<掲示板・議事録>

山本勘助遺髪塚と豊橋吉田城、2

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/21(Wed) 16:49>

>こたつさま

>牛久保って地名は、やはり最初「山本勘助の出身地」として認識した地名です(笑)。

自分のサイトでは、古代に力いれちゃってるけど、周りを見渡せば、牛久保ってけっこう戦国なんだよね。
山本勘助は、遺髪塚(勘助が入道したときの遺髪)なんだけど、自分らが、お祭りの練習(呑むの8で笛は2だから、決して笛の練習とはいいません。)している牛頭山大聖寺は、一色城跡で土塁も残ってるし、桶狭間で敗れた今川義元公の胴塚もあります。
でも、大聖寺も観光バス止まれるような駐車場ないし、第一、至るまでの道で普通車がすれ違えれない。あぁっ、案内板もでてなかったな!
皆様、今川義元公胴塚お越しの際は、ご一報ください。ご案内いたします。

>だもんで、大河で武田信玄をやる時に旗を掲げるのは抜群の売り方ではないでしょうか。

大聖寺は、大河ドラマとかやっても旗もなびかない。無住だから仕方ないか。

>ありゃ! 長瀬って地名は丸子にもありますね。

母の実家は、例の菅沼家に滅ぼされたって言うトミナガ家でして、亡くなった母方の祖父によれば、トミナガの姓のいわれは、神武東征伐に敗れたトミノナガスネヒコの「トミ・ナガ」だそうです。長瀬もナガスネヒコのナガスネが訛ってナガセになったといっていました。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/21(Wed) 16:59>

雅さま

>あ、なるほど!それで山本勘助ですか!

勘助の出身は、正確には、八名郡の賀茂(現豊橋市賀茂町)みたいですが、牛窪の大林家に養子に入って、その後、山本姓に戻ったみたいです。
牛久保の山本姓というと山本五十六の山本姓なんかも長岡ですから関係があるんじゃないかと思います。

>>村上さんというと下条ですか?

>上記レスの通り全然付き合いがないもので。。。
多分そこです(汗)

あと、老津にも村上姓がありますよ。

>なぜか市電の方ばかり興味をもっていたので

夏になると市電でビール電車やるんですよ。市電の往復期間、ビール飲み放題っていうやつ、動くビヤガーデンです。



<こたつ城主 [関東] 2002/08/22(Thu) 17:55>

>ピンクのトカゲさま

>お祭りの練習(呑むの8で笛は2だから、決して笛の練習とはいいません。)

わははは! 祭りじゃなきゃ飲まない人は「飲む練習」も必要無いしね(笑)。

しかし今川義元の胴塚があったなんて……(゚.゚)。結構ウハウハな場所じゃないですかっ!(←途端にコレだ) 出て来ました。↓コレです。
今川義元公墓所 :http://www.city.toyokawa.aichi.jp/manyu/rekisi4.html
他にもいっぱい載ってるサイトがありました。この墓の隣は、前にお話に聞いた一色時家の墓だとか?

あと山本勘助の墓も出て来ましたよ。勘助の出身が牛久保という説は、その遺髪によるんじゃないかしら?
勘助も謎の多い人物で、一度は「史実に無い、講談上の創作」って否定されちゃったんですが、北海道の子孫の人が史料を提出して、まあ講談に言われるような軍師だったかはともかく、実在したのがわかったらしいです。

>長瀬もナガスネヒコのナガスネが訛ってナガセになった

なるほど(゚.゚)。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/22(Thu) 19:41>

>こたつさま

>しかし今川義元の胴塚があったなんて……(゚.゚)。結構ウハウハな場所じゃないですかっ!

他にも設楽原合戦の前々日ぐらいには、織田―徳川連合軍は、牛久保に
で、上善寺の門には葵紋、牛久保のお宮には、家康寄進の刀が

>この墓の隣は、前にお話に聞いた一色時家の墓だとか?

手前右に一色刑部時家の墓があります。一色時家の墓の裏から義元の墓の裏にかけては一色城の土塁の跡です。

>あと山本勘助の墓も出て来ましたよ。勘助の出身が牛久保という説は、
>その遺髪によるんじゃないかしら?

賀茂の山本家ということになっていますが、牛久保にも山本家があり、牛久保の山本家が賀茂に移ったっていうことも考えられます。

>勘助も謎の多い人物で、一度は「史実に無い、講談上の創作」って否定され
>ちゃったんですが、北海道の子孫の人が史料を提出して、まあ講談に
>言われるような軍師だったかはともかく、実在したのがわかったらしいです。

江戸期の牛久保の資料にも勘助の遺髪塚は載ってます。



<こたつ城主 [関東] 2002/08/23(Fri) 17:16>

>ピンクのトカゲさま

そう。考えてみれば三河ですものね。戦国いっぱいな土地ですよね。その分ムチャクチャにされた部分もあるかもしれませんが(^_^;)。

>一色時家の墓の裏から義元の墓の裏にかけては一色城の土塁の跡です。

あ、そんなすぐ傍なのね(゚.゚)。一色城は山? 全部見たら何時間ぐらいかかります?

勘助の存在が否定されたのは、「甲陽軍鑑は怪しい」の連呼になった時代があったらしく、これの煽りで完全な想像上の人物とされちゃったんですが、軍使として「山本管助」の名が登場する史料が出て来て(講談の人物と一致するかはわかりませんが)、少なくても実在ではあるようです。↓
市河文書:http://www.city.kushiro.hokkaido.jp/sg-sinkou/bunkazai/data/bunkazai15.html
(「釧路市HP」:http://www.city.kushiro.hokkaido.jpより)
 
     

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/23(Fri) 17:53>

>こたつさま

>あ、そんなすぐ傍なのね(゚.゚)。一色城は山? 全部見たら何時間ぐらいかかります?

今川義元公や一色時家の墓のある大聖寺は、元々、一色城内にありました。一色城は、平城でそれで土塁が築かれています。弊サイトのインデックスの下のほうに「地図・系図」というのがあります。そこをクリックして、「地図五」をクリックすると、牛窪古城図が載せてあります。城下町の形式を取っています。1500年代初頭ですから城下町としては、古い部類に入ると思います。義元公の墓、時家の墓、土塁全部見ても所要時間は、5分とかかりません。

>勘助の存在が否定されたのは、「甲陽軍鑑は怪しい」の連呼になった
>時代があったらしく

確かに誇張はあったでしょうが、人物まで想像したというのは早計ですよね。そんなこといったら、記紀なんか講談より怪しいですから



<こたつ城主 [関東] 2002/08/26(Mon) 19:07>

>ピンクのトカゲさま

一色城は平城なんですね。1400年代後半〜1500年代初めごろには、東京の方でも小高い丘の上に城がありました(^^)。城下町もあったんでしょうね。
地図拝見しました。ご自分で作られたのですね(゚.゚)。大聖寺は本当に本丸のすぐ側で……それと本当に「山本」という家が多かったのですね!
勘助が創作された人物という話も、山本や勘助という名が世間で多いので、「何野タレ兵衛」と同じレベルと思われちゃったのでしょうかね。



<ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/26(Mon) 19:56>

>こたつさま

>一色城は平城なんですね。1400年代後半〜1500年代初めごろには、
>東京の方でも小高い丘の上に城がありました(^^)。城下町もあったんでしょうね。

城下町としては、最古の部類に入るようです。今でも大聖寺あたりをはじめ、牛久保全体の道が曲尺手になっています。地図の4なども参照してください。

>地図拝見しました。ご自分で作られたのですね(゚.゚)。大聖寺は本当に本丸
>のすぐ側で……それと本当に「山本」という家が多かったのですね!

元となる地図は、あったんですが、コピ−をアップしても何かわからなくなりそうだから、地図だけはヘタながらも全部自作しました。地図のほぼ中央の大林勘左ヱ門が勘助の養父の家です。地図の上部の若宮というのが、現在の牛久保八幡社で、その東側の現在の中条町は、明治までは、鍛冶村でした。この中条の祭礼には、手筒が奉揚されるんですが、鉄砲の火薬の研究のために家康が煙火の研究を許可したってことになっています。
牛久保城本丸東の稲垣殿なんて今でも続いているんですよ。御当主は、うちの親父より一つ上で、息子は、オレより二つ上で一緒にお祭りやってます。
御当主のいうことが振るっちゃうんです。古地図に出てるのに、うちは、伊勢から来たから元々牛久保じゃないとかいうんですよ。

>勘助が創作された人物という話も、山本や勘助という名が世間で多いので、
>「何野タレ兵衛」と同じレベルと思われちゃったのでしょうかね。

今でも山本家は多いですよ。



<こたつ城主 [関東] 2002/08/27(Tue) 19:55>

>ピンクのトカゲさま

城下町自体が当時は新しいものですものね。城の周囲は適当に天然の要塞だったり、屋形屋敷の周囲は、関東だと放牧地だったりしたんだろうなぁ。

自作の地図、スバラシイ(^^)。 *パチパチパチ*
鬼門に牛頭天王、裏鬼門に弁天と熊野権現。一色城と牛窪城はセットで機能してたんでしょうかね。
鉄砲持参を郷民に許可した地域って、結構ほうぼうにあるんですかね。東京だと多摩のあたり。こないだ行った箱根もそうでした。

>うちは、伊勢から来たから元々牛久保じゃないとかいうんですよ。

よく京の人のエピソードで、「こないだの戦争」って言うのを太平洋戦争だと思って聞いてたら、応仁の乱の事だったってのがありますよね(^_^;)。
 
     

     
  <ピンクのトカゲさま [東海] 2002/08/28(Wed) 17:10>

>こたつさま

>城下町自体が当時は新しいものですものね。城の周囲は適当に天然の
>要塞だったり、屋形屋敷の周囲は、関東だと放牧地だったりしたんだろうなぁ。

牛久保城の本丸が現在のJR飯田線牛久保駅あたりになります。また、大聖寺の南にJR飯田線が通っているんですが、この飯田線の南側は縄文海進の名残の段丘崖になっています。現在では、土壌改良が進みそうでもないんですが、私が子供の頃は、腰あたりまで沈む深田でした。ですから、城の南方は、天然の要塞であったといえます。

>自作の地図、スバラシイ(^^)。 *パチパチパチ*

お褒めに預かり光栄です。ヘタなりに描いたかいがありました。

>鬼門に牛頭天王、裏鬼門に弁天と熊野権現。一色城と牛窪城はセットで
>機能してたんでしょうかね。

享禄二(一五二九)年、一色城主・牧野成勝が、吉田城主・牧野信成の命を受けて、一色城の西に牛久保城を築城します。城主には、牧野出羽守保成が、城主となり、牛窪を牛久保に改めます。一色城主・成勝の曾孫が越前長岡藩祖・康成です。以来、天正一八(一五九〇)年、家康が関東移封にされるまで牛久保城が牧野氏の居城となります。

>鉄砲持参を郷民に許可した地域って、結構ほうぼうにあるんですかね。
>東京だと多摩のあたり。こないだ行った箱根もそうでした。

戦国時代から許可されて、そのまま続いていたって云うのは珍しいんじゃないかと思います。あと、前にも書きましたが、弓の携帯も許可されています。



<さま [関東] 2002/08/29(Thu) 22:12>

山本勘助ネタ
ある雑誌によると、一説に勘助の生国は駿河の山本村(現、富士宮市)であったとか・・・現地には生家の吉野家が
現存してる。その後、勘助は三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林氏の養子となったが、感ずるところがあり、旧姓に戻りって生国にもどったとか・・・・
うーん。謎だ(爆)



<TORAさま [地球外] 2002/08/30(Fri) 01:51>

勘介と言えば・・・
わたしは渡辺勝正氏の『山本勘介の謎』にて検証されている
讃岐出身説が好きですなあ。
「三州浪人・山本勘介」ではなくて実は
「讃州浪人・山本勘介」だったのだとか何とか。
んで大内氏に仕えていたが出奔して武田家に。
いやはや何とも・・・

ちなみに山県昌景は飯富虎昌の弟ではなくて甥だとか、
興味深いネタが多い本ですな。



<こたつ城主 [関東] 2002/08/30(Fri) 19:39>

>ピンクのトカゲさま

縄文海進って何ですか(゚.゚)。前は海(か河)に沈んでたとか?
天然の要害というのは、城の南方には水があって攻められないという意味ですよね?

>ヘタなりに描いたかいがありました。

こういうのって作ってみようと思う事自体が大事ですよね(^^)。アンド、こんな仕事が出来たらいいでしょうね〜(笑)。

牛久保城の創建にちなむ話ですが、一色城主より吉田城主の方が格が上なんですか? 吉田城の牧野氏の方が本家(宗家)とか?

>戦国時代から許可されて、そのまま続いていたって云うのは珍しい
>んじゃないかと思います。あと、前にも書きましたが、弓の携帯も
>許可されています。

言われてみれば戦国時代以来というのはあまり聞きませんね。郷民への鉄砲許可制の先駆けとなったのかしら。



<こたつ城主 [関東] 2002/08/30(Fri) 19:41>

>雅さま

勘助が駿河出身という話は私は初耳でした(あれ? 知ってはいたけど忘れただけか?←私によくある状況:笑)。
しかし山本村は知らないなぁ。じゃ勘助ってホントに養子になったとかいう話があるんですね(゚.゚)。
ん? 富士宮って確かヤキソバ屋が多いってトコじゃないかったっけ?(爆)←ズレズレ



<こたつ城主 [関東] 2002/08/30(Fri) 19:43>

>TORAさま

うん。私も讃岐出身説は聞いた事あります。誰が言い始めた?って思ってたけど、そんなちゃんとした本(だよね?)に書かれている話だったのね(^_^;)。ただそのカラクリ(?)の根拠が、↓

>「三州浪人・山本勘介」ではなくて実は
>「讃州浪人・山本勘介」だったのだとか何とか。

とは知らなかった!
大内氏に仕えてたぁ〜? そこからどうやって甲州武田氏に……(汗)。

>ちなみに山県昌景は飯富虎昌の弟ではなくて甥だとか、

へ〜(゚.゚)。こっちはそういう事の一つもあっておかしくない気が。
 
     



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