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<ピンクのトカゲさま
[東海] 2002/08/23(Fri) 17:53>
>こたつさま
>あ、そんなすぐ傍なのね(゚.゚)。一色城は山? 全部見たら何時間ぐらいかかります?
今川義元公や一色時家の墓のある大聖寺は、元々、一色城内にありました。一色城は、平城でそれで土塁が築かれています。弊サイトのインデックスの下のほうに「地図・系図」というのがあります。そこをクリックして、「地図五」をクリックすると、牛窪古城図が載せてあります。城下町の形式を取っています。1500年代初頭ですから城下町としては、古い部類に入ると思います。義元公の墓、時家の墓、土塁全部見ても所要時間は、5分とかかりません。
>勘助の存在が否定されたのは、「甲陽軍鑑は怪しい」の連呼になった
>時代があったらしく
確かに誇張はあったでしょうが、人物まで想像したというのは早計ですよね。そんなこといったら、記紀なんか講談より怪しいですから
<こたつ城主 [関東]
2002/08/26(Mon) 19:07>
>ピンクのトカゲさま
一色城は平城なんですね。1400年代後半〜1500年代初めごろには、東京の方でも小高い丘の上に城がありました(^^)。城下町もあったんでしょうね。
地図拝見しました。ご自分で作られたのですね(゚.゚)。大聖寺は本当に本丸のすぐ側で……それと本当に「山本」という家が多かったのですね!
勘助が創作された人物という話も、山本や勘助という名が世間で多いので、「何野タレ兵衛」と同じレベルと思われちゃったのでしょうかね。
<ピンクのトカゲさま
[東海] 2002/08/26(Mon) 19:56>
>こたつさま
>一色城は平城なんですね。1400年代後半〜1500年代初めごろには、
>東京の方でも小高い丘の上に城がありました(^^)。城下町もあったんでしょうね。
城下町としては、最古の部類に入るようです。今でも大聖寺あたりをはじめ、牛久保全体の道が曲尺手になっています。地図の4なども参照してください。
>地図拝見しました。ご自分で作られたのですね(゚.゚)。大聖寺は本当に本丸
>のすぐ側で……それと本当に「山本」という家が多かったのですね!
元となる地図は、あったんですが、コピ−をアップしても何かわからなくなりそうだから、地図だけはヘタながらも全部自作しました。地図のほぼ中央の大林勘左ヱ門が勘助の養父の家です。地図の上部の若宮というのが、現在の牛久保八幡社で、その東側の現在の中条町は、明治までは、鍛冶村でした。この中条の祭礼には、手筒が奉揚されるんですが、鉄砲の火薬の研究のために家康が煙火の研究を許可したってことになっています。
牛久保城本丸東の稲垣殿なんて今でも続いているんですよ。御当主は、うちの親父より一つ上で、息子は、オレより二つ上で一緒にお祭りやってます。
御当主のいうことが振るっちゃうんです。古地図に出てるのに、うちは、伊勢から来たから元々牛久保じゃないとかいうんですよ。
>勘助が創作された人物という話も、山本や勘助という名が世間で多いので、
>「何野タレ兵衛」と同じレベルと思われちゃったのでしょうかね。
今でも山本家は多いですよ。
<こたつ城主 [関東]
2002/08/27(Tue) 19:55>
>ピンクのトカゲさま
城下町自体が当時は新しいものですものね。城の周囲は適当に天然の要塞だったり、屋形屋敷の周囲は、関東だと放牧地だったりしたんだろうなぁ。
自作の地図、スバラシイ(^^)。 *パチパチパチ*
鬼門に牛頭天王、裏鬼門に弁天と熊野権現。一色城と牛窪城はセットで機能してたんでしょうかね。
鉄砲持参を郷民に許可した地域って、結構ほうぼうにあるんですかね。東京だと多摩のあたり。こないだ行った箱根もそうでした。
>うちは、伊勢から来たから元々牛久保じゃないとかいうんですよ。
よく京の人のエピソードで、「こないだの戦争」って言うのを太平洋戦争だと思って聞いてたら、応仁の乱の事だったってのがありますよね(^_^;)。
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