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<KUBOさま
[北海道] 2002/09/23(Mon) 08:54>
>こたつ城主さん
> 師匠〜(TOT)。ここんとこ、お見限りじゃございませんか〜?!
いろいろ事情がありましてねえ〜 まあ詳しくはうちの掲示板でね(^^;)
>そういや『葵、徳川三代』やった時も、頼房(光圀のオヤジ)が、
>先に子が出来てドウチャラコウチャラ言うシーンがありました。
>頼重が生まれた時、尾張と紀州の徳川家に子が生まれてなか
>ったので、頼重を公表せず後で生まれた光圀を後継にしたっ
>てな成り行きだったようで……こゆ家なのね(^^;)。
> それにしても……み、水子ぉぉぉ〜(*O*)?! 待てや、こらっ!
この辺はちゃんと説明しないと誤解を生みそうですので書きますが、実は光圀自身 も本当は水子にされる運命だったんですよ。というのも光圀の父頼房には正室がなく、
というより持てなかったんです。
頼房の父家康晩年の側室で家康にもっとも可愛がられた英勝院という女性がいまし たが、彼女には子ができず家康に頼んで頼房を養子としていました。そして自分の息
のかかったお勝という女性を水戸城に入れ、このお勝が実質的に正室のかわりを果た していました。
しかしこのお勝よりも先にお久という側室の方に子ができてしまったのです。そこ でお勝は頼房にお久の堕胎を迫り、頼房もやむなくお久に水子に致せと言わざるを得
なかったのです。そこでお久は重臣の三木之次に相談して、こっそりと男児を産み縁 戚の京都の公家の家で養育してもらいました。これが長男の頼重でした。
その後お勝に男児ができたものの夭折し、その後再びお久が身籠もったため、再び 頼房に水子に致せと言われたお久は再び三木之次とはかりひそかに男児を出産しまし
ひそかに養育しました。これが長丸のちの光圀です。
その後、お勝にはのちの頼元が生まれ、水戸家の世子は頼元と一人合点していた所 に三木が養育している長丸は殿の子なので認知して欲しいと申し出たから大変!
結 局幕府は頼重は父頼房との対面を果たしておらぬという理由で却下し、光圀・頼元と その後生まれた頼利・頼雄の四人を候補としました。
そして付家老の中山信吉が四人の子と接見した結果、光圀が世子となったわけです。 光圀自身には何の罪もありませんが、物心が付くようになってからそうした出生の秘
密を知り、兄頼重に対し大きな負い目を感じていたようです。それが自分に子が生ま れても水戸家を継がせない、兄の子に継がせるという考えにつながったようです。
P.S.
ごめんなさい。光圀が頼常を水子にせよと言ったというのを何かで読んだ記憶があ ったのですが、手持ちの資料を見ても見つかりません。ひょっとすると父頼房と光圀
のことと間違えていたのかも...(^^;)
<こたつ城主 [関東]
2002/09/24(Tue) 18:05>
>のりちゃん様
>八幡様=応神天皇ってのも、だいたいが後世の付会かもしれ
>ませんからねぇ。
私はそう思ってます(爆)。黄門さまが八幡をタケハヅチに変えたってのは今回初耳でしたけど、その理由が応神天皇に関係あるとは……ちょっと思いにくいような(何らかの史観的「こじつけ」はあるにせよ(^^;))。
ところで「胎中天皇」って何ですか?
徳川吉宗を大河でやったぐらいだから、水戸黄門もやればいいのにね。私はこの人は結局、家康を理想とした気がするんですよね。それで「黄門サマの宗教」なんて言われると、「家康教かな(^_^;)」とちょっと思ったり……(笑)。
<こたつ城主 [関東]
2002/09/24(Tue) 18:09>
>日雲さま
八幡を嫌がった(?)理由は結局ハッキリしませんでしたが(八幡がわからないから仕方ないです(^^;))、社名や祭神を変えた独裁者(?)でも庶民に慕われる可能性は充分あると思いますよ?(笑)
だいたい地元の信仰を集める神様って、それが実在の人物をモデルにする場合、「自分達に善政を施してくれた」あるいは「自分達に悪政を強いた悪者をやっつけてくれた(やっつけようとして、やっつけられちゃった)」じゃないかな?
水戸黄門が善政者(例えばデカイ公共事業を持って来てくれても、それはその地域にとっては善政かもしれない(^^;))であれば、その史観や教育論についても「黄門サマの言う事だもん!」と信じる人も多い気がします。それを冷静な視点で検証するのは後世の仕事でしょうけどね。
もう一つ言うと、八幡は何のかんの言って九州の神様よね(^^;)。
>カカセオに追われて逃げたタケミカヅチがつまづいてコケた場所
>はここだ! とか、そんなもんわざわざ語り継ぐなよ、みたいな話とか。
>茨城県は日本一カッコ悪いタケミカヅチ伝説を残しているところ
じゃ、それが祀り変えの理由じゃないかな(笑)。タケハヅチを信仰する理由(例えば公式な系図には表れてないが、何らかの子孫の血筋にあたるとかいう奴ね(^^;))があったとしても、それを光圀が取り上げるとは何となく思いにくいです(笑)。
>元々はタケハヅチの社だったのが、いつの間にやら八幡に変わっ
>ちゃったから
>それを黄門サマがお戻しになった、みたいな……?
私もこれはありうると思います(^^)。
あと強いて言うなら、信仰対象となった期間の長さを尊重した、という線もあるかもよ?
>KUBOさま
いろいろ事情があるんですね〜(TOT)。。わかりました。また伺います〜。
頼房の閨閥にそんなワイドショーねたがあったとは(゚.゚)!! *ウヒョヒョ*
英勝院って確か、太田道灌の血筋だったような……?(太田氏ってだけだったかしら)
そうそう。英勝院には家康との間に女の子が生まれたんだけど、死んじゃうんですよね。それでだったかその前からだったか……何しろ頼房(の母には他にも男子が居たからって事だったような)を引き取って育てるんでしたよね。
なるほど。育ての母だから頼房の嫁に口出す権限を持ってたわけですね。頼房の奥さん達にしてみればお姑さんですね。「ワラワはこの嫁の方が好きじゃっ。この嫁の子を跡取りにしなさい!」なんてネ(笑)。
それが……別腹に二人も男の子が出来ちゃった(=^m^=)。そういうものよねぇ〜。
私が聞いた話では、尾張や紀伊より先に男子が生まれるのは御三家の格を乱す元となるから頼房が葬ろうとしたのを、英勝院が「死なすに忍びない」と引き取ってたゲにされてたけど、何が真相かわからないものですね〜(笑)。
>幕府は頼重は父頼房との対面を果たしておらぬという理由で却下し、
>光圀・頼元とその後生まれた頼利・頼雄の四人を候補としました。
という事は、頼重は頼房の死後、とつぜん公に出て来たって事かしら? 光圀は対面してた……って事になりますものね(゚.゚)。
>ひょっとすると父頼房と光圀のことと間違えていたのかも...(^^;)
そんなの大した事じゃありやせんゼ、師匠! 斎藤道三なんて、つい最近まで親子で一代だったじゃあ〜りませんか〜(^。^)。
あっ、イタイ! イテテ! おおっ、印籠が飛んで来たぁ〜っ(*O*)!
わー! 黄門サマが10人!(助さん格さんが20人!(^^;))
うぬぅ、おのれっ、やはり分身の術だったかぁぁぁ〜〜〜っっ!(謎)
<こたつ城主 [関東]
2002/09/24(Tue) 18:15>
題名:訂正
↑[7289]の、のりちゃんへのレスに間違いを発見(笑)。
>『大日本史料』編纂 ↑をしてるのは、東大史料編纂部ですよね(笑)。
正解は『大日本史』でした。スイマセン。
大日本史について、以下のサイトを見つけました。
大日本史概要2:http://users.hoops.ne.jp/kintaro2_2001/dainihoshi2.htm
(「きんたろうのHP」:http://users.hoops.ne.jp/kintaro2_2001/index.htmより)
↑三大特筆として、神宮皇后を后妃伝に入れ、大友皇子(弘文天皇)の即位を認め、南朝を正統とした、とあります。
ちと補足を……。
南朝を正当としたのは徳川氏が祖と唱える(実際はどうだか不明:笑)新田氏を正当化するためでしょう。信長は足利公方を追いやりました。家康の徳川氏は、信長の敵討ちをした秀吉に一度は臣下の礼を取ったのですから、今更「足利氏に同情路線」なんか取れっこありません(^^;)。その後の豊臣討伐の基本方針も「信長の路線を完遂するのは自分」しか無いです。天下を担った後の理論は必然的に「そもそも足利氏は天皇より政権を簒奪したが、新田氏なら簒奪しなかった(かも)」しかないのですね(笑)。
しかし実際には徳川は京に都を置かず、足利氏以上に朝廷を政権から追いやった(笑)。
これを「黄門サマ! どうにか帳尻あわせて下せぇ!」と宗家に泣きつかれたか、あるいは「ヘッ、苦労知らずのヘナチョコ公方めが、ワシに任しとけばいいんじゃ!」と自分から出張ったかはわかりませんが(汗)、「新田は正しい」→「南朝は正しい」→「後醍醐天皇は正しい」。これが幕末までに予想の枠を越えて、→「尊皇」→「倒幕」と(汗)。
でも茨城って複雑〜。一押し商品を作りにくい土地よね〜。
梅干し(=黄門)とおかか(=カカセオ)のおにぎりを八個(=八幡)、竹の葉(=タケハヅチ)でくるんで売れば一挙解決かなっ(^O^)?!←バカ?
<のりちゃんさま [近畿]
2002/09/24(Tue) 22:09>
胎中天皇ってのは、応神天皇なんですが、この天皇、父天皇
が亡くなった後、母皇后が即位しないまま、海外遠征にでち
ゃうんですね。
その時、応神天皇は、母の腹の中です。
そして、母は強し。遠征先で産気づくも、気力でこらえ、日
本帰還の後、無事出産するのでした。
母皇后は、即位してませんでしたから、この時の「天皇」は、
腹の中の御子だったってわけで、「胎中天皇」なんですよ。
すっごいすっごいすっごいすっごいす〜〜〜っごい不自然な
話なんですが、母親が不倫してんじゃなければ、遠征前に身
ごもらねばならないんですよね。
しょ〜がないなぁ。
多分、遠征期間は十月十日より短かったんでしょう。という
ことにしときましょう(^^ゞ
黄門様の南朝正統派説、まずは、「新田氏正当説」ありき、
なんですね。
黄門様も、なんだか複雑な人だなぁ。
<朱天さま [東海]
2002/09/24(Tue) 23:06>
はい法事で忙しゅうございました。
喪主なんかしたくねえと坊主丸儲けが今回学んだ事です(大笑)
いやどちらも大切な事なのは分ってるんですよ。
>徳川吉宗を大河でやったぐらいだから、水戸黄門もやればいいのにね
これは某民放ドラマとかぶるのでやりにくいんじゃないですか。 |
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