は信州―遠州を通り、遠州灘に注ぐわけですが、今シーズンの花祭りが行なわれている東栄町は愛知県ですが、この天竜の支流の大千瀬川の流域です。この大千瀬川などの天竜の支流と三河湾に注ぐ豊川の源流部の支流は、網の目のように交差しており、三河、遠州、信州の国境は、天竜&豊川と言う水路で繋がれています。



<こたつ城主 [関東] 2002/11/28(Thu) 21:20>

>ピンクのトカゲさま

そうそう。地図を見て、名古屋と岐阜の近さを改めて再確認しました。県庁所在地は必ず都市として発展するとは言うものの、まあ都市というもの自体が、必ずしも計画的人工的に作りきれるものではないので、仕方ない地域もあるだろうとは思いますが……。

三河の語源! 矢作川と男川と豊川なんて説があるんですね〜! あらためて「三つの川なんだ(^^;)」と思いましたが、定説ってものでも無さそうですね。

>715年の好字二字令(地名を好い意味の二字に改めよという命令。

ハッキリと年代を知らなかったし、法令という程の決まりとは思ってませんでした(^_^;)。ただ、いつの間にか紀国とか越国とかになったのではなく、人工的な命名だったと聞いた覚えが……。

奥平氏と菅沼氏は、元はキッカリ違う氏族だったのですね。三方衆というのは、一種の一揆繋がりなのでしょうかね。
菅沼氏には、確か桔梗紋が伝わっていたと思います。だから土岐氏の可能性はあると思います。
ここにもナント、明智光秀に絡んだ伝説がありまして(^_^;)、田峯菅沼定継か定利の姉妹が、光秀の父の従兄弟にあたりに嫁いだそうで、後に光秀の娘が、野田菅沼氏に身を寄せたとか寄せなかったとか聞いた事がありました。

漫画の人質は奥平氏の仙丸です。この兄信昌が後で家康の長女を貰った話は、後になって知りましたが(^_^;)、土地の伝説によると、信昌の妻も人質として殺されたとか。
物凄く明暗の分かれた一族ですよね(汗)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/11/29(Fri) 11:50>

>こたつさま

>奥平氏と菅沼氏は、元はキッカリ違う氏族だったのですね。
>三方衆というのは、一種の一揆繋がりなのでしょうかね。

設楽郡は、鎌倉時代には、熱田大宮司家(頼朝の母の実家)と類縁の千秋氏が野田館垣内城(後に野田城となる)治めていました。足利尊氏の挙兵に呼応したのが、うちの母方とも係る富永直郷です。それ以降、千秋氏に代り富永氏が設楽郡を治めます。しかし、直郷から6代後の久郷の代になると、その領地はわずかとなり、久郷の子・千若丸の夭逝により菅沼氏が野田に進出します。母方の言い伝えでは千若丸は、首を撥ねられ、菅沼氏に乗っ取られたとされています。

>菅沼氏には、確か桔梗紋が伝わっていたと思います。だから
>土岐氏の可能性はあると思います。

「寛政重修諸家譜」によれば、「美濃住人土岐資長が菅沼九朗左衛門忠通の婿となり、菅沼家を継いだ」あるいは、「永享6(1434)年、土岐信濃守定直が、三河の住人菅沼信濃守俊治を討ち、土岐を改め菅沼を名乗った」としています。
菅沼の婿になったとするのは、なんだか徳川家の由来に似ています。一方、土岐信濃守が菅沼信濃守を討ち土岐を改め菅沼を名乗ったとする説も、清和源氏土岐をわざわざ菅沼に改める必然性がどこにあったのかという疑問が残ります。
一方、菅沼家譜では、土岐氏の二男木和田三郎左衛門が菅沼後に鷹狩に訪れ土地の娘との間にできたのが始祖菅沼三郎左衛としています。
千秋氏、富永氏が本拠とした野田は、設楽郡の南に位置し、直ぐ南は宝飯郡です。一方、菅沼氏や奥平氏が本拠にした田峰の地は、現在の北設楽郡に位置し、野田とはかなり距離も離れています。また、田峯から現在の153号線に出て西に行けば、足助や松平郷に通じ、足助の北は、美濃国土岐です。

>ここにもナント、明智光秀に絡んだ伝説がありまして(^_^;)、
>田峯菅沼定継か定利の姉妹が、光秀の父の従兄弟にあたり
>に嫁いだそうで、後に光秀の娘が、野田菅沼氏に身を寄せた
>とか寄せなかったとか聞いた事がありました。

定継というと、富永氏に代り野田城主となった定則の甥ですね。布里・雨山の戦い(1556)では、兄弟は、今川方についていますが、田峯城主の定継だけは、織田方につき布里で自刃しています。一方、定利は、この定継の孫に当たります。

>漫画の人質は奥平氏の仙丸です。この兄信昌が後で家康の
>長女を貰った話は、後になって知りましたが(^_^;)、土地の伝説
>によると、信昌の妻も人質として殺されたとか。

仙丸のほか、信昌の妻も人質に出されているんですか。資料で見ると、額田郡萩の奥平勝次の息子・虎之助と額田郡日近の奥平貞友の娘・於ふうの三人が人質として殺されています。

>物凄く明暗の分かれた一族ですよね(汗)。

先ほどの布里・雨山の戦いなどでは、菅沼氏が織田方、今川方に分かれています。



<こたつ城主 [関東] 2002/12/01(Sun) 23:48>

>ピンクのトカゲさま

野田城周辺にも源氏政権、足利氏政権の痕跡がしっかりとあるのですね〜。そして……下克上か。

菅沼氏についてなら、資長も定直も確認できるのですが、土岐氏となると……(汗)。よほどの支流なのか自称か、私には確認できなかったです(^_^;)。
持ってると言うのも、長篠城址史跡保存会の『山家三方衆』ですから、とうぜん菅沼氏の側から書かれてますし、やはり「土岐氏の支流」を出発点にしてはいますね。まあ一口に支流と言っても、ピンキリだとは思いますが。

で、資長と定直の関係だけ書いておきますと、資長が初代。

資長−定成−(田峯)定信−定忠−広定−定直(三男)

ちなみに、広定の弟の定則から野田菅沼氏が出ています。また定直は定継の弟で、仰せの通り野田初代定則の甥ですが、これの姉妹か甥の娘が、明智家に嫁いでるようなんですが、明智も土岐だと言ってますので、何らか繋がりがあるのかもしれません。

布里・雨山の戦いという名は初めて聞いたと思うのですが、確かに定継は今川氏に叛いて織田氏についたようです。自殺とも義元に誅されたとも言われるそうですが、1556年というと、斎藤道三と義龍があい争っている時期。信長の時代なんですね。

信昌の妻というのは、その奥平貞友の娘だと思います。おふうという名で、仙丸とともに現地には墓があると聞きました。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/12/02(Mon) 12:04>

>こたつさま

>野田城周辺にも源氏政権、足利氏政権の痕跡がしっかりと
>あるのですね〜。そして……下克上か。

頼朝の母は熱田大宮司家の出身ですし、海東大江氏が現在の宝飯郡音羽町あたりに進出していましたから、頼朝挙兵では、その関係で動いています。また、足利家は、三河守護ですからその氏族の仁木、細川、吉良、今川、一色は、すべて三河の地名からきています。ただ、反骨精神というのもありまして、南朝が旗色が悪くなっても南朝に従ったというのもかなりいたようです。東三河は古代からの亡命地的な色彩が濃いところです。

>菅沼氏についてなら、資長も定直も確認できるのですが、土岐
>氏となると……(汗)。よほどの支流なのか自称か、私には確認
>できなかったです(^_^;)。

こちらも資料確認してみましたが、土岐と菅沼がどこで繋がるのか解りませんでした。

>ちなみに、広定の弟の定則から野田菅沼氏が出ています。

今泉の裏切りがなければ、野田菅沼氏はなかったんじゃ〜
野田富永氏だったのに、そうすれば、富永、奥平、菅沼で山家三方衆だったのに

>また定直は定継の弟で、仰せの通り野田初代定則の甥です
>が、これの姉妹か甥の娘が、明智家に嫁いでるようなんです
>が、明智も土岐だと言ってますので、何らか繋がりがあるの
>かもしれません。

この定直が布里城主(鳳来町布里)で定直は、今川方でした。今川と明智の接点というのもありませんから、菅沼氏が完全に織田の傘下に入ってからと見ることができますから甥の娘という線が強いのでは...

>布里・雨山の戦いという名は初めて聞いたと思うのですが、
>確かに定継は今川氏に叛いて織田氏についたようです。
>自殺とも義元に誅されたとも言われるそうですが、1556年
>というと、斎藤道三と義龍があい争っている時期。信長の
>時代なんですね。

菅沼氏で織田方についたのは、定継のほか、定則のこの定円(椿坂で戦死)、定自(与良木峠で戦死)がいました。このときの今側方の先鋒となったのが、定円、定自の兄で野田城主定直です。雨山は、額田町の豊川市よりのところです。

>信昌の妻というのは、その奥平貞友の娘だと思います。おふう
>という名で、仙丸とともに現地には墓があると聞きました。

於ふうは、貞友の娘です。現地の墓は見たことありませんが、額田町桜形に二人の首塚があり、それは桜形に弓を引きに行った帰りに見ました。



<こたつ城主 [関東] 2002/12/04(Wed) 19:58>

>ピンクのトカゲさま

亡命地だった点は、房総半島も同じようです(笑)。特に南朝の……という要素があったかどうかはわかりませんが。

熱田神宮は、流刑中の頼朝に何か援助をしてたのでしょうかね。

頼朝には兄も弟も居ますが、ちょっと検索してみた所、
「源頼朝」:http://www.jmca.net/booky/watanabe/002.html
(JMCA出版局:http://www.jmca.net/book.html→渡部昇一の「100人の指導者たち」より)
によると、頼朝の長兄、悪源太義平の母はどうやら不明なんですね。

@ 義平、A朝長、B頼朝、C義門、D希義、E範頼、F全成、G円成、H義経
だいたい、↑こんな具合に言われているんじゃないかと思いますが(諸説あるとも聞きます(^^;))、その母親で覚えているのは常盤御前ぐらいです。有名ですからね〜。

>今泉の裏切りがなければ、野田菅沼氏はなかったんじゃ〜
>野田富永氏だったのに、そうすれば、富永、奥平、菅沼で山家三方衆だったのに

だったのかもしれませんね(^^;)。

明智定明に嫁いだのは、定継定直兄弟の姉妹か、定継の孫の定利の姉らしいのですが、後者の方が時代的に合うかもしれません。
もっとも、定継の弟に定直と定氏がいて、定利は定直の子か、定氏の孫が定継の子の定忠の子として、養子に入ったかもしれません。

すいません。布里・雨山の戦いは出て来ました(^_^;)。物凄い骨肉の争いですね(汗)。
<島田菅沼氏>■織田:叔父孫大夫、■今川:甥定勝とその子、三照
<田峯菅沼氏>■織田:長男定継、次男某、■今川:三男定直、四男定氏、末子定仙
<野田菅沼氏>■織田:三男定円、四男定自、■今川:長男定村、次男定貴、五男定満
こうですか(汗)。

おふうを「信昌の前妻」とするのは、わりと出典関係がいい加減な本(と個人的には思うので、あえて著作名は出しません)です(笑)。
ただこれが土地の言い伝えだとしたら、後で家康の娘を貰った事をあまり良く思ってなかったのかなぁ、なんて(^_^;)。
 
     



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