<掲示板・議事録>

八幡信仰と応神天皇(水戸黄門の祀り変え)、2

     
  <のりちゃんさま [近畿] 2002/09/21(Sat) 20:25>

相続の譲り合いってので、まず思いつくのが、八幡様こと応
神天皇の息子、仁徳天皇と菟道稚郎子なんですが、関係ある
かしら。

応神天皇は、弟の菟道稚郎子に譲位したかったんだけど、当
の菟道稚郎子が、「兄ちゃんの方が天皇に相応しい」と思っ
てるもんで、なかなか即位しない。
兄ちゃんの仁徳天皇も、「お父さんの考えが正しい」と思っ
てるので、菟道稚郎子絶対に即位させようとする。
そんなこんなで、菟道稚郎子は自殺しちゃう、という話なん
ですが、まぁ、この悲劇の元凶は応神天皇の、弟びいきと言
えるわけで。

関東の神社と関西の神社では多分、生い立ちや変遷の歴史が、
かな〜〜り違うと思います。
ただ、関西のことなら、それなりにすぐ動けるし、少しは勘
も働くんだけど、関東の方になると、まったく嗅覚きかない
ですねぇ。

でも、徳川光圀公が、南朝正統論者ってのは知りませんでし
た。それで楠公さんを慕ったのか。
そういう流れで行くと、タケハヅチの神と、楠公さんの関連
みたいなのを考えてみるのも、面白いかもしれませんね。



<KUBOさま [北海道] 2002/09/21(Sat) 20:52>

>こたつ城主さん
 ご無沙汰です。ちと補足をば...

>系図で確認すると自分の子は兄の養子にしてるんですね。子供
>の取り替えっこをした事になります。

 この件ですが、光圀の唯一の実子・頼常を最初光圀は水子にさせようとしたのですが、それを知った兄頼重が引き取って自分の養子にしたという話です。
 だいたい光圀は父頼房のたってのすすめで五摂家筆頭の近衛家から正室を迎えてますが、その婚礼のあとに妻に対して、「私は兄を差し置いて水戸家の嫡子になった身分だから、この婚礼はそもそも不本意だったのだ。もし、そなたに男子ができても、水戸家を継がせるわけにはいかない。」といったそうですから徹底してます。
  ていうか、やり過ぎじゃないかと私なんかは思っちゃいますけどね(^^;)



<こたつ城主 [関東] 2002/09/22(Sun) 19:35>

>のりちゃん様

>仁徳天皇と菟道稚郎子

はいはい! そちらの記事で読んだ覚えがあります。これもスゴイ話よね〜(^^;)。
黄門サマが「元凶のバカ親めっ!」と八幡を退けたか……。これは、かわりに仁徳天皇か菟道稚郎子を祭神にし直したのならハッキリするんですけどね。尊皇でそこまではせんでしょうが(^^;)。
しかしね〜、タケハヅチもカカセオを追い出したワケだし(黄門の時代にそこまで検証されたとも思いにくいけど)。これだって何らかの同族争いの可能性がある(婚姻関係ぐらいあって騙まし討ちとか。「腹を蹴ったら降参」ってトコが怪しい:爆)かもしれないし。

当時から「そもそも八幡って何(^^;)?」だったのもあるんじゃないかな。カカセオはもっと朝廷と関係なさそうだし。
八幡は戦神といわれてますが、鍛冶神、海神、焼畑神とも言われると、ココに↓。
八幡宮(片角):http://ww7.tiki.ne.jp/~agari/jisya-hatimannguu.html
(「風の便り」:http://ww7.tiki.ne.jp/~agari/mokuji.html#jisyaより)

私も関西に居ましたが、確かにどの時代に目を向けるかに東西の差は感じます。
水戸家に関しては、もともと将軍職後継から遠い点が挙げられます。最後の将軍慶喜は水戸家出身ですが、二度他家に養子入りした果てにですし、人材不足の折に難局を押し付けられた感じもします(^^;)。
副将軍というのも、黄門の頃には「将軍になれない代わり」という感じがします。こういう立場は能力のある人ほど不公平を感じやすいんじゃないかな。若い頃の放蕩ってのにそんな感じが……。能力があればこそ(反省能力も人一倍ありますから)、将軍に物言う立場に達したのでしょうが、それでも「野党」に変わりはありません。藩主の座についた幸運を思う事で、さらに頂点を夢見る自分を律し続けたのかもしれません。
「そもそも天皇が」という考えには、「でなければ自分が」という野心が裏返しにある証拠って感じもするんですけどね〜(^_^;)。←ズケズケ



<こたつ城主 [関東] 2002/09/22(Sun) 19:37>

>KUBOさま

師匠〜(TOT)。ここんとこ、お見限りじゃございませんか〜?!

そういや『葵、徳川三代』やった時も、頼房(光圀のオヤジ)が、先に子が出来てドウチャラコウチャラ言うシーンがありました。頼重が生まれた時、尾張と紀州の徳川家に子が生まれてなかったので、頼重を公表せず後で生まれた光圀を後継にしたってな成り行きだったようで……こゆ家なのね(^^;)。

それにしても……み、水子ぉぉぉ〜(*O*)?! 待てや、こらっ!

>やり過ぎじゃないかと私なんかは思っちゃいますけどね(^^;)

せやせや! 孕ませるだけ孕ませて、どゆ態度じゃっ、われっっ!



<のりちゃんさま [近畿] 2002/09/22(Sun) 22:54>

八幡様ってのも、確かに、いろんな性格がありますね。
八幡様=応神天皇ってのも、だいたいが後世の付会かもしれ
ませんからねぇ。
でも、八幡様=応神天皇と限定すれば、応神天皇は、「胎中
天皇」という別名もあったりします。
いろいろな特色がありますから、こじつければ、いろんな霊
験をひきだせそうですしねぇ。

その八幡様を水戸黄門がいやがったのは、なんかあるんでし
ょうね。

水戸黄門様の人間像、野心的であり理性的でもあり、と、聞
いていると、かなり魅力的ですねぇ。
常盤神社には参拝したんですよ。
もいっかい、栞読み直してみよう。



<日雲さま [関東] 2002/09/23(Mon) 04:30>

八幡を黄門が嫌がった……?
それで社名も祭神も変えるって、物凄い独裁者ぢゃないスか……?
そんな人が庶民に慕われたりするもんだろうか……?

>タケハヅチもカカセオを追い出したワケだし(黄門の時代にそこまで
>検証されたとも思いにくいけど)。

あ、時代のリアリティのあり方があり方ですから、現代的な意味での検証はされてなかったんでしょうけど、その一件にまつわる伝説は色々あったようなんですよ、茨城県内のそこここに。
カカセオに追われて逃げたタケミカヅチがつまづいてコケた場所はここだ! とか、そんなもんわざわざ語り継ぐなよ、みたいな話とか。
いつ頃から言われ出したことかは解りませんけど、御無礼ながら面白いは面白いですよね。日本一のタケミカヅチ信仰のお膝元だろうに、同時に茨城県は日本一カッコ悪いタケミカヅチ伝説を残しているところでもあるようで。

>かわりに仁徳天皇か菟道稚郎子を祭神にし直したのならハッキリ
>するんですけどね。

そうですよねえ。
八幡の方の問題もさることながら、何でタケハヅチだったのか。
水戸黄門にタケハヅチを強く信仰する理由が何かあったとか?
だとしても、そうしたら今度は、
「タケハヅチの法の問題もさることながら、何で八幡だったのか」
になっちゃうしなあ。
うーん、情報として俺が知らないだけで、旧に復した、とかだったのか?
つまり、元々はタケハヅチの社だったのが、いつの間にやら八幡に変わっちゃったから(或いは母屋取られるような形でひっくり返っちゃったから)、それを黄門サマがお戻しになった、みたいな……?
 
     

     
  <KUBOさま [北海道] 2002/09/23(Mon) 08:54>

>こたつ城主さん
> 師匠〜(TOT)。ここんとこ、お見限りじゃございませんか〜?!

 いろいろ事情がありましてねえ〜 まあ詳しくはうちの掲示板でね(^^;)

>そういや『葵、徳川三代』やった時も、頼房(光圀のオヤジ)が、
>先に子が出来てドウチャラコウチャラ言うシーンがありました。
>頼重が生まれた時、尾張と紀州の徳川家に子が生まれてなか
>ったので、頼重を公表せず後で生まれた光圀を後継にしたっ
>てな成り行きだったようで……こゆ家なのね(^^;)。
> それにしても……み、水子ぉぉぉ〜(*O*)?! 待てや、こらっ!

 この辺はちゃんと説明しないと誤解を生みそうですので書きますが、実は光圀自身 も本当は水子にされる運命だったんですよ。というのも光圀の父頼房には正室がなく、 というより持てなかったんです。
 頼房の父家康晩年の側室で家康にもっとも可愛がられた英勝院という女性がいまし たが、彼女には子ができず家康に頼んで頼房を養子としていました。そして自分の息 のかかったお勝という女性を水戸城に入れ、このお勝が実質的に正室のかわりを果た していました。
 しかしこのお勝よりも先にお久という側室の方に子ができてしまったのです。そこ でお勝は頼房にお久の堕胎を迫り、頼房もやむなくお久に水子に致せと言わざるを得 なかったのです。そこでお久は重臣の三木之次に相談して、こっそりと男児を産み縁 戚の京都の公家の家で養育してもらいました。これが長男の頼重でした。
 その後お勝に男児ができたものの夭折し、その後再びお久が身籠もったため、再び 頼房に水子に致せと言われたお久は再び三木之次とはかりひそかに男児を出産しまし ひそかに養育しました。これが長丸のちの光圀です。
 その後、お勝にはのちの頼元が生まれ、水戸家の世子は頼元と一人合点していた所 に三木が養育している長丸は殿の子なので認知して欲しいと申し出たから大変! 結 局幕府は頼重は父頼房との対面を果たしておらぬという理由で却下し、光圀・頼元と その後生まれた頼利・頼雄の四人を候補としました。
 そして付家老の中山信吉が四人の子と接見した結果、光圀が世子となったわけです。 光圀自身には何の罪もありませんが、物心が付くようになってからそうした出生の秘 密を知り、兄頼重に対し大きな負い目を感じていたようです。それが自分に子が生ま れても水戸家を継がせない、兄の子に継がせるという考えにつながったようです。

P.S.
 ごめんなさい。光圀が頼常を水子にせよと言ったというのを何かで読んだ記憶があ ったのですが、手持ちの資料を見ても見つかりません。ひょっとすると父頼房と光圀 のことと間違えていたのかも...(^^;)



<こたつ城主 [関東] 2002/09/24(Tue) 18:05>

>のりちゃん様

>八幡様=応神天皇ってのも、だいたいが後世の付会かもしれ
>ませんからねぇ。

私はそう思ってます(爆)。黄門さまが八幡をタケハヅチに変えたってのは今回初耳でしたけど、その理由が応神天皇に関係あるとは……ちょっと思いにくいような(何らかの史観的「こじつけ」はあるにせよ(^^;))。 ところで「胎中天皇」って何ですか?

徳川吉宗を大河でやったぐらいだから、水戸黄門もやればいいのにね。私はこの人は結局、家康を理想とした気がするんですよね。それで「黄門サマの宗教」なんて言われると、「家康教かな(^_^;)」とちょっと思ったり……(笑)。



<こたつ城主 [関東] 2002/09/24(Tue) 18:09>

>日雲さま

八幡を嫌がった(?)理由は結局ハッキリしませんでしたが(八幡がわからないから仕方ないです(^^;))、社名や祭神を変えた独裁者(?)でも庶民に慕われる可能性は充分あると思いますよ?(笑)
だいたい地元の信仰を集める神様って、それが実在の人物をモデルにする場合、「自分達に善政を施してくれた」あるいは「自分達に悪政を強いた悪者をやっつけてくれた(やっつけようとして、やっつけられちゃった)」じゃないかな?

水戸黄門が善政者(例えばデカイ公共事業を持って来てくれても、それはその地域にとっては善政かもしれない(^^;))であれば、その史観や教育論についても「黄門サマの言う事だもん!」と信じる人も多い気がします。それを冷静な視点で検証するのは後世の仕事でしょうけどね。

もう一つ言うと、八幡は何のかんの言って九州の神様よね(^^;)。

>カカセオに追われて逃げたタケミカヅチがつまづいてコケた場所
>はここだ! とか、そんなもんわざわざ語り継ぐなよ、みたいな話とか。
>茨城県は日本一カッコ悪いタケミカヅチ伝説を残しているところ

じゃ、それが祀り変えの理由じゃないかな(笑)。タケハヅチを信仰する理由(例えば公式な系図には表れてないが、何らかの子孫の血筋にあたるとかいう奴ね(^^;))があったとしても、それを光圀が取り上げるとは何となく思いにくいです(笑)。

>元々はタケハヅチの社だったのが、いつの間にやら八幡に変わっ
>ちゃったから
>それを黄門サマがお戻しになった、みたいな……?

私もこれはありうると思います(^^)。
あと強いて言うなら、信仰対象となった期間の長さを尊重した、という線もあるかもよ?


>KUBOさま

いろいろ事情があるんですね〜(TOT)。。わかりました。また伺います〜。

頼房の閨閥にそんなワイドショーねたがあったとは(゚.゚)!! *ウヒョヒョ*
英勝院って確か、太田道灌の血筋だったような……?(太田氏ってだけだったかしら)

そうそう。英勝院には家康との間に女の子が生まれたんだけど、死んじゃうんですよね。それでだったかその前からだったか……何しろ頼房(の母には他にも男子が居たからって事だったような)を引き取って育てるんでしたよね。
なるほど。育ての母だから頼房の嫁に口出す権限を持ってたわけですね。頼房の奥さん達にしてみればお姑さんですね。「ワラワはこの嫁の方が好きじゃっ。この嫁の子を跡取りにしなさい!」なんてネ(笑)。
それが……別腹に二人も男の子が出来ちゃった(=^m^=)。そういうものよねぇ〜。

私が聞いた話では、尾張や紀伊より先に男子が生まれるのは御三家の格を乱す元となるから頼房が葬ろうとしたのを、英勝院が「死なすに忍びない」と引き取ってたゲにされてたけど、何が真相かわからないものですね〜(笑)。

>幕府は頼重は父頼房との対面を果たしておらぬという理由で却下し、
>光圀・頼元とその後生まれた頼利・頼雄の四人を候補としました。

という事は、頼重は頼房の死後、とつぜん公に出て来たって事かしら? 光圀は対面してた……って事になりますものね(゚.゚)。

>ひょっとすると父頼房と光圀のことと間違えていたのかも...(^^;)

そんなの大した事じゃありやせんゼ、師匠! 斎藤道三なんて、つい最近まで親子で一代だったじゃあ〜りませんか〜(^。^)。
あっ、イタイ! イテテ! おおっ、印籠が飛んで来たぁ〜っ(*O*)!
わー! 黄門サマが10人!(助さん格さんが20人!(^^;))
うぬぅ、おのれっ、やはり分身の術だったかぁぁぁ〜〜〜っっ!(謎)



<こたつ城主 [関東] 2002/09/24(Tue) 18:15>

題名:訂正

↑[7289]の、のりちゃんへのレスに間違いを発見(笑)。

>『大日本史料』編纂 ↑をしてるのは、東大史料編纂部ですよね(笑)。
正解は『大日本史』でした。スイマセン。

大日本史について、以下のサイトを見つけました。
大日本史概要2:http://users.hoops.ne.jp/kintaro2_2001/dainihoshi2.htm
(「きんたろうのHP」:http://users.hoops.ne.jp/kintaro2_2001/index.htmより)
↑三大特筆として、神宮皇后を后妃伝に入れ、大友皇子(弘文天皇)の即位を認め、南朝を正統とした、とあります。

ちと補足を……。
南朝を正当としたのは徳川氏が祖と唱える(実際はどうだか不明:笑)新田氏を正当化するためでしょう。信長は足利公方を追いやりました。家康の徳川氏は、信長の敵討ちをした秀吉に一度は臣下の礼を取ったのですから、今更「足利氏に同情路線」なんか取れっこありません(^^;)。その後の豊臣討伐の基本方針も「信長の路線を完遂するのは自分」しか無いです。天下を担った後の理論は必然的に「そもそも足利氏は天皇より政権を簒奪したが、新田氏なら簒奪しなかった(かも)」しかないのですね(笑)。

しかし実際には徳川は京に都を置かず、足利氏以上に朝廷を政権から追いやった(笑)。
これを「黄門サマ! どうにか帳尻あわせて下せぇ!」と宗家に泣きつかれたか、あるいは「ヘッ、苦労知らずのヘナチョコ公方めが、ワシに任しとけばいいんじゃ!」と自分から出張ったかはわかりませんが(汗)、「新田は正しい」→「南朝は正しい」→「後醍醐天皇は正しい」。これが幕末までに予想の枠を越えて、→「尊皇」→「倒幕」と(汗)。

でも茨城って複雑〜。一押し商品を作りにくい土地よね〜。
梅干し(=黄門)とおかか(=カカセオ)のおにぎりを八個(=八幡)、竹の葉(=タケハヅチ)でくるんで売れば一挙解決かなっ(^O^)?!←バカ?



<のりちゃんさま [近畿] 2002/09/24(Tue) 22:09>

胎中天皇ってのは、応神天皇なんですが、この天皇、父天皇
が亡くなった後、母皇后が即位しないまま、海外遠征にでち
ゃうんですね。
その時、応神天皇は、母の腹の中です。
そして、母は強し。遠征先で産気づくも、気力でこらえ、日
本帰還の後、無事出産するのでした。
母皇后は、即位してませんでしたから、この時の「天皇」は、
腹の中の御子だったってわけで、「胎中天皇」なんですよ。
すっごいすっごいすっごいすっごいす〜〜〜っごい不自然な
話なんですが、母親が不倫してんじゃなければ、遠征前に身
ごもらねばならないんですよね。
しょ〜がないなぁ。
多分、遠征期間は十月十日より短かったんでしょう。という
ことにしときましょう(^^ゞ

黄門様の南朝正統派説、まずは、「新田氏正当説」ありき、
なんですね。

黄門様も、なんだか複雑な人だなぁ。



<朱天さま [東海] 2002/09/24(Tue) 23:06>

はい法事で忙しゅうございました。
喪主なんかしたくねえと坊主丸儲けが今回学んだ事です(大笑)
いやどちらも大切な事なのは分ってるんですよ。

>徳川吉宗を大河でやったぐらいだから、水戸黄門もやればいいのにね

これは某民放ドラマとかぶるのでやりにくいんじゃないですか。
 
     



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